意識がぼんやりとしていた。例えるならば、水の中を浮遊するような。音も遠く、身体も軽く、ただ無重力の中を漂うような、曖昧な感覚に浸っていた。
「稀咲?」
はっと意識が引き戻される。まるで白昼夢から目を覚ましたような感覚だった。さっきまでぼんやりとして意識は消え、今ははっきりと鮮明に目の前が映る。空は夕暮れで赤く染まり、吹き付ける風は生温く、土手に生える草が揺れる。
俺の意識を引き戻したその声を辿るように視線を向けると、隣に座った小鳥遊が俺の顔を覗き込んでいた。そうして不思議そうな眼差しを俺に向けて、小首を傾げる。
「どうしたの、ぼうっとして。らしくないじゃない」
「……なんでもねぇ」
そう零す小鳥遊に、俺は誤魔化すように言い捨てた。確かにぼうっとするなんて、らしくないことをした。疲れが溜まっているわけでも、寝不足なわけでもない。ただ本当に、突然白昼夢に襲われた。そうとしか言えなかった。
その時、不意に隣からふふっと小さく笑う声が聞こえてきた。それにつられて逸らした視線を再び小鳥遊に向ける。小鳥遊は俺を見つめながら頬を緩めている。それが気に障って俺は眉を顰めた。
「なんだよ」
「ううん。まだイメチェンした稀咲に慣れないなあって思っただけ」
「チッ。うるせえ、触んな!」
そう言って腕を伸ばして俺の髪を触ってくる小鳥遊の手を鬱陶しそうに振り払う。それがまた面白かったのか、小鳥遊はまた小さく笑った。
不良という生き物はよく分からない。馬鹿で、無能で、単純な、力だけの生き物。それでも、どうやらそんな奴らにも価値があるらしい。それに近づくに至って、黒髪だった髪を染め、ピアスを開けた。以前の俺と比べれば容姿はかなり違うだろう。それが小鳥遊には少し面白いらしい。俺からすれば腹が立つことこの上ない。
「それで、次はどうするの? 私が持ってきた中で気に入った人はいた?」
小鳥遊はそう言って首を傾げる。
「……ああ」
俺はそれにふん、と鼻を鳴らして眼鏡のブリッジを押し上げる。
小鳥遊は情報収集が上手い。それは人伝に広がるものからネット上のものも含まれ、パソコンを与えれば大抵のセキュリティは潜り抜ける。加えて信憑性は確実で、信用に値する。それを利用し、俺は使える手駒を探した。ある程度の手駒は揃っている。だが重要な役割を担う駒はまだ見つかっていない。だが、それも今日、全てが揃う。
「今日、長内にそいつを連れて来てもらう」
「ふうん」
小鳥遊は詮索することなく、それ以上の興味は無いのか曖昧で適当な相槌を打つ。これはこいつの昔からの癖だ。そこになんら意味はない。
座り込んでいた腰をあげる。すると小鳥遊は立ち上がった俺を座り込んだまま見上げてくる。
「私も付いて行っていい?」
「邪魔だからくんな」
きっぱりと言い切れば小鳥遊は「ひどい」と口にするが、落ち込む様子も傷ついた様子も無なく、ただ口元に笑みを浮かべて「ひどい」とふざけたように言うだけだった。こういう言い方をするのも、こいつの昔からの癖だ。
そのまま踵を返すと、続けて腰を上げた小鳥遊が俺の背中に再度声を掛けてくる。
「他にすることはある?」
そう言って俺をじっと見つめてくる小鳥遊に、俺は振り返って告げる。
「東卍の内部を洗え。蔓延る膿を探し出せ」
返事を聞くこともなく、俺はそのまま歩き出した。俺の背後で小鳥遊が反対方向に踵を返す音がする。お互い別れの言葉を交わすことなく、静かに逆方向に進んで行く。それは俺たちの関係を指し示しているようにも思えた。
* * *
――小鳥遊知沙。同い年の、現在はエスカレーター式の女子中学校に通っている女。小学校の頃に通っていた塾が同じで、そこで知り合ったのが最初。俺たちは常に模試で一位と二位を飾っていた。
小鳥遊は他の馬鹿な連中とは違った。年齢にそぐわない落ち着いた性格をしていて、それに見合う頭脳も持ち合わせていた。そんな小鳥遊とつるむようになったのは、いつからだったか。それほど昔のことではないのに、その頃の記憶が曖昧で、よく覚えていない。ただ声を掛けてきたのが小鳥遊で、それ以来俺の後を追ってくるようになったのは覚えている。その関係をずるずる続けて、今の今まで付き合ってきた。
小鳥遊がなぜ俺について来るのか、その理由は知らない。なぜ俺の計画に協力し加担するのかも、俺は知らない。だが、そんな些細なことはどうでもいい。小鳥遊は使える。ただそれだけだ。使えるものは使っていく。周りにいる人間すべてが自分にとってはただの盤上の駒だ。だから、俺は小鳥遊という人間を他の奴らと同じように利用して行く。ただそれだけだ。
「稀咲、連れて来たぜ」
新宿を拠点とする高校生を中心とする暴走族『愛美愛主』の拠点。その中心に白い特攻服に身を包みながら鎮座する。
総長である長内がアジトに戻り、その声に俺は顔を上げた。長内の後ろには手の甲に刺青を入れた背の高いひょろっとした男が立っている。そいつが俺に視線を向けた時、閉ざしていた口を開く。
「君が死神=H」
座っている俺を見下ろしたそいつは、俺を見ると少し呆けた表情を僅かに浮かべた。
「初めてみるツラだな」
落ち着いた声で、そいつは呟く。高校生の中に混ざっている俺の存在が浮いて見えたのか、想像と違っていたのか、そいつはじっと俺を見下ろす。それに、俺は真っ直ぐ視線を向けながら、はっきりと告げる。
「オレの駒になれ、半間修二」
これで、駒は揃った。
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