□明くる夜


とんとん。
遠慮がちに肩の端を叩かれた生江が反射的に振り返る。
「よう」
そう言って歯を見せて笑ったのは例の高橋だった。
一体今更何の用だ。試合の決着ならとっくに着いているし、挙句勝利を攫ったのは他でもない高橋啓介本人なのだからここで自分に文句を言われるのもそれこそお門違いな話である。それなら何だ、自分の不注意で愛機に傷を負わせた事をこの期に及んでまだ咎めようとでもするつもりなのか。
いずれにしろそれらが自分にとってあまり気の良い話柄でないのは明らかである。
「…なにか?」
生江はあらゆる小言の全てと若干の恨みを込めて対応した。
「不機嫌そうだな。俺が勝ったのがそんなに気に食わないかよ」
「別に…」
「そうは見えねぇけどな。良いぜ。言いたい事があるなら言ってみろ」
「ないってば。それより言いたい事があるのはあなたの方じゃないの?用が無いなら帰りたいんだけど」
「つれないな…。AW、窓の修理にどんくらいかかる?」
「なんで?」
「いいから答えろって」
「一週間前後…だと思うけど」
「良し。おまえ、来週の週末は空けとけよ。絶対な」
「は?」
「どうせ暇だろ?ああ、どうしても忙しいってなら時間ぐらい都合してやってもいいけど」
「いや、そうじゃなくって」
「なんだよ」
「それはこっちの台詞なんだけど…。一体どういうつもり?」
「バトルしましょうっつってんの。言っておくけど拒否権はなし」
「あなたね…」
実に露骨に嫌そうな顔をした生江を見るなり高橋は不思議そうに首を傾げた。
何か問題でもありますかとでも言いたげな顔で、どうでも良いがこいつの周りの人間はそれなりに苦労してるんだろうな。
さっき試合の交渉にいらした見るからに人の良さそうな青年とは相反し、この男はそれなりの経歴ではあるのにどうしてか営業の下手ないつまでも平社員のよくあるサラリーマンのそれだった。
「場所は?」
そこまで強引に進めるか。生江は今度こそ頭を抱えた。
「誰も良いなんて一言も言ってないんだけど」
「言っただろ、拒否権ないって。希望があるなら合わせるぜ」
「あのねえ」
「おまえって意外と優柔不断な性質か?めんどくせぇな…無いなら勝手に決めるぞ」
そうして日付と時間だけを言い残して勝手な自己解決に事を済ませた高橋はそのままふらふらと何処かへ姿を消してしまい、文句の一つでも言ってやろうと目で姿を追っても既にそれらしい人影は見つからない。人格者の兄様の面影は何処へやら、なんて奴だ。
生江はやりどころの無い苛立ちに任せて掌に爪を立てたが、結局その拳のやりどころすら無く、代わりに肩で一つ息を吐くとなんだか妙に落ち着いてしまった。そして一度落ち着いてしまうと先の怒りが再び戻る訳でもないのがまた癪だ。
「高橋啓介…」
地獄から這い出て来たような声でそう呼ばわるのが、生江の些細な、その場凌ぎに過ぎないせめてもの反抗だった。





かくして生江は気乗りしないまでもちょっとした好奇心を浮かせながらAWを転がして長尾に繰り出した。
案の定と言うかなんと言うか、律儀にもこちらのホームコースを提案した高橋のそれをやんわりと断り、地の利の感じさせない長尾でならと結局手を打ってしまった。自ら好き好んでその手の賭け事に噛み付く走り屋なんてのはどこも大体そんなものだろう。かと言ってそれを負けた際の言い逃れに使うつもりもないけれど。
「はー」
生江はステアに突っ伏してうろんげな目で計器盤を睨む。ここまでの話の経緯は百歩譲って仕方ないと割り切って、しかし別の問題が発生した。
高橋啓介が来ない。
強引に取り付けられた時間に、それでも窓ガラスの件でお世話になったよしみできっちりと出向いてやったと言うのに当の本人が居ないのでは話にもならない。馬鹿げている。
一時間半の苦悩も手伝ってそろそろ本気で帰ろうかと思い始めた頃、懐で携帯が鳴った。深夜に活動する走り屋たちのそれらしい車すら見当たらないような常識外れの時間帯にわざわざ連絡を寄越すとはそれこそ一体何の用だ。生江は高橋啓介の遅刻も手伝って更に頭にキていた。
画面を確認するのも疲れるような精神状態で、己の不機嫌を隠そうともせずに電話に出る。
「もしもし…」
『生江か?なんだ起きてたのか』
妙に聞き覚えのある声に生江は音も無く顔を顰めた。
皆川英雄。変に好戦的で事ある毎に出てくるお誘い文句も最初のうちこそ軽くあしらえど、もういい加減にやめませんか。
「……ご用件は?」
『随分やつれた声色だな。そんなに嫌われたのか、オレは』
「用がないなら切るけど」
『まあ待て。生江おまえ、今どこに居る?』
「さあね」
『真面目に答えろ』
「私がどこに居ようとあなたに関係ないでしょうが」
『やけに静かだが、まさかこの時間にご出勤か?…相手は誰だ』
「別にあなたに厄介になるような真似はしないからご安心を。放っておいてくれる」
皆川の次の言葉を聞く前に荒々しく電話を切り、電源を落としてそのまま助手席へと放り投げた。投げて前に向き直ると今度はコツコツと運転席側の窓を叩かれたので生江がうんざりと顔を上げると、人をこれだけ待たせておいてその癖に悪びれる風もない高橋が相変わらずの佇まいでそこに居た。
生江は思わずドアを開けて外に飛び出し、啓介に食ってかかる。
「あなた今何時だと思ってる訳」
恐ろしく不機嫌な生江を見て啓介の額にちょっと嫌な汗が浮かんだ。
「悪い。ちょっと予定が詰まっちまってよ…」
「私の予定も詰まってるんだけど。一体どれだけ面の皮が厚いのよ!」
「本当に悪かったって。まさか本当に待っててくれるとは思ってなかったけどな」
「何が言いたいのかしら」
「意外と律儀なんだなぁって」
「そんな言葉で救われてやるほど機嫌良く見えます?生憎今はそういう精神状態じゃないから」
「根に持つタイプか…で、どうする?そんなに嫌なら日を改めても良いけど」
「いいわよ、もう来ちゃったし。さっさと始めましょう」
「…つーか、本当にここで良いのかよ。負けても文句は言わせないぜ」
「いいのよ。私が勝っちゃったら困るから。それにあなた、今度皆川との試合を控えてるんでしょう?この試合ついでに下見も出来るしね」
「皆川って誰だよ」
「レーシングチームカタギリ。サーキットでも名前くらいなら聞いた事あるでしょう?」
「ふーん……で、どういう風の吹き回しだ?」
「うん?」
生江は至極真っ当な顔で瞬いた。
「その言い方だとおまえ、オレにも利があるような言い回しだけど」
「だってそうじゃない。どうせやるんだったら何かメリットがあった方が良いもの」
「そりゃそうだけど。普通そういうのって地元を応援するもんじゃないのかなと思って」
「別に。ただ、あの皆川英雄って男が気に入らないだけ。それならあなたが勝ったくれた方がまだマシだもの」
「意味わかんねぇよ…」
啓介は項垂れた。
「さて、それでどうする?」
プロジェクトDとの試合としてでは無く個人的なお付き合いという名目で今日と言う日に臨んで来た為、見物人らしい見物人もなくスタートに問題が生じてしまった。さすがにここまでは視野に入れていなかった。
「…そっちが先行でいいわ。一応地元と言えば地元だし。あっさり勝っちゃってもつまらないから」
「大層な理由だな。じゃあ、遠慮なく先行かせてもらうぜ」
「はいはい」
「ああ、それと」
啓介がFDを回り込んでそのままクルマを挟んで生江を呼ばわる。
「折角だから何か賭けようぜ」
「はあ?」
途端に生江が渋い顔をした。この期に及んでまだ何か。
「良いじゃん。こういうのって雰囲気づくりが大事だからさ」
「もう好きにして」
「じゃあ朝飯でどうよ。勝った方が奢りな」
そう言って笑った啓介はさっさと運転席に収まってしまい、ああまた面倒事が一つ増えたな。一人項垂れた生江も今度こそAWに乗り込んだ。

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