□夏の端っこ


「…あら」
最終コーナー付近で愛車の窓ガラスを労りながら呑気に構えて居た生江の前を例のFDが風を切って通過した。
少し遅れて小早川のCT9Aも綺麗にリアを流して突っ切る。
長く生きていればこんな珍しい事だってあるものだ。幾らあの小早川と言えど急な代役の仰せに心の準備だとか、そう言ったものがどこかにあったりするのかもしれない。当の本人がそう言った理屈を嫌うのは百も承知で、思ったところで誰も口にはしないのだけれど。
そのまま滑り込んだ見慣れた車体から大分よれっとしたオーナーが降りてきた。実にお疲れのようだった。
「何があったのって聞いても良いのかしら」
横目で小早川を伺いながら何とはなしに訪ねる。
「…道幅も狭く視界も悪い区間に突入したところでちょっと油断した。右の中速ベントに突入しようとするFDの挙動が変わって、それきりだ」
「そこから7秒も?」
「あぁ」
「ふーん」
訊いておきながらさして興味もなさげな生江の態度に今度は小早川が痺れを切らした。言おうか言うまいか散々悩んだ挙句だが、結局気になるものは気になるのだ。
「……おまえ、最初っから俺が勝てないと思ってただろ」
「どうして?」
「負けた割には妙に納得したような顔だったから」
「それはちょっと勘繰り過ぎよ」
「どうかな」
そう言って鼻で嗤う。
別に最初から諦めていた訳でもない。ただ、以前から名と噂だけは耳にした事のあるあの男、高橋啓介。耳にした事があるだけに、その器が計り知れない以上試合の成り行きが怪しいかなとは踏んでは居たけれど。
だがしかしそれが絶対と言う絶対的な確信も、そしてこれほどの大差をつけられるともまさか思ってはなかった。これは事実だ。
「そこまで速いとは思ってなかったけど…。弟であれだけの走りをするんだものね」
「気になるのは兄の方かよ。確かに速そうだけど、あいつ走るのか」
「どうかしら」
「何だよ、何か知ってそうだな」
「ちょっとね。それらしい噂を小耳に挟んだもので」
「ふーん…」
深い溜息を一つ吐いて小早川はそれきり黙り込んだ。このタイミングで黙られるのもどうかと思うがしかし掛ける言葉も見つからない。
さてどうしたものか。
これが勝利の余韻ならばそれはまた別の話なのだが、生憎それとは正反対のなんとも居た堪れない冷たさを感じる空気に苦悩しているうちに生江の携帯が鳴った。
救いの手を差し伸べてくださったその誰かに感謝しながらそのまま電話に出る。
「もしもし」
『生江、オレだ。この後暇か?』
豪だった。
「また随分と急に…」
『暇かって訊いてんだよ』
「はいはい暇ですけど何か」
『どっか飯行こうぜ。そこまで迎えに行くから』
「足ならあるけど」
『どうせ板金だろ?そのまま乗っけてってやるって』
「あぁ、うん」
なんで知ってるんだ。選手交代の話だけならまだわからなくもないが、そこまでの委細についてまで情報が回るにしてはどうも早すぎやしないか。どうせご自慢の草の根情報網には違いないんだろうけれど。
電話を切って振り返ると何やら物言いたげな目でこちらを凝視する小早川に若干イラっとしつつもそこは黙った。黙っておいた。
「最近おまえらよく一緒に居るよな。付き合ってんのか?」
「別にそういうのじゃないわよ」
小早川が口を開いて何か言い掛けたが生江が別れの挨拶で押し潰す事によって回避された。





「なぁアニキ」
「なんだ?」
最終コーナー付近でダウンヒルの二台を思いの外やたらと静かに待ち構えて居た啓介がふと口を開いた。こういう時は大体険しい峠事情かそれに近しい話柄なのが良くわかる。そうは言っても可愛い弟の手前それを無下にする事も出来ず結局涼介は顔を上げた。上げてしまったのがいけなかった。
「あのAWの女いるじゃん」
「気になるのか」
「あー」
煮え切らない返事だがつまるところはそういう事なのだろう。
珍しく啓介が気に掛けているのはその実力の程なのか、それとも人間としての方なのか。どちらかと言えばこの流れに適しているのは何とはなしに後者のような気がしてならないから手に負えない。
「…そうだな。期待通りの走りはしてくれると思うぜ」
しかしそう直球で行くのもなんだかなと敢えて素知らぬ振りをしてみたのだが、
「あいつの事知ってんの?」
そうなるか。
「相手の情報くらい調べておくさ。それとも訊きたいのは彼女の身の上の方か?」
「何が言いたいんだよ…」
「さあ?」
「…オレ、一回あいつと走ってみてぇんだけど」
「そういうのは本人に直接言ったらどうだ」
「どうも取り合ってくれそうにないから」
「オレだと取り合ってくれると、そうとでも言いたいのかおまえは」
「なんとなくだけどな」
啓介がこの手の情報に興味を示したのは数える程で、そもそも試合には勝利したのに素性も知らぬ相手とわざわざやり合おうなんてそんな事をのたまうのは本当に珍しい例な訳で。だからついつい余計な事まで言ってしまうのがいけないのだ。そんな事はわかっている。
「心配する程甲斐性無しな奴じゃあないさ。快くとまではいかなくても引き受けてはくれる筈だぜ」
「よく知ってんのな」
声色から何とはなしに伺った啓介はちょっと嫌そうな顔だった。

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