東京卍會の事務所にある稀咲の執務室で、知沙はソファに腰をかけながら、こちらに背中を向け窓に視線を向けながら電話をする稀咲をじっと見つめていた。稀咲の応答は淡泊なもので「ああ」とか「そうか」くらいしか言わない。そうして二言くらい喋れば稀咲はすぐに通話を切り、スマホを下ろす。そして最後に一つ、息を吐いた。
その様子を久しぶりに事務所に立ち寄った知沙はじっと眺めていた。
「呆気ねぇなあ」
ふと、稀咲は窓の外に広がる雑多な街並みを見下ろしながらそう呟いた。知沙はそれに返答せず、黙って稀咲の言葉を待つ。
稀咲は続ける。
「ゆする手間も無く、指示を出せば疑いもせずに二つ返事とはな」
その声音に抑揚は無く、どこまでも平坦で感情は窺いにくい。それでも落胆や呆れそして怒りが僅かに滲んでいたように聞こえた。それはきっと間違いではない。
「こんなもんかよ、ヒーローってのは」
吐き捨てるように稀咲は言う。
窓に映る稀咲はいったいどんな表情をしているのだろう。眼差しに怒りを滲ませているのだろうか。それとも、落胆に目を伏せているのだろうか。ソファに腰を掛けているこの位置では見えない。ただ雑多な街並みを背景にする稀咲の背中しか見えない。
「花垣武道も処分するの?」
それまで閉ざしていた口を開け、稀咲の背中に問う。稀咲は身じろぐこともせず淡々と続ける。
「あいつの部下が俺をこそこそ嗅ぎまわってる。いずれ一緒に処分する」
「ふうん……」
東京卍會の最高幹部の一人である花垣武道。その直属の部下と言えば、松野千冬だろう。彼が嗅ぎまわっているのは早々の段階で分かっていた。だが小賢しいことになかなか尻尾は掴ませない。下手に出れば稀咲が不利になるため、今は静観していた。だが稀咲の話ぶりから、それももう終わるのだろう。それもそうだ。稀咲は、花垣武道を使って、橘日向を殺し終えたのだから。
「俺とあいつ……いったい何が違うって言うんだ」
先ほどまでの声音とは打って変わって、それはとても小さかった。言葉には覇気が無く、いつもの稀咲の姿はそこにない。
「俺の方が地位も権力もある。なのに……あの程度の野郎に、俺のなにが負けてるって言うんだ」
今度はその声音に怒りが滲んだ。苛立ちに僅かに声が震えている。
ふと、稀咲の背中から少し視線を下ろした。よく見るとスマホを持った手がぎゅっと握り込まれている。力を籠めているせいか、その手も小さく震えていた。
はあ、と不意に稀咲が息を吐いた。その仕草で稀咲の張り詰めていた雰囲気は解け、強張っていた身体も力が抜けたのか肩をそっと下ろしていた。
「……今のは忘れろ。ただの独り言だ」
稀咲は一度だけこちらに視線を向けて釘を刺した。そのままスマホを自分のデスクに置いて、椅子を引き腰を下ろす。この話題はこれで終わりだ、と言いたげな態度のように思えた。
「……なら、これは私の独り言」
今度は自分がそう口を開いて、手もとを見下ろした。自分の手の中には古い小さな懐中時計が収まっていて、それを指で表面をなぞり、くるくると掌で転がす。
その様子を稀咲は知沙の時のように黙って眺めていた。そうして不意に顔を上げた知沙と視線が交わる。知沙はふっと薄く笑う。
「私は稀咲が望んだ未来を望む。だから……」
だから、と続く言葉は何だったのか。言葉をなぞる唇の動きをぼんやりと見つめながら、稀咲はそっと瞼を閉じた。
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