ペルソナ4 第8話
ペルソナ8

女性アナウンサーの死体が上がった。転校生の月森くん、そして千枝と共に帰宅途中で遭遇した揺るぎようのない衝撃の現実に、雪子は打ちのめされそうだった。一緒に帰ろうか、と心配してバス停までついてきた千枝に頭を振って笑った雪子は、バスの中で携帯電話の使用を控えるよういうアナウンスを無視して、メールを送った。帰宅したら、入院している母への見舞いや旅館の人々と共にマスメディアやお客人を迎えたりする段取りが山積みだ。その打ち合わせに余念がなく、ひっきりなしにうつメール。最近メールを打つ速度が上がった気がすると雪子は思う。いつもそこまで使う機会のない携帯電話はあっという間に真っ暗となってしまい、じっと雪子はバスにゆられながら待ちわびた。


雪子は帰宅してから、あわてて部屋に駆け込むと充電器につないで、一度晃に電話する。もしかしたら、もしかしたら、という期待を捨てきれない僅かな希望にすがって、雪子は耳を傾けた。日を重ねるにつれて、旅館に尋ねてくる警察や旅館の人たち、そして家族を見ていると否が応にも感じてしまう、もたげてくる最悪の結末から少しでも逃避したいのである。言葉ではいくらでも晃の安否を気遣う声は聞こえた。雪子を気遣う、励ます優しい優しい言葉、なんとか安心させようとする人々。だが、精神的に消耗する自分を自覚する雪子は、心の余裕をなくしつつあるようにあると気づいている。疑心がどうしても混じってしまう。もしかしたら、みんなもう晃が死んだんじゃないかと思っているんじゃないだろうか、なんていう恐ろしい妄想。雪子は頭を振る。

晃が行方不明になってから、何度目になるか分からないメールを送るものの、一向に返信はない。電話をしても電源を切っているか電波の届かないところに携帯電話があるという女性のアナウンスが雪子をひとまず安心させるに至っている。携帯電話がその機能を失わずに通信機能がまだ健在であるということは、携帯電話が壊れた、もしくは破壊されたという結末はとりあえず消去されてほっとする。もし、もしだが、晃が何らかの事件に巻き込まれたのだとしたら、唯一紛失している携帯電話は彼女の唯一の持ち物であり、いつまでも持っているということは事件に巻き込んだ誰かがいるとしたら、それは邪魔でしかない。携帯電話は受信した地区から探知で捜索できるから、真っ先に処分対象になるはずだという知りたくもないことを聞かされた雪子は皮肉にも安堵を得る形になっている。もし誘拐事件ならば、まだ犯人は晃の携帯を破壊するまでにはいっていない、つまりまだ生きているはずだというお粗末にもほどがあるが、無理矢理にでも作り上げた理論だ。限りなく猫箱だが、晃はまだ生きていると信じる以上それが雪子の真実だった。警察が躍起になって女性アナウンサーをあらゆる手段を持って探していたとき、何度も目にした光景なのだ。アナウンサーの親族や友人から携帯電話を探知し、場所を特定しようという試み。携帯電話はコールが入る前に、幾度か、ぷっぷっぷという音が入る。これは長く続けば続くほどそれだけ遠い中継地をまたいで電波を飛ばしている証だそうだ。警察が躍起になった理由の一つは、この探知によって特定された中継地はいずれもこの八十稲羽市内だったということだ。さすがに具体的な範囲までは教えてもらえなかったものの、不幸にも死体となって見つかった女性アナウンサーの発見された場所に迅速に警察が動くことができた理由は、お察しあれということだと雪子はわかっていた。電話する度にコールに入るまでにかかる電子音は、女子アナウンサーの携帯電話と同じ回数なのである。そしてそのコールすら途絶えたときを雪子はお手伝いのおばさんから聞いていた。警察はいつになく焦って旅館のみんなから事情聴取を行っていたのは、いつだった?つまり少なくても晃は此の街のどこか、近くにいるはずだと雪子は信じていた。場所的には同じかもしれないが、表裏一体となった不思議な空間である可能性など、この瞬間の雪子は知るはずもなかったのである。


ほっと息をついた雪子は、そうだ、と思い立った。伸江さんに晃はまだ生きているから、それだけでも伝えてあげなくては、と思ったのである。晃の寄宿先である伸江さん祖父母夫婦は、きっと夕方のニュースの一面を飾っている猟奇的事件と晃の失踪の状況が同じことを知っているから、その不安は極限なはずだ。きっと、自分以上に。即決に判断して、すぐに行動に映せたのはきっと、雪子自身が狼狽して混乱していつもの冷静な思考回路を辿れない今、率直な自分の心と向きあうのが怖かったのである。そして少しでも気を紛らわせるために、誰か他の人の世話をやくことこそが巡り巡って雪子の心を安定させると言っても過言ではなかった。

時計を見れば、夕方である。こんな時間に電話するのはかれこれ5年ぶりだろうか。授業が終わる度に放課後、どこかへ遊びに行く約束を下校途中で取り付け、出かける前にすれ違わないよう一応お互いの家に電話をかける。小中学生の帰宅を促す放送やどこかで聞こえる6時を知らせる学校のチャイムが鳴り響くまで、遊んだ記憶がよみがえる。懐かしさで胸が一杯になるが、感傷に浸っている場合ではない。雪子は電話を掛けた。

『もしもし、神薙ですけど、どちら様ですか?』

受話器越しの声は雪子の予想に反して、若い男性の声だった。一瞬掛け間違えたかと思って画面を見るが、やはり表示されている神薙伸江夫婦の固定電話の番号。電話越しの声は実際に聞くよりも違って聞こえると言うが、いくらなんでも夫の声にしては若すぎる。神薙と名乗った彼は、誰なのだろう?雪子は思わぬ展開に面食らう。だが、もしもし?と一向に言葉を発しない雪子に不信を抱いたのか、声の主はどこか訝しげだ。慌てて雪子はごめんなさい、と声を発した。ひっくり返る声に羞恥でかあっと顔が赤くなる。


「あ、天城です。天城雪子ですけど、えっと、その、伸江さんいらっしゃいますか?」


天城、という言葉を聞いた男性は確認を取る意味なのか、それともつぶやくつもりだったのか、いずれにしろどこか驚いた様子だ。だが、はい、と雪子が肯定すると、受話器越しに聞こえる沈黙。雪子もまさか男の人が出るとは思わなかったのか、すっかり別の意味で沈黙してしまった。


『すいません。祖母なら今手が離せないんで、かけ直してもらえます?』


もし雪子がいつもの調子ならば、きづけたかもしれない。なんでこんな時にと不快をにじませる舌打ち。その小さくこぼされたため息に。礼儀正しい中にもどこか隠しきれない感情を含ませる、と邪推させる無機質な声に。何故か同年代くらいの声な気がするのだが、あまりにも他人行儀なつなぎの違和感に。同年代の男の子と会話する機会などめったにない雪子はすっかり緊張しきってしまい、気づかない。天城屋旅館に神薙農園は野菜を出荷している古くからの付き合いのある家であり、大切なお得意様でもある。天城屋からだとかかってきた電話ならば、要件は何かを聞いて、言伝を預かろうとするのが普通である。最も今は平和なやりとりを想定するような状況ではないのだが、それにしてもすぐに切ろうと早々に話題を切り上げようとしてしまう雰囲気。では、と電話を切られそうになり、あわてて雪子は静止した。

「待ってください!その、晃ちゃんのことで!」

その言葉が相手の態度を一変させた。

『何かあんのか?!』

「つた、え……え?」

『なんか知ってるから電話かけてきたんだろ?なんか分かったんだよな?なあ!何処にいるんだよ!晃にっ』

切羽詰った声に雪子は萎縮してしまう。え、あ、その、と言葉を紡げない雪子は、アキラ二?と首を傾げる。晃は女の子だ。姉ちゃんと続くならいざしらず、にとは一体どういう事なのだろうか。流石にいくら男の子っぽいとはいえ、流石に兄貴呼びを願うほどのものではないと雪子は思った。相手は何かに気づいたのか、あー、と声を上げたあと、イヤ、なんでもない、と口を閉ざしてしまった。


『ハジメマシテ、天城サン。俺はヒロキ。アンタの友達の弟。よく話は聞いてるよ。今俺以外のばあちゃん達全員、警察呼ばれて家の中すっからかんで、誰も帰ってこないんだ』


「は、はじめまして。そっか、アナタがヒロくん?晃ちゃんから聞いてるよ。大変なときに電話してごめんね」


いや、いい、と弟は気まずそうにつぶやく。病気で祖父母と暮らしている姉が突然失踪したとなれば、離れて暮らす家族も流石に駆けつけるのだろう。なんで気付かなかったのだろうか、と雪子は思った。そういえば、実際にこうして話すのは初めてかもしれないが、晃には2つほど年の離れた弟がいたはずだ。やはり姉弟で友人同士ニアミスするのは気まずいからと、晃の家で遊ぶときはいつも部屋に閉じこもっているか出かけているかの二択で面と向かって話したことはない。いつも晃がヒロヒロと呼ぶものだから、てっきりそういう名前なんだと思っていたのだ。


『で、ばあちゃんに何の用?』


雪子は事情をかいつまんで説明することにした。


『わかった、ばあちゃん達にいっとく。ありがと』

「ううん、いいの。そうだ、えっと……ヒロキくん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

『何』

「知らなかったらいいんだけど、ね、その……晃ちゃん、怒ってた?私ね、また晃ちゃんと仲良くしたいんだけど、やっぱり5年前に約束破ったから、嫌いになっちゃったのかと思うと怖くて、その」

はあ、という溜息が聞こえた。

『だからいったんだよ、あのバカ』

「ヒロキくん?」

『5年前となんにも変わってない。ホントどう仕様も無いよ、あのバカ。勝手に思いつめて、勝手に傷ついて、身勝手なとこなんにも変わってない。安心していいよ、天城サン。そんなこと全然ないから。今でこそ笑えるけど、確かに怒ってたし泣いてたし、あんだけ荒れてたの初めて見た。けど、全然逆。本人がいうべきだからこれ以上は言えないけどさ、心配する必要は何のもないと思う。ただ、さ』

「?」

『天城サンの思っている以上に、あのバカ、ずっとずっと子供で、中途半端で、臆病で、どうしようもないくらい全力なんだ。だから、中途半端だけは残酷だからヤメテ欲しい』

「ちゅうとはんぱ?」

『あとは本人から聞いて。俺がいうべきことじゃないし』

「………うん、わかったよ。ありがとう」







よく分かっていないまま、雪子は電話を切ることになる。
がちゃん、ときられた音はかなり辛辣に聞こえた。
そして、雪子は、千枝共々、真夜中テレビというブラウン管越しの世界で、全く知らない男としての神薙晃と出会うことになるのである。
赤裸々に語られる神薙晃という男の叫びに心の底から驚愕し、様々な符号がかちり、と収まるとき、雪子はその意味を悟ることに成るのだ。






ヒロトは、はあ、と苛立ち気味に電話を切る。八つ当たりだとは分かっているのだが、家族贔屓になるのも仕方ない。赤の他人と家族だったら家族を取るのが当たり前だ。多分天城屋の雪子さんは晃兄のことなど微塵も意識していないのは明白だったから、余計辛いのだ。人の想いなんてもともと自分勝手きわまりないんだとヒロトは知っている。そうでなければ、たかが初恋でなんでここまで自分の姉みたいな兄みたいな晃という家族はここまでむしろだらけの道を裸足で歩まなくちゃいけないのか分からないのである。


なんで私は生まれてきたんだろう、とつぶやいた兄の言葉をヒロトは今でも覚えている。








月森、と居心地悪そうなかすれ声が聞こえて、月森は背負いこんでいる彼にん?とだけ返した。目覚めたばかりの彼はやはりもう一人の自分からすべてを聞いたと聞かされた瞬間、この世の終わりのような顔をしていた。生まれてきてから他人に明かすのは初めてだと男がこぼしていたのを思い出し、とてもではないが無神経な言葉はいえるはずがなかったとこっそり月森は振り返る。彼の命を救って男の暴走を止めたことで寄せられた信頼から来る秘密の暴露。そこまで信頼を寄せられるのであれば、答えないわけにはいかなかった。こうして今も何も言わないで淡々と進んでいく月森に切り出せないでいる。ようやく決意をしたらしい彼は、真剣なまなざしで聞いた。


「あいつから、どこまで聞いたんだ?」


あいつ、と称した記憶を失う前の自分。受け入れないから未だにペルソナになれないのだと寂しそうに語っていた男を思い出し、少々複雑な気分になるが月森はそっとしておくことにした。神薙晃という彼の抱える問題はアイデンティティの根幹に関わるものであり、マイノリティの問題からなかなか公言しにくい話題も絡んでくる。思い悩んでいるのは彼のはずだから無粋なことは聞けない。でも気を使えば使うほど思いつかなくなっていく話題。沈黙を打破したのは彼だった。月森は男からの暴露を思い返して、まとめる.。



「えっと、神薙さんは男だと思ってるのに、体が女の子だから苦労したって話と、今まで家族以外には打ち明けられなかったってこと。マヨナカテレビで男になった自分と出会って混乱したせいで、記憶がどっかとんじゃった部分があること。だな」

「そっか。……あの馬鹿、先走りやがって。初対面なのに、ごめんな。迷惑かけて」

「そんなこというなよ」


きっぱりと言い切る月森に目を丸くした神薙だったが、はは、と力なく笑った。


「悪い、言い方が悪いな。助けてくれてありがとう。それと、話、聞いてくれてありがとう。本当に、有難う。はは、涙が出てきた」


枯れたはずなのにな、とぼやく彼は鼻声だ。


「月森、は、初対面はみんなさん付けなのか?できたら、その、呼び捨てで頼む」

「わかった。神薙」

「あと、その、できたら、さ。トモダチやってほしいんだ。オトコとして」

「何言ってるんだよ。もう、トモダチだろ?」


初対面で随分とディープな部分まで知ったから、と笑う月森に、どこまで人間が出来ているのだと別の意味で神薙は呆れる。


「ちょっと聞いてほしいことがあるんだ。長くなるけど、聞いてくれないか」

「?」

「あいつに聞いたかもしれないけど、私からもいいたいんだ。私のこと」

「わかった」








ありがとうとつぶやいて、神薙はゆっくりと深呼吸して口を開いた。










体のラインが次第に丸みを帯びていく恐怖に蝕まれたとき、待っていたのは違和感の連鎖だった。思春期の価値観は揺れやすいし、影響されやすいと保健室の教科書じみた漫画にあったのを頼りに、女の子になれるよう努力もしてみた。興味もない雑誌を読みあさり、ファッションやオシャレに疎いと笑う彼女に引っ張りまわされながら、自分なりに女の子であることを楽しもう、としたこともある。待っていたのは、どうしようもない程の違和感とそれを抱いてしまう自分への背徳感だったけれど。結局居心地のいいメンズものに身を包んだけれど。ふとした瞬間の彼女への想いに気づいたとき、それによる男への変身願望なのだと安心して、一時的な平穏とひた隠しにする罪悪感とバレないかという恐怖と普通ではないということへの恐怖という別の階段がまってはいたけれど、これがきっと入り口だった。

ブラスバンドで同じパートを担当していた男子に告白され、付き合おうとしたこともある。恋をすれば、恋愛をすれば彼女のようになれるかもしれない、という一抹の期待を込めて返事をしたこともある。1週間も持たなかった。どうしても友達から先の関係が見えてこないのだ。あの時の自分は男子のことが好きだと思い込もうとしていたのだろうか、女がする恋愛に憧れていたのだろうか、周囲に溶け込もうとしていたのかは分からないけれど、自分は自分だと意識しようとするたびに自分の特異性を意識してしまって身がすくむのだ。決定打は、男子と共に過ごす恋愛という好意にくくられるすべての行為に気持ち悪いという感情が真っ先に生まれてしまったことだ。軽いノリとは又違う、男から女に向けられる特有の視線とか、スキンシップとか、甘い言葉とか。どうしてもその先に彼女を見てしまう。恋愛という関係を通したとき、私に生まれたのは男子への劣等感だった。体格的にも声の変換にも、そして私にはない何もかもを持っている彼らに嫉妬しかないことに気づいたとき、私は混乱した。女性が好きになる私はなんのしがらみもなく恋愛という話題に触れられる異性に嫉妬したのか、それならこの胸にこみ上げるもやもやはなんだ。自分で自分がわからない。同性が好きなのだと感じた私は、いつまでも付き合い続けることに苦痛しか感じられず、罪悪感にも駆られることになり、私の挙動の不審さを感じたのだろう男子とは自然消滅という形で終止符を打った。



でも、それとはまた別の側面で、私は日々違和感に悩まされることになる。もともと苦手だったが、規則だからと我慢していたスカートが耐えられない。逃げるようにジャージに着替えた。よく生徒指導の先生には注意されたが、制服を着る生徒たちの間では浮いていたが、衝動的に脱ぎ捨ててしまうのだ。次第に子供から女へと変化していく、第二次性徴が私の中で開始されたとき、それを自覚したとき私は恐怖を感じた。身体測定の度に変化していく自分の体にいいようのない不安感を覚え、体重や胸の大きさで一喜一憂する女子たちの中に自分がいるということに罪悪感を覚える。記録を見せてと無邪気に笑う彼女の下着姿を見るたびに羞恥に駆られ、背徳感に悩み、そしてどこかで喜んでいる自分に嫌悪した。

男子生徒と女子生徒にわかれて行われる性教育が重なるたび、来なければいいのに、と切実に願った。でも一方で体が女に近づいていけば、自分の恋愛観も性癖も男としての自分も女に近づいていくのではないか、という最後の願いのようなものはどこかであったのだろう。まだ始まらない、始まった、お腹痛いから体育を休む、薬を飲む、という話題で盛り上がる彼女たちを見るたびに、焦る自分もいた。体が大きい方が早く始まる、といった世俗的な噂に影響される多感な頃だ。無理もない。


やがて私にもその時期が訪れたのだが、それは貧血を起こすほどの目眩とろくに立てない激痛、そして泣きたくなるほどの生理現象に見舞われた地獄のような苦しみだった。やはり男としての意識では子供をつくることができる体になってしまったという絶望と拒絶反応は私の考えていた以上に凄まじく、日々の誰にも打ち明けられない悩みにブルーになり続けていた私は精神的にも非常に不安定だった。誰にも相談できないことが増えいき、悩みのたびに無表情になる私を心配する彼女や家族、先生、クラスメイトたちの優しさが苦痛でしかない。


そんなある日、私は倒れた。保健室に運ばれた私はあまりの症状に病院に搬送されたわけだが、皮肉にも私はそのまま多量出血が原因で緊急搬送されて手術を受けた上に、入院する事になってしまったのだ。病室で目を覚ましたとき、両親と弟が駆けつけてくれたわけだが、そこで医者に聞かされた私の体の特異性は今でも忘れようがない。私の体には、子供をつくるための卵巣は辛うじて右側だけ存在しているものの、その排出された卵子をうけとめ、やがては生命を10ヶ月守り育てるはずの場所が異様なほど小さく、退化していると言ってもいいほどであり、子供を生むことが出来ない体質なのだと聞かされたのだ。だから生理現象があるたびに子供を育てるために作られる膜がそのまま血液同様吐出されてしまい、あの時味わった地獄のような苦しみが月1で発生するのだと聞かされた。女としての価値はそれだけではないとはいえ、実際に告げられた時の衝撃はない。欠落品だと言われたような気がした。それ以上に私を打ちのめしたのは、心のどこかで歓喜する自分に気付いてしまったことだ。母になりたくないなんてピーターパン症候群の一時的なものだろう、と考えていた私は、意志の力は強大だと恐怖したし、嬉しくもあった。自分で自分が分からなくなった。医師が言うには、精神的な部分も痛みには関連している、とほのめかされた。家族は子供を産めない喜びを奪われた私が本能的に悲鳴を上げていたのだろう、と解釈したが、この時私は私の考えている以上に私が女になりつつある身体を心の底から嫌悪していることを否応なく自覚することになったのだ。普通ではないということは、予想以上に私を追い詰めた。

退院してまもなく、初めて自宅の浴槽で自分の体を鏡越しに見据えた私は、もう我慢の限界だったのだろう。置かれていたカミソリに手が伸びた私は、真下にある脂肪の塊に躊躇なくその端を突き立てた。傷は残るけれど縫い合わせなくても案外ふさがるものだと知ったのは、数週間後だった。切り取ろうとした跡は端からみて一発で分かるほど盛り上がっているし、ぱっくりと開いた血の道を見事に残しているけれども。それよりもそのせいで下着が真っ赤に染まってしまうと気付いて、バスタオルで止血しながら母に相談したときの狼狽ぶりから、自分が行った衝動さに気づいた有様だ。ここまで来て、ようやく私は自分が精神的にも肉体的にも限界に来ていることに気づいた。最後まで自分が異様だと突きつけられてしまいそうで抵抗したけれど、このままでは私が壊れると祖母に抱きしめられたので、うなずくしかなかった。その重なるカウンセリングや今までひたすら溜め込んでいた悩みの変化を吐露する場所を与えられたことで、ようやく私は自分が男の意識を持ちながら女の体を持っているために今まで苦しんでいたのだ、と自分の中にようやく納得出来る答えを見つけられた気がした。ちなみに勝手に勘違いしていた同性愛と性同一性障害の違いは、自分の性別を違和感なく受け入れられるかどうか、だけであり、個人の性癖は性同一性障害とはなんら関係がないことを学んだのはこの時だ。どちらもある人もいるし、どちらかしかない人もいるし、線引きは長いこと時間をかけて専門家と話し合っていくしかない。そして私は命を落とすことがあったとしても、性を転換しようと決断した。そして彼女にすべてを打ち明けるつもりで、呼び出したのである。その結果があれだ、と神薙が指さす先が遠くで泣いている女の子。月森はそっか、とつぶやいた。


「彼女って、天城さん?」

「……アイツにとってはそうだろうな」


まるで私が焦がれていた初恋相手は違うのだとでも言いたげな神薙だ。彼の辿ってきた人生は月森にとって憶測でしか推察できない、一生理解出来ないであろう悩みと苦悩、そして喜びと悲しみの連鎖で形作られている。記憶がない部分があるということは、人格的にも別の存在なのだろうかと考えもしたが、主人格とその他の人格は違うというし、同じ記憶を共有しているのかとかこれまた空想の世界の話だ。何か思うところがあってそういう態度なのだろうと納得して深くは聞かない。自分の中の一部分が乖離したままなのに受け入れることが叶わない彼は、いつか月森のようにペルソナとして受け入れる日が来るのだろうか。きたらいいな、とぼんやり思った。


「好きだった?」

「綺麗な思い出なら、アイツはここにいない。きっとな。私の出る幕じゃない。いつか、アイツがいうべきなんだ。雪に」


受け入れがたき己の一部分に対して、こんなにも慈悲めいた笑を浮かべられるだろうかと月森は疑問に思いながらそっかと返した。


「別に好きな人がいるような口ぶりだな、神薙」

「私の好みのタイプは千枝なんだ」



やっぱり別人格かもしれないと月森は思った。











「大丈夫?」

「……っ?!」

至近距離からのナミカワボイス。ぎょっとして目を開けた私は、目の前にある灰色の頭に混乱するが、暴れないで、と困ったように言われ、ようやく自分が背負われていることをしる。よりによって野郎におんぶという屈辱的な状況下におかれていることに気づき、私は必死におろしてくれと叫んだ。錯乱しているとでも思われたのだろうか、落ち着けと幾度もいわれ、ようやく私は主人公の月森孝介に助けられたことを思い出す。声はすでに死んでいて、かすれ声もいいところだ。

「ケガをしてるんだ、歩けないだろ?」

「……っ!」

「確かに初対面の奴におんぶとかキツイだろうけど、我慢して。
俺だって、その、男をどうかとは思ったけど、一応体は労らないと」

「………はああ」

「あはは、堪えてね」

笑い声がする。先を見つめれば、今にも笑い出しそうな顔で必死にこらえている男の姿がある。私はのぼせ上がるのを感じた。ゆっくりと歩いていく先で、鳥居をくぐるとわずかながら通路が見える。こ、の、や、ろ、う!!月森の身長が本来の私の姿を模した男より遥かに高いのがまた気にくわない。身長は花村と五十歩百歩だが、やはり巽と花村のダンジョン会話は正しかったようだ。5センチ近く差があるのは、いいしれない屈辱感がある。しかもまるで当然のように介抱を理由にされれば、抵抗できなくなる。っよりによってこの男、月森にあろうことかすべてをぶちまけてしまったらしい。勘弁してくれ。私はめまいを感じた。男は笑った。

『いつか本人が目覚めるまで、貸してやる。だから、カンナギアキラが戻ってくるまで、絶対に後悔させるような人生は送るなよ』

「ありがとう」

「記憶喪失は、大変だと思うけど、頑張れ」

「………は?」

「全部聞いた。数日前から記憶がなくなってるんだろ?で、喪失した部分がこの男だけど、記憶が蘇ったわけじゃないから、受け入れられなくて、暴走させたんだよな?無事でよかった」

私が気を失っている間に、好き勝手に捏造されてしまったらしい。確かプレイヤーがゲームの世界の自分に取り付いたなんてむちゃくちゃなこと、流石に月森が信じるはずはないし、私もどう説明するか困ってしまうけどもこれはまたややこしい事態が想定され、私はめまいを覚えた。いろいろと好都合ではあるけれど、そこに根ざすであろう問題については丸投げする気らしい。勘弁してくれ。私は大きく脱力した。

「なんで、ここに?」

「マヨナカテレビを見たら、テレビに引き込まれて落ちたんだ」

「え?」

「ああ、そうか。俺、今日転校してきたばかりなんだ。叔父さんの家に居候してるんだけど、リビングにしかテレビが無いんだ。小さいテレビなら引っかかって助かったんだろうけどな」

里中たちと迷い込んできたわけではないらしいと、私は月森の服装でようやく気づく。なんと月森は初めてペルソナの声を聞く中二病的展開の時に、勢い余って落ちてしまったらしい。………どうするんだ、出られないじゃないか。途方にくれる私は、心配いらない、と笑う月森を見た。

「先客がいるらしい。いってみよう」

「?」

ふらふらと青い蝶が飛んでいた。


「キミたち、誰クマ?!」

「……俺は月森孝介。こっちは神薙晃さん。キミは?」

「え?ボク?僕はクマクマ」

「………ここはどこ?」

「えーっと、えーっと、その、シャドウとボクしかいないとーっても危ない所クマ。なんでキミタチここに居るクマ?!早く帰った方がいいクマ!霧が晴れるとシャドウ達が暴れるクマよー。だれかがここに人を放りこむからボク迷惑してるクマ!何とかしてくれって行っといて欲しいクマよ!」

月森は身を乗り出した。

「それって、神薙さんじゃなくて?」

「ふえ?………あり?」

まずい。私はあわてて隠れようとしたが遅かった。

「な、な、な、なんでシャドウがここにいるクマああああああ!!食べないで、食べないで、クマは美味しくないクマよおおおお!!」

凄まじい勢いで後退したクマは必死で叫んでいる。クマの鼻は限りなく優秀なようである。私の憑依している身体の持ち主をぴたりと言い当てやがった。どうしよう、と一瞬悩んだものの、それを吹っ飛ばしたのは、月森の憤りを交えた怒鳴り声だった。

「落ち着け!」

ぴしゃり、と響き渡った怒声に、思わず身がすくむ。クマと私は月森を見た。

「なにがシャドウだよ!神薙さんは人間だ!いくらなんでも神薙に失礼すぎるだろう!
 この人は1週間近くこの世界で一人ぼっちだったんだぞ!
 俺が居なかったら危うく食い殺されるところだったんだからな!
 変な言いがかり付けて勝手に怖がるんじゃない!」

「え?で、でも……シャドウのにおいがするクマよー」

ぱちぱちと大きな目を瞬かせたクマは、うーん、と大きく頭を悩ませてしまう。月森は凄まじい形相でクマを睨みつけていた。なんでかばうクマか、とクマはクマで私を見比べて、途方も無い違和感を前に呆然とするしか無いらしい。なるほど、分かる人には分かるようだ。クマはシャドウだ。シャドウが自我を持って、誰かに好かれたいという気持ちがクマという入れ物を作り出したはいいが、シャドウである自分が自分に意味を与えられるほど自信があるわけでもなく、あまりにも不安定すぎた自分を安定させるためにクマは自分を忘れてしまう。そして主人公たちと事件を通じて交流し、戦い、ふれあうことで自分とは何かを見出し、確立して行く。自分という不暫定さをしっても、それに意味を与えてあげられるほど成長しきったとき、初めてクマはベルベットルームに入ることができるほどの存在に成長できるのだ。だから今のクマが空っぽでシャドウだ。鼻はびんびんセンサーを発動させており、私に対してずばっと正体を言い当てるのはさすがと言えるが、さすがに面と向かって化け物呼ばわりされて平常心でいられるほど私は大人ではないらしい。ぱんぱん、と月森に肩を叩かれて、ようやく私はうっすらと滲む者があることに気付いたのだった。月森が声を上げてくれるのは嬉しいが状況的にはクマが正しい。厳密に言えば私はやがてクマがたどる道を先行しているわけだ。アメノサギリの介入を露骨に受けたり、シャドウのことや一度も外に出たことがない時点で誰かが人を放り込むという事件の大前提を何故か覚えていたりする時点で、この世界の創造主に何らかの役割を与えられていることは否定出来ないシャドウである。私は何と言おうか考えあぐねているうちに、月森が冷たい口調で問い詰めていた。


「シャドウって?」

「シャドウはシャドウクマよ。だから、そんな、ボクわかんないクマよ!だからその、そんな怖い顔でそんな大きな声ださないでよう……!」


今にも泣きそうな顔で懇願してくるクマ。不安にかられている私をよそに、月森は終始無言のままクマをじいっと見つめていた。月森?と一抹の不安を感じた私は思わず話しかけたが反応がない。背負われている現状は変わらない中、私は耳元で大声で叫んでみた。びくっとした月森はようやく思い出したように振り向くが、ひどくぎこちない笑顔がそこにある。ああ、なんていい奴なんだろう。どこかいびつな笑顔である。得体のしれない生物である私のために怒ってくれているのだ。いい奴過ぎる。


「月森、落ち着け」

「神薙!」

「こうもあからさまなのはずいぶんと久しぶりだけど、慣れてるからいいんだ。
 言葉は通じるみたいだし、話を進めよう。感情論は何ももたらさない。
 危険性が全く感じられない相手を前に、タロットカードを握り締めるのはどうかとおもうぞ月森。
やめてくれ、私たちがここから脱出できる方法を知っているかもしれないだろう?」

「……とにかく、神薙はシャドウじゃない。なんでそんなこと言うんだ」

「だ、だってシャドウのにおいがするクマよ」

「シャドウのにおい?気配じゃなくて?」

「…………あり?な、なんで君と同じシャドウの気配があっちの方向からするくまかっ!?」

「あの男がシャドウっていうのか。なら、神薙はそのシャドウに監禁されてたんだ。
 においくらい移るだろ」

「月森、案外クマの言うことはあたってるんじゃないか?
私もシャドウみたいなものだろう。4月からの記憶がないんだ。
 理想的な自分を妄想した神薙晃のシャドウかもしれないだろう?」

「それは……。でも、神薙は化け物じゃないだろ。それは単なるキオクソウシツだとあいつもいってたじゃないか。そう卑下するなよ」

あの男は私にこの世界の神薙晃をさせたいのだという意図が透けて見えるようで、私はため息をついたのである。月森は畳み掛けてくる。

「じゃあ、神薙は人間だ。俺だって変な力に目覚めたけど、人間を辞めたつもりは無いよ。
 そんなこといったら、俺だってシャドウかもしれないだろ。埒が明かない」

「まあな」

私は肩をすくめた。だめだ、やっぱり私の中でこんきょとなる証拠はもちろんのこと、推論に推論を重ねた仮説すら出ていないことを説明、提示するには、時期尚早すぎた。月森に私の複雑怪奇な状況を説明するのは難しすぎる。私があれこれ考えあぐねている間に、月森はクマにここから出る方法を知らないかと尋ねている。まずい、まずい、まずい、と私は焦る。このままではクマは記憶喪失になった人間はシャドウみたいな気配がする、匂いがする、けれども人間なのだという誤った情報を受け付けられてしまう。まあ、キオクソウシツキャラはクマ本人だからある意味伏線的な感じでいいのだろうか?頭の中で混乱している私に、月森が何度か呼びかけてきて、我に返った。

「神薙は人間だよ」

「そうだといいな」

「神薙」

「正直、人間かどうかは自信がない。いろいろあるんだ。説明しきれないほど。
それに、クマにとっては私は怯えるほど強力なシャドウらしいからな」

クマは気まずそうにうつむいてしまった。ずいぶんと嫌われたものである。まあ、無理もないけけども。シャドウの癖にシャドウを怖がって逃げ回ったり、隠れたり、アイテムを拾って自己防衛したのがクマというシャドウだから。一定の距離は埋まらない。私はとりあえず人間だと明言するのはやめておくことにした。月森のいらだちはクマに向かう。だからクマに八つ当たりするな、私の憑依している身体の発祥は、少なくてもこの世界の神薙晃のシャドウだったのは事実なんだから、私はクマを否定するわけにはいかないのだ。もちろん口にすることはできない。そのもどかしさを私は落ち着けという言葉に集約した。月森に引っ張られて内緒話開始。

「なんで神薙がクマをかばうんだよ」

「まあ、もう二度と来ることはないだろう、こんな危ない場所。
クマだってこの怯えぶりから察するに、私はここにいてはいけないらしいから。
 もう逢うことはないんだ、心象はよくしたいんだ」

な、と私は言葉を紡いだ。うまく笑えているだろうか。月森は私を見て、根負けしてくれたらしい。ため息をついて苦笑いが浮かんだ。2,3のステップにつられて現れるブラウン管テレビの塔。クマは、これで外に出られるクマ、と笑ったものの、私と目が合うと反射的にすぐに目をそらしてしまう。そして、はっとなってあわてて何かを言おうとした。

「え?君も外にい行くクマかっ!?」

「私は外から来たんだ。帰るのは当たり前だろう」

「………」

クマはなにやら考え込んでいる。そりゃそうだろう。シャドウが外に出るとかバットエンドでしかお目にかかれない状況だ。まあ、すべてはクマが人間になれたらの話ということにしよう。

「ねえ、君たち、名前は?」

「神薙晃」

「月森孝介だよ」

「分かったクマ。覚え得とくクマ。えっと、その、あの、ごめんなさい」

「謝ることはないんじゃないか?」

「え、でも」

「私は嘘を見抜くのは得意なんだ。シャドウだと思っている存在を無理やり人間に見立てるのはよくないぞ。でも、私は外から来たから外に帰る。ここは私の居場所じゃない。クマはクマの知っている人間を人間、シャドウをシャドウと呼べばいいだろ。もう二度と会うこともないんだ。気にするな」


これくらい意地悪しても罰は当たらないだろう。
はっとなったクマだったが、月森に言われて、そのまま外に出してくれたのである。
放り出されたのは、やっぱり深夜閉店中のジュネスの家電売り場。当然警報が鳴り響く。
月森と私はそのまま警備員さんに保護されることになったのだった。



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