ペルソナ4 第9話
ペルソナ9

まぶたの裏がうっすらと赤らみを帯びた頃、私は目を覚ました。まだまだぼんやりとしている視界はうつろで、世界がまだ浮遊している。ふわふわとした感覚が抜けない。眩しくて目を細め、視界がやがて焦点が合い、クリアになっていくにしたがって五感が返ってくる。風が吹いているのか、さらさらと清潔そうな色をしたカーテンが風に煽られて揺れていた。望める天気は生憎の曇りながら、降り出しそうなほどの層は為してない。まばたきのあと、私はいつも愛用している硬い素材の枕ではなく、頭が沈んでしまいそうなほど柔らかい枕に頭を載せていることに気付いた。ここはどこだ。家じゃない。状況を把握し切れない焦りがもたげてきた頃、私はあたりを見渡した。白いシーツと毛布に挟まれていた身を起こそうとすると、微妙な違和感。左上から伸びているがテーピングされていることに気付いて横を見れば、点滴の袋が逆さまになって透明な液を私に運んでいた。私が不用意に動いたせいで微妙にこっちに近づいているような気がする。力が抜けてしまい、ふらりとした私はそのままベッドに沈んだ。そういえば身体が無性にだるい。くらくらする。ちらと腕を見た私は、丁寧に施されている包帯のあとや消毒のあとといった我ながら痛々しい体をみて、ようやく自分がどこかの病院に担ぎ込まれたのだろうと思いあたってホッとする。



恐怖を通り越して、釣り上がるのは笑みだった。ため息に似た安堵を吐き出したとき、ようやく私は生きていることを実感したのだった。テレビに引きこまれてから何日たったかよく覚えていないが、ほとんど気力で持ちこたえていたようなものだった。よくぞまあ、あれだけ気丈に自分を殺そうとしている奴に対して振る舞えたものだ。それもこれも、ペルソナ4をクリアしたことで蓄積していた知識と、奴がかつて私の経験した出来事を凝固した結晶みたいなもので、敗北すれば私の礎とも言える彼女との思い出すら蹂躙しかねないという危機感。あとはもっぱら拒絶したら私自身の人生をすべて否定しかねないという特殊すぎる状況が支えていたのだろうと思う。なにはともあれ、もう二度とテレビの外には出られないのではないか、という恐怖は脱することができて何よりである。人は安心しきったとき、真っ先にやってくるのは空腹か眠気か知らないが、私の場合は眠気だったようで、すとんと眠りに落ちてしまった私が二度目を開けたときには、すでに夜を迎えていた。



人影があった。しゃりしゃりしゃり、といい音がして横を向いた私は、真っ赤で美味しそうな形をしたリンゴの皮を向いている祖母と目が合う。椅子に座り込んでいる祖母は、ぱちぱちと何度か瞬きをしたあと、息を詰まらせるような顔をして、ゆっくりとナイフとむいている途中のリンゴを置いた。あきらちゃん、と消え入りそうな声がして、私は、ん、と返事をしようとしたが、一瞬だけ声の出し方を忘れてしまい沈黙してしまう。祖母はクマが出来ていて、可哀想なほど体調が悪そうでやつれ切っていた。なんとか安心させたくて、私はかすれた声で祖母の名を呼んだ。


「あきらちゃん!」


涙をいっぱいにためて、よかったよかったと繰り返しながら祖母がおもいっきり抱きしめてくる。躰をおこそうとしたが、我に帰ったらしい祖母が今にも泣きそうな笑顔で伸ばしかけた手を私の右手に重ねてきたので、未だ感覚が戻らない違和感を抱えたまま私はやんわりとくるんでくれる温かさに顔がほころんだ。かつて私を抱きしめてくれた時となんら変わらない包容力を持って祖母はぎゅうっと包んでくれた。無事でよかった、とぐしゃぐしゃになりながら私の背中をひたすら私の頭を撫でてくれる。いつもならまるで小さい子供やオンナノコにするような仕草だから、と跳ね除けるところだが今回ばかりは純粋に嬉しかったので、照れ笑いしか出来ない。


「おじいちゃんは飲み物買ってきてくれてるからねえ、すぐ来るわ」


おばあちゃんはアキラちゃんが無事だって信じてたからねえ。お仏壇でありがとうございましたってお礼言わなきゃいけないね、辰姫神社さんのとこにもおじいちゃん達で毎日毎日お願いしてたんだからねえ、助けてくれたんだねえ。せきを切ったように話し続ける祖母に私はうん、うん、とうなずいていく。晃ちゃんが無事ならこそ、もうそれだけがよかったわ、と心の底から心配してくれているのがわかって、私は申し訳なさで一杯になっていた。テレビの中で祖父母や家族のことが脳裏をよぎったのは何日前だっただろう。ひたすら私、私、私、と考え続けていたせいか、追い詰められていたとはいえ家族のことが思い至らなかったことを少しだけ後悔した。そうなのである。私が私であれたのは、私がどんな人間であろうと受け入れてくれた、それが当たり前だとひっぱたいてまで力説してくれた祖父母や心配してくれた家族があったからなのに。ごめん、とつぶやいた私に、祖母は大きく首を振っただけだった。晃ちゃんは悪くないの、なんにも心配せんでいいからねえ。また晃ちゃんがいろいろ考えてたのに、気付いてあげられなくてごめんねえ、と謝られてしまい、私は首を振った。そして、不意にこちらの現実世界での私の立場を考える余裕が初めて生まれてきたとき、私は無性に恐ろしくなって体がこわばるのを感じた。突然の失踪、行方不明、私がテレビの中に突き落とされたのはいつだった?ごちゃごちゃしていく脳内がうるさい。アキラちゃん?と祖母が心配そうに覗き込む。怖いこと思い出しちゃった?ごめんねえ、と謝られ、私は無言のまま首を振った。やがて祖父が返ってくる。心配させたことを叱られ、祖母と同じように頭をなでられた。私の記憶と何ら変わらない畑仕事と手荒れで硬くなりきったゴツゴツした手で有る。緊張感が不意に抜けてしまい、私は訳の分からないまま泣くしかなかった。狼狽した祖父母がナースコールをしてやってくる。やがて医師による判断で記憶の混乱と精神の不安定さが原因だと告げられた。祖母が一緒に寝ようか、と言ってきたが、さすがに恥ずかしいのでやんわり断ったが、結局連絡を受けて駆けつけた両親と弟が駆けつけるまで、祖母は片時も一度も私の手を放すことはなかったのだった。



数日間、私は家族とゆっくり過ごすことになった。医師の判断で面会謝絶はそのまま。ありがたかったが、暇だったのは言うまでもない。



家族や看護師、医師の話を総合すると、私は家出してトラブルに巻き込まれ、そのままジュネスで解放され、倒れているところを花村陽一さん(花村のお父さんだ)に保護された、ということに成っているらしい。月森も真夜中に帰宅した堂島さんがテレビの前に置き去りにされた携帯電話を不思議に思い、二階に上がったところ行方不明と発覚。奈々子が大きな物音を聞いたことを覚えていたため、それはそれは大騒ぎになったらしい。空白となっている3ヶ月間、神薙晃の体に入っていた誰かさんは、どうやら勉強するのが嫌いだったようだ。学校にいくふりをして、何かと遊びに出かけていたらしい私の家では、あまり珍しいものではなかったらしくあっさりと家出で片付けられてしまった。まともに通い始めたのは4月からだそうだが、いったい何をしていたのだろうと思うと背筋が凍る。私が奴から逃げるために飛び降りたり、よじ登ったりしたケガが多いせいで、二階の窓から飛び降りたのだろうと憶測を立てられてしまったのだ。当時雨が降ってたせいで足跡は流されたのだろうということだった。これ幸いと乗ったはいいものの、窓はどうやって閉めたんだ、とかどうして家出をしたのだという言及には頭を捻るハメになった。そしてトラブルについては最も困った事態になってしまった。確かにテレビの中で奴に相当精神的にも身体的にも痛めつけられていることを考えると、誤魔化しようがない。成人男性としか思えない手のあとがくっきりと残った腕とか、首の周りとか、打撲痕から痣、一方的としか言い用がない暴力のあとがありありと残っているのだ。私もさすがにごまかしようがない。ごまかそうものなら、口封じのために脅されたと勘違いされそうで、下手に言うことが出来ず、相当神経を尖らせて言葉を選ぶ必要があったのは言うまでもなかった。その姿すらぶっちゃけ挙動不審の何者でもないと思うが、ではどうせよというのだと自問自答するハメになった。生田目がすでに誘拐事件を起こしているのかは分からないし、無関係なのに誘拐事件と関連付けるのはさすがに私も困る。時期が時期である。月森と早々に接触したことで何かストーリーに影響が出ているかもしれない。だから私にできたことといえば、月森に話したことをそっくりそのまま言った上で、事件についてはさっぱり覚えていないという要するに記憶喪失を押し通すことしか出来なかったのである。テレビに手を突っ込ませれば、家族には明らかにおかしいし矛盾だらけの証言をしている理由、隠していることの重大さを説明できたかもしれないけれど、さすがにそれはまずいだろう。いろんな意味で。それこそ、奴が突然暴走することで死にかけたことを考えると、余計なことをすると容赦なくどっかの力が介入したりしてフラグが立つかもしれないと思うと、恐ろしくてできるわけがなかった。それはともかく。私の失踪がアナウンサーの殺人事件と同様の状況、しかも時期が近すぎるということで嫌な予感はしていたのだが、1週間後、警察が私の病室を訪れることになってしまった。頭がいたい。

でも、中学生の頃からずっと私を支えてきてくれた精神科の先生が来てくれて、時々話を聞いてくれただけでも十分落ち着いた生活を送ることができたのはよかったと思う。一つ気になることといえば、何時まで経っても小西早希先輩の死体があがったというニュースが流れないということくらいである。もしかしたら、月森たちがなんとかしてくれたのかもしれない、と予感めいた期待を抱きながら私は過ごしていた。







刑事が2人訪ねてきたのは、私の身体的にも精神的にも安定が認められてきて、祖父母と家族の連夜のお世話が目に見えて負担と成っているのがわかって、私が無理やり家に返した日の午後のことだった。私のそばには、主治医の人。さすがに警察の事情聴取に私が一人で望むのは酷だとの判断なのだろう。ありがたい配慮である。

「晃くん。嫌だ、と思ったら正直にいうんだよ。私が代わりに答えてあげるから」

「ありがとうございます、先生。今は気分もいいですし、大丈夫だと思います」

「では、いいかな?最近、このあたりで物騒な事件が起きているんだ。知ってるね?」

「はい、アナウンサーが殺されたって事件ですよね。みんなに怒られました。危ないのに一人で飛び出していくバカがあるかって。ご迷惑おかけしてすいません」

「ああ、そうか。まあ、無事でなによりだ。身の回りに不審な奴は見かけませんでしたか?」

「いえ、特に怪しい人は……」

「じゃあ、質問。どうして家出しようと思ったんですか?」

「晃くん、大丈夫かい?」

「はい、大丈夫です」

はあ、と溜息をつく。

「中学までずっと一緒だった1番の親友が別の仲がいい子と一緒に久しぶりだねって声をかけてきたんです。嬉しかったけど、本当は嫌で嫌でたまらなかったみたいです」

「あー、仲がいい子が取られちゃって?」

「はい。でも、その子も新しい親友もドッチもすっごくいい子だから、嫉妬する自分がますます情けなかったみたいで。別の友達からマヨナカテレビを教えてもらったんですけど、そこに写ったのがその子だったからますます混乱しちゃって、こう、ぷつんと今までこらえてたのが爆発しちゃったみたいで、全部嫌になったんです」

「マヨナカテレビィ?」

「あれ、堂島さん知らないんですか?今流行ってる都市伝説ってやつですよ。ねえ?」

「はい」

「足立、その、あー、マヨナカテレビってのはなんだ?」

「雨が降ってる真夜中に一人でテレビを見ると、運命の相手が写ってるーって奴ですよ」

「………友達がアナウンサーをマヨナカテレビで見たっていうんです。運命の相手がーって話なら、アナウンサーが運命の相手だけど、友達が4人全員同じ人を見たっていうから……おかしいネって話になったんです。だったら私も参加して、運命の相手じゃなくてみんな同じ人を見るんじゃないかって調べてみることにしたんです」

「そしたら、その子が写っちゃったと」

「………嫉妬している自分に気づいた、ってことかな?」

堂島さんが私の顔を見て唸っている。単なる嫉妬を自覚したぐらいで、衝動的に家出するとは思えないんだろう。疑惑ではないが、意図的に私が伏せていることに感づいているようで、それをどう聞き出すか思案中といった感じだ。刑事の勘でストーリーに食い込んでくるような人だ。隠す必要はない。ただ、少しだけ、怖いだけだ。先生が落ち着くようにそっと肩を叩いてくる。無理しなくてもいいんだよ、と声をかけてくれるが、私は大丈夫です、と繰り返してみる。正直笑えている自信はない。息を吐いて、私は口を開いた。

「性同一性障害って、御存知ですか?」

「ん?」

「えーっと、ああ、ニュースでやってたね。戸籍の性別を変えられるとかどうとか」

「私、実は性同一性障害なんです。体は女性ですが、精神的には男性という、心と体の性別が違うんです。性同一性障害と同性愛の違いは、自分が今の体の性別を受け入れられるかどうからしいので、私は性同一性障害になります。今はできないですけど、いつかお金溜めて、手術して、戸籍も男にしたいとそう思ってます」

予想の範囲ではあるが、驚愕の表情のあとでどう返答していいか困惑している様子は幾度となく見てきたことだ。この瞬間はいつも嫌になる。なれることはない。だから私は余程のことがない限り、打ち明けようとまではしないが、状況が状況だ。私は続けることにした。言葉を一つ吐き出すたびに、精神をえぐられる苦痛を伴うが仕方ない。先生が詳しく性同一性障害についての説明を加えている横で、私は覚悟を決めた。少し、長くなるけどいいですかと前置きした。足立刑事の好奇の目が痛いが、一度覚悟を決めた私は全部話スことにした。いらぬ疑いをかけられるのはお断りだ。そのたびに何度も何度も話すのも嫌だ。一拍おいて、私は話し始めた。これは家族と会話していく中で齟齬が出ないように必死で創り上げたこの世界の私の置かれていた環境を話すことにもつながってくる。手を抜くわけにはいかなかった。

「私が初めて自覚したのは、中学1年生の頃でした。中学まで一緒だった親友がいたとお話したと思いますが、その子が私の初恋です。当時は戸惑ったし、気の迷いだと思って男子と付き合ったこともありましたけど、ストレスが溜まっていく一方でした。だれにも言えなくて、女になっていく自分が嫌で、でもなんでそこまで嫌悪するのか分からなくて、パニック状態になることが多かったんです。実は私の体は生まれつき子宮がありません。初潮が来たとき大量出血で入院して初めて気付いたんですけど、その時子どもが産めないことに絶望するどころか嬉しいと思う自分がいて、追い詰められていた私はもう訳が分からなくなってその、一度自分の胸を切り落とそうとしたんです。その時に入院した先で今の精神科医の先生の勧めでカウンセリングを受けることになったんで、一度この街を離れることになったんです。親友は何も知りません。私がこんな体なのも、ずっと好きだったことも。ただずっと私が何も言わないことを知ってて、心配してくれてました。何も言わずに居なくなるのは耐えられなくて、一度だけ全部打ち明けようとしたんです。結局スレ違いでできなかったけど。………この街に帰ってくるなんて思いもしませんでした。精神的にどん底だった私を支えてくれた祖父が癌で倒れて、治療の副作用で農業にまで差し障りが出てくるなんてことがなければなかったと思います。あとは、さっきお話したとおりです。初恋の人にはもう親友がいて、私はかつてのような親友にはなれないし、彼女は彼女で私と会う約束をすっぽかしたから私が怒ってるって勘違いして、謝ってくるし、私と彼女を仲直りさせたい親友がいろいろ誘ってくれるし。でももう一度全部告白するユウキは正直今の私にはありません。正直八方塞がりにも程があるのに、全然気づかないふりをしていたんでしょう。マヨナカテレビには運命の相手が誰かってうつすらしいので、彼女が見えてしまった時の衝撃はその、想像以上だったみたいです」

家族の話とテレビの中で見てきたこと、そして私の過去を絡めながら延々と話し続ける。先生が横でこの世界の私の通院や入院、カウンセリング内容について触れながら説明補足してくれるのを聞いている限り、私のように彼女の受け入れと友達宣言を携えてこれなかった代償は大きかったようだ。自分を自分で自信を持って肯定してあげられない自己評価の低さが顕著に洗わえているエピソードの羅列。正直聞いていること事態が苦痛だった。

「私は小さい頃から癇癪持ちで、かっとなったり気に入らないことがあったりすると感情の押さえが効かなくなるんです。最近は落ち着いて周りを見ることができるようになったんで、無神経に当り散らして周りに迷惑を掛けることは少なくなったと思うんですけど、今度はその鬱憤を打ち明けられる相手がいなくて貯めこんでたんです。転校してきて環境に不慣れなこととか、もともと転校してくる前はこの街で育ったんでかつての友人たちもいるんですけど、仲よかった友達にはもう親友って呼べる人ができてたりして。もともと友達づきあいが下手くそなんで、新しい友達作りも不安で……そのうち学校に行きたくなくなったんです.でも2年生になって新学期に入って、学校も行かないでふらふらしてるのはおばあちゃん達は気付いてたけど、あえて何も言わずいつも送り出してくれてたので、ずっと罪悪感はあったんです。これを基に学校行ってみようかなって思ったんです。そしたら、新しいクラスで何人か友達ができて。それでやっと学校に行けるようになって、今までのストレスは忘れた気になってました。でも、そんな事なかったっ………!」

一度話し始めたら、もう止められるものも止められなくなっていた。狼狽する刑事二人には置いてきぼりで、私は延々としゃべり続け、気づいたらもう20分も立っていた。先生とのカウンセリングの中でも一度も泣くことがなかった私が、いつの間にか目尻を熱くしていることに気付いたとき、ああ、一時的にでもこの世界の私が入り込んできたのだろうかとぼんやり思う。

「………すいません。みんな優しいから聞いてくれないんです」

「あー、その、なんだろ。辛かったのにいろいろ話してくれてありがとう。無神経なこと聞いちゃったね」

「いえ、事情を説明するにはこうするしかなかっただけです。気にしないでください」

「………だが、やはりパジャマ姿で家出は少し、いただけないな。これからは気をつけなさい。男だろうが女だろうが、事件に巻き込まれてしまうことには変わりない。いいね?」

「はい、気をつけます。ありがとうございます」

「あとは警察に任せてくれれば、君にヒドイことした奴も見つけるからさ。もし何か気付いたことがあったら、電話してね」

「はい、わかりました」

二人が先生と対話している。これは終わりかな?という空気が流れ始めた頃、おもむろに足立刑事が手帳を広げた。そうそう、と取ってつけたように言われるが、どこか視線が鋭くなったような気がして私は身がすくんだ。

「そうだ。確か君、アナウンサーが亡くなった日、お祖母ちゃんと一緒に天城屋旅館に行ってるよね?トイレ借りたらしいけど、何か不審な人とか見なかった?」

「………よく、覚えてないです。緊張してたから。でも、母屋の方だったからか、変な人は見ませんでした。でも、」

「でも?」

身を乗り出すような視線。もしこの部屋にあるテレビが小さければ、また突き落とされていたのだろうか、と思うと恐怖に駆られる。

「反対側に通路が見えたんです。旅館の方の。誰か、喧嘩してたような気がします。男の人と女の人の言い争う声がしたんで。でも遠かったし、すりガラスと障子ごしだったからぼんやりとしか姿は見てないです。とりあえず、女の人は白っぽい服で、男の人は黒っぽい服の人ってことくらいしか」

「なるほど。貴重な情報、どうもありがとう」

殺気が緩む。私は始終初恋の人とその親友については名前を伏せていたけれど、祖母や天城の母、番頭さんから天城屋旅館に行くまでの経緯を聞かなければそもそもこのことは聞かれないはずだ。だから多分足立刑事は天城が私の初恋の人だと気付いている。私と天城が親戚経由の知り合いで、小学校からの付き合いだという話題に彼らが触れても不審な点は無いはずだ。この世界の私は天城以外には特別仲の良い友人はいなかったようだから、かつての親友と呼称すれば天城が浮かんでくるはずだ。この世界の私の置かれていた精神状態は憶測ながら散々ぶっちゃけたから、その人の家に行くことがどれだけストレスと緊張に苛まれるか検討くらいは着いているはずだ。目撃したという事実を伏せるということは、本当は男の姿が検討が着いているのに意図的に黙っていることにつながる。これでは目が間違いなくあっている犯人が私を見ているはずなのにおかしいことになる。黙っている理由はない。でも具体的に証言してしまうと立つのは死亡フラグだ。そもそも私が犯人を予め知っている状態でサスペンスドラマを見ている状況だったからこそアイツはだれか、はっきりと判断するに至っている。だから私が怪しまれない方法はとりあえず見えたことを朧気ながらも話すことが1番だろう。その予想はどうやら当たっていたようで、足立刑事から殺気は感じない。小西先輩に迫ったのは可愛かったからだろうし、拒否されて逆上した挙句のテレビに突き落としなはずだから、いろいろと抱えていることをぶっちゃけた私に変な幻想をいだいて襲ってくるのは余程の変態くらいしかいないだろう。



お疲れ様、という労いと共に刑事二人が去っていく。はあ、と今までで1番大きなため息を吐き出したあとで、私は倒れこむようにベッドに沈んだ。無駄に疲れた気がする。お疲れ様、と先生に肩を叩かれて、ようやく私は自然と笑うことができたのだった。












私の復帰後初の登校日はいつもとなんら変わらない日常の中にある。

いつもより少しだけ早いバスに乗った私は、隣町に通勤するために無人駅のホームに消えたサラリーマンを見送った。運動部の朝レンなのかジャージ姿で登校している生徒たちが駆け足で雨の中消えていくのをぼんやりと眺めながら、ゆっくりと通学路を歩いていた。八十神高校の指定ジャージは全学年で共通の色のため、彼女たちが下級生なのか同級生なのか上級生なのかすら判別ができない。


しかし、バスに乗りこんできた私に対して物珍しさにちらと視線は向けたものの、彼女たちは話しかけてくる様子もない。ほかの乗客が見とがめるのにも気づかない傲慢さで会話を再開していたところからして、察せられる関係せいだから無視してもかまわないだろう。私は私で読みかけの文庫本を広げてウォークマンを聞きながら世界に没頭していたから、途中で肩でも叩かれたりしない限り気付かなかったことは断言できる。


今日は何となく気分が重い。


それはきっと数日降り続くという雨の予報によるものでもあるし、わざわざ8時にすらなっていない時間帯に学校に歩いている現状でもあるし、何よりも。数日の無断欠席と入院生活からの復帰初日ということは、昨日祖母につれられて校長室に足を運び、事情説明とご迷惑をおかけしたという謝罪をしに行った時のことを思い出すからだろう。


仙人のような様相のミリオタ校長先生からやんわりとしたお叱りをうけたのは、家出扱いとなっている私の衝動的な失踪と数日の無断欠席に対して。そして大人に対してだれにも頼ろうとしなかったことに対する無謀さについて。まだまだ大人と同じように爪先立つには早いから、もう少しだけ守られる側にいなさいといわれた。高校生となってしまったものの、頭の中ではサラリーマンも経験した大学生だ。面と向かって叱責されることは少なくなったことを思えば、なかなかに衝撃だったのを覚えている。これがどんなにありがたいことなのか、本来気付くのはもっともっと後のはずだからいい経験になったと思えばいいだろう。


そして傷害事件に巻き込まれたことに対する気遣いと私の持っている特殊な事情に関して、少しだけ確認事項があった。どうやら私が転校してくる前から何度か祖母と校長先生は私に関していろいろと意見を交わしていたようで、私は何度か問われた質問に対して首を縦に振るだけでよかった。個人的驚いたのは途中から参加してきた担任である諸岡先生からも同じような叱責と気遣いを受けたことだろう。生徒指導に熱い先生だったという生徒のうわさも遜色なかったといっていい。


私が休んでいた期間にたまりまくった課題や進んでしまった倫理の範囲を指摘され、明日までに提出するようにという鬼のような指導が入ったのは流石に閉口した。まあ、忙しい方が外聞を気にする暇もないだろうといううれしくない気遣いだったのは別の話である。他教科については随時先生からもらってくるようにと言われたのはめんどくさい以外の何ものでもなかったが。ただ、一言二言ふさわしくない言動と態度が出て、校長先生と祖母から指摘を受け、訂正するという場面があったのはご愛敬だ。


その中で言われたのが、長期にわたる無断欠席と入院生活は様々な憶測を呼んでいたらしく、小さい規模の高校の特性上、ずいぶんと根も葉もないうわさが立っているとのことである。教員からのフォローはなるべく入れるとありがたい言葉はあったものの、全てをフォローすることは無理だと言われた。クラスメイトや友人や同じ部活のメンバーといった身近な存在から、少しずつでいいから誤解やうわさを自分からも訂正して言ってほしいとのことである。無理をする必要はないから、つらいならば保健室登校も視野に入れるという選択肢も提示されたのだが、いずれにせよ根も葉もないうわさに飛びつくような赤の他人にまでおびえていてはどうしようもないから登校すると私は言った。



普通に生活していても自分の知らないところで何かしら言われるのが学校生活なのだ、今回のような騒動の渦中にあるような人間は格好の標的なのは仕方ない。ひそひそいわれるのは気分が重いものの、私が対応すべきなのは明確な意思をもって詮索したり、態度で示してきた人たちだけでいい。実家に帰ってから数日は私の身を心配したという名目で訪ねてきた近所の人たちに対する対応でもうある程度覚悟の下地はできていたといってもいい。的外れな指摘や助言であっても謝罪と参考にするという笑顔を持って対応すればたいていは満足して去っていく。


問題は高校生はまだよほど人間ができていなければ、オブラートに包むという作業を知らない人が多いということだろうか。まあ、気にしなくてもいいだろう。どうせ家出して傷害事件に巻き込まれた自業自得な人間の噂話よりも、これからはもっとももっと話題をかっさらうような強烈な事件や事故、そしてマヨナカテレビという存在が学校中に広がっていくのだから。





げた箱で靴をはきかえた私は、まっすぐに職員室へと直行した。失礼しますと中に入れば、すでに何人か先生が準備を始めている。早速カバンから倫理の課題を挟んだクリアファイルを諸岡先生の机に置いた私は、メモ用紙を切り取って私のクラスと出席番号と名前、そして倫理の課題だと軽く情報を乗っけた。





これから大変だと溜息が出る。





私にはおおよそ2週間のブランクという大きな壁が立ちはだかっていると改めて自覚せざるを得ない。根も葉もないうわさに悩まされるよりも、週に1時間しかない科目ならともかく、主要五科目、特に私の苦手な理数系科目に関する課題や授業に追いつくための復習や予習が山積していることの方が憂鬱だ。恐るべき高校生活。復帰後の生徒の本業はあくまで勉学だと残酷な事実を突き付けてくれる。



ああ、そうである。



ぶっちゃけ校長先生からこれから大変だけど今までの学生態度なら頑張れば追いつけるさと投げやりな指摘をされるまで全く視野に入っていなかったのは秘密である。幸いなのは私の欠席が授業の初期であったため中間テストの日数を考えればまだ何とか追いつけそうな気配がすることくらいだろうか。メモ帳に記した教科一覧の倫理にバツをつけた私は辺りを見回した。毎回小テストをするような科目だと内申点も結構響いているはずである。少しでも取り返さなくてはならないと私はおぼろげながらに覚えている担当教員に手当たり次第に聞いて回る作業を開始した。



個人的に一番堪えたのは、英語兼体育を担当している近藤先生から「体力テスト」を体育の時間に受けるよう指示があったことである。体力づくり的な意味で長距離走や短距離走、身体を動かす内容を中心にやっているらしい中で、一人だけ淡々と記録を取るのは相当恥ずかしい。私は迷うことなく昼休みを選択した。



そのせいでブラスバンド部の顧問の先生から、現在本番練習に差し掛かっている定期演奏会には出せないと通知があった。まずい。非常にまずい。吹奏楽器は毎日毎日きちんと使って手入れしてやらないとしっかりとした音色を奏でてはくれない。しばらくはまた基礎練習からやり直しである。本当ならば、朝れんと昼休みと放課後はブラスバンド部に捧げられるというのに。とそうこうしているうちに8時を過ぎ、会議があるからと職員室から退室を促された私はカバンいっぱいにならんばかりの課題を抱えて教室に帰ることになったのだった。



すっかり忘れていたが今の時期は小西先輩の事件でマスコミに対する対応と事態の鎮静化、表ざたになっていない天城の失踪に関して隠そうと躍起になっている時期だったはずだ。天城が救出されたのかどうかは分からないものの、先生方は相当忙しいはずである。私に意図的に情報が与えられていないのは、まだ衝動的に家出したとはいえ傷害事件に巻き込まれた人間だったから気遣ったのだろうか?にしては「マスコミにあることないことしゃべるな」というわざわざ朝礼を開いてまで通知すること、そして生徒が亡くなったことを言わないのはあまりにも不自然すぎる気がしてしまう。もしかして、と何となく予感めいた期待が胸を去来するものの、チャイムが鳴って我に帰った私はあわてて二階に向かうことにした。




扉越しの教室は静寂に満ちていた。久しぶりにやってきた教室は誰もいない。時計を見れば、いつも私が学校に到着するより少しだけ早い時間帯を指していた。いつもの登校時間ですら30分経過しないと朝練習を切り上げてきた運動部のメンツや日直といった特別用事があって早く来ているクラスメイトとは会わない。誰もいない教室を見られるのは、朝早く来る人間の特権である。



さっそく久しぶりに一番後方の席に着いた私は、なんとなく嫌な予感がして机の下に手をやってみるとこれでもかといわんばかりに詰め込まれたプリントやノート。本屋のロゴが入っているビニル袋を広げてみると、いつだったか久慈川のDVDを貸してくれると約束していた男子生徒の借りものが入っている。これはひどい。全部引っ張り出して数えてみるが、カバンに入れた課題と復習分のプリントを合わせるととてもではないが今日中に全部処理するのは無理そうだ。幸いロッカーの中には全教科分の教科書やノート、資料集が突っ込んであり、わざわざ家に持ち帰る必要はないものの、昼休みもつぶさなければ間に合いそうにない。何せ全ての課題には提出期限がある。追加されたプリントの提出期限をひとつずつ確認しながら、もらってきた課題とかぶっているものは除外していくが余り削減に協力してくれない。教科ごとに課題を分けた私は、まずは得意教科から先に終わらせてしまおうとロッカーに向かうことにした。




正直今にも泣きそうである。

進んだ教科についてノートやワーク、問題集の写しを頼まなければならないし、考え付く限り済ませなければならないものが山積している。溜息しか出なかった。ゴールデンウイーク前には終わらせることができるだろうか。しばらくはこれらと格闘する必要がありそうである。

もう嫌だ。今日一日が始まりもしていないくせに、私はもう別の意味で心が折れ掛かっていた。





それにしても、思っていたより保存状態がいいプリントには驚いた。折りたたみもせずそのままどんどん入れられていったプリントは、最終的にはめんどくさくなって奥の方にくしゃくしゃになってしまっているものである。私がいなくても毎日教室は掃除される。誰かが適当に入れるだろうことを考えると、私はバスと歩きで遠くから来ているから、私のクラスには同じ方角の出身者はいないはずだし、わざわざ届けてくれるにしても毎日は流石に面倒なのだろう。小学生じゃあるまいし。だから正直プリントはすさまじいことになっている想像しかできなかったのだが、これはいい意味で裏切られた。おそらくこのプリントの山の管理を任されていたであろう隣の席に私は小さく笑った。てっきりBかO型かと思っていたのに、キャラブックのまさかのA型設定に驚いたものだが、案外あっているのかもしれない。


さて、問題である。


朝登校してきたら、2週間も学校を休んでいたクラスメイトが久しぶりに登校してきていたとする。そのクラスメイトは根も葉もない噂から信憑性のある憶測までいろんな噂が飛び交っていたものの、いまいちクラスメイトに何があったのかよくわからない。親しい友人が心配してメールをしても一通たりとも返事がこない。やがて病欠から入院と担任に知らされ、しかし面会は出来ないとくぎを刺されていたとしよう。噂ばかりが先行していた渦中の人物である。今まで話したことのないクラスメイトですら真相が聞きたくて好奇の視線を向け、どこかそわそわしているとする。そんなクラスメイトが今にも泣きそうな顔をして必死に電子辞書片手に英語の課題と格闘していて、しかも山のようなプリントを机の上に乗っけていて、しかもパンパンに膨らんだカバンを机の横にかけていたとするならば。ちらちらと柱にかけられている時計を時折見ながら、少しでも問題を進めようとぶつぶつ考えながらシャーペンを走らせ、力が入ったがためにシンが折れ、不機嫌になりながらペンケースを探っていたとするならば。誰が声をかけられるだろうか。

もちろん否だ。無遠慮に今まで何をしていたのだと軽口叩けるのは仲の良い人間だけだろう。クラスメイトというつながりしかない人間はなかなか声をかけずらいという意識が芽生える。2週間も休んでいればたまるものはたまるかと同情や悲哀を感じるかもしれない。そして鬼気迫る様子に気後れして、そうっとしておこうという選択肢を選ぶかもしれない。少しでもそのクラスメイトの機嫌が良くなるであろう課題の処理が終わるまで見守ろうとするかもしれない。


ようやくホームルームが始まる10分前になって、ようやく英語の課題だけ終わらせることができて、できたー、と思わずつぶやいた私はなんだか微妙な空気が漂っている教室に気付いて辺りを見渡した。どことなく気まずそうなクラスメイトがいる。話しかけていいのか悪いのか悩んでいる友人がいる。気づけばずいぶんと教室は騒がしくなっていた。


あはは、と思わず苦笑いがこぼれた私は、視線があった友人たちに軽くおはようと笑いかける。どこかほっとした様子で近づいてくる友人たち。再び喧騒が帰ってくる。片付けてくると消しかすを下敷きでかき集め、私は後方にあるごみ箱に捨てに行く。軽く手を払った私は、小さく息を吐いた。きっとこれから怒涛の質問攻めが待っているに違いない。昼休みは体力測定で時間がつぶれてしまうから、ヘタをしたら下校時間ぎりぎりの7時半まで残っている必要が出てくるかもしれない。


あまりに遅くなったら祖母に電話しなくては。例の事件で私が一人で登校することに難色を示していた祖父母と家族を説き伏せられたのは、毎日メールをするようにと義務付けられたからに他ならなかった。GPS機能を付けるという方向も割と本気で検討された時にはどうしようかと思ったが、これから高校受験が待っている自分をほっといて過剰に保護しようとする家族に嫉妬した弟の微笑ましい問答があり、私自身今回の件で再び家族と暮らすという選択肢は見えてこなかったため現状維持という形で落ち着いている。里中や天城はわざわざ実家を訪ねてくれたそうである。少なくとも何も言えないまま転校するのはあまりにも咎めた。


振り返った私は、里中と月森が入ってくるのをみた。後から遅れて息を切らせた花村が入ってくる。机で私を待っている友人たちの輪に溶け込む前に、私はひらひら、と手を揺らして軽く会釈した。


「おはよう、久しぶり」

たった一言笑った私に、一瞬だけ硬直してしまった里中は何度か瞬きして見る。

「おはよう。あ、俺は月森孝介。12日から転校してきたんだ、よろしくな」

「私は神薙晃だ。今後ともよろしく」


クラスメイトは月森と私が知り合いなのはしらないことを考慮してか先手を打って挨拶と自己紹介をしてくれた月森に、私は小さく肩を揺らした。横から出てきた花村が私を認めておー!とあいさつしてくれた。


「よーっす、神薙!久しぶりだな。もう大丈夫なのか?」

「大丈夫大丈夫、それより見てくれこの課題の山。今まで休んだつけだって。死にそうなんだけど」

「うわー同情するわー。俺の汚いノートでよけりゃ見せてやっからさ、頑張れよ」

「昼休みは体力測定もあるからしばらくは休めそうにないな。もうやだ、帰りたい」

「あはは、がんばれー」

「あ、そうそう、引き出しのプリントありがとな。綺麗で驚いた」

「おいそれどーいう意味だよ!確かによくA型って言ったら驚かれるけど」


失礼じゃね?と席に着いた月森に花村が振る。え、A型だったのか、と真顔で返された花村はおいおいおいと月森に詰め寄った。お前もか、月森い!とどこか必死な花村に友人たちと笑っていると、緑色のジャージがぴょんぴょんジャンプしている。ちょっとまったーっと大きな声とともにぐいっと花村と月森を押しのけ、私の前に飛んできた小さな影はずいっと私のところに近づいてくる。


「アタシのこと忘れてない?華麗に無視しないでよね、傷つくじゃん!おはよう、晃!」

「ああ、おはよう、千枝」


向日葵のように笑う彼女を見て、私は心の底から笑った。あとは雪が揃えば後で話ができるなと小声で話すと、一瞬だけ里中の表情が曇る。あの、その、と不自然に口ごもる里中。否応にも分かってしまう状況。まさか。ああ、それなら。口に出すより早く彼女の沈黙を汲みあげたのか、月森が花村に何やら耳打ちしてけしかけていた。月森と私は初対面であるという前提でクラスメイト達、友人たちはこの問答を垣間見ている。話を振るなら花村の方が自然だと思ったらしい。横からひょいと顔を出した花村がさりげなく笑った。


「順番は守れよ、里中。神薙はもう用事ができてんだから、昼休みでいいだろ?」

「むー、分かったわよ、うっさいなあ」

「じゃあ、後でな」

「ん。後でね、晃」


千枝達を見届けて、私は友人たちとともに談笑することにした。もたげていた不安を必死で押し殺しながら、少しでも平穏な日々につかりたくて話の中に溶け込んでいく。チャイムが鳴ったのは、そのあとすぐのことだった。









外は雨が降り続いている。


昼休みは体育の時間の体力測定に全力を費やし、授業はなんとか終えることが出来た。今日はブラスバンド部の練習は休みだが、個人練習をする人間がちらほらといる曜日だ。人がまばらになり始めた教室で、みんなで話をしようとしていた私に、月森が職員室に行こうと誘った時には驚いたのである。里中と花村を連れて職員室を潜り抜けた私の前で、月森はさも当たり前のようにブラスバンド部の一番最初の部員がやっている鍵と日誌を取ってくるという作業をやってのけていた。ああ、そう言えば文化部の解禁日は25日だっけ、昨日じゃないか。そうだ、すっかり忘れていた。ブラスバンド部は文化部の選択の一つじゃないか。そうか、月森はブラスバンド部に入ったのか、節子攻略してくれるのか、これはいい。なんという福眼!こっそり心の中でガッツポーズをきめつつ、私はこれからよろしく、先輩、と冗談めかして笑う月森に、肩をすくめて笑うしかなかった。



「お、お邪魔しまーす」

「すっげえ、音楽の時間以外でくんの初めてだわ、俺」



控えめなノックの後、ドアノブを回して顔だけ出した里中が呼びかけるので、私は上靴を持ってそのまま入るように促した。部員が使っている準備室のげた箱の中に入れてしまえば何人この部屋にいるかなんて分かりはしないのだ。挙動不審気味に入ってきた里中と花村が私を捜しているので、こっちだと呼びかければあわててかけてくる。月森はと言えばああ、上履きはそこのげた箱に適当に突っ込んどいてくれ、どうせ今日は誰も来ないから、とすっかり部員の顔をしていた。どうやら気が合う部員と会えたらしい。投げやりに言われた花村たちは、昨日の今日でこれってどんだけ適応力があるんだよと顔を見合わせていた。ずいぶんと順応が早いらしい。さすがは主人公だ。それに加えてずいぶんとマイペースなところがあるらしい。私はと言えば2週間ぶりに手にした楽器を手入れするべく収納場所からケースを引っ張り出していたところで、これそこらへんに置いておいてくれ、と里中と花村に渡してある。おもっと驚いている二人だが、エレベータなんて便利なものがあるわけもないこの学校で演奏会などで毎回3階までの上り下りの運搬もブラバンの仕事なのだといえば驚いていた。手入れする布とスプレーを引っ張り出し、すぐ隣の音楽室に行こうと告げた。





自称特別捜査本部は雨天により屋上は無理、教室では私に対するクラスメイト達の好奇な視線のせいでいろいろと話ができないため、臨時支部という形で音楽室で行う運びとなっている。ちなみに顧問の先生から楽器の手入れと練習をしたいと申し入れて鍵は借りて来てある。実は部員同士がこっそりここでお昼を食べるために顧問の先生には内緒でスペアキーがあったりするのだが、どこぞのアホ男子学生が食べたパンの袋をごみ箱に捨てるという証拠隠滅を怠ったため現在鍵は変えられており、すっかり意味をなさなくなっている。最悪である。


私たちはフローリングがひかれた部屋に適当に座った。一応私はここで練習と手入れをしたというアリバイ工作をしなければならない。個人で管理が任されている楽器は普通ほかの部員が勝手に触ることはない。ヘタにチューニングや調整をしてしまうと音が変わってしまうからである。案の定2週間ぶりの様相を呈しているホルンにうわあ、と思いつつ、私は1から手入れを始めた。わざわざ個人用ではなくて共用の部活品を使っているのは、隅っこにある洗面所で洗った後に物干しざおに通すためだ。興味しんしんで見つめる千枝達に軽く説明しながら、やがて手入れを終える。そんな感じで楽器を片づけた私は千枝たちの前に戻ってきた。



「じゃあ本題に入ろうか。まずは月森、私のことはどこまで話したんだ?」

「えっと、とりあえず晃が失踪したのはもうひとりの自分に連れ去られたことと、そのせいで4月に入る前からの記憶があいまいなのは話した。そのせいでもうひとりの自分を受け入れている状態なのに、ペルソナにすることができないってことも」

「そうか、ありがとう。あいつには?」

「いや、まだ千枝達とは会わせてない。というよりもあの時と今とじゃはいる場所が違うから、あの場所まで行く道がさっぱり分からないんだ。それに今はそれどころじゃない」

「それどころじゃない?」

「ああ、そっからは俺が話すよ。いいか?」

分かった、と先を促すと花村が口を開く。

「天城は旅館が忙しくて帰っちまったんだけどさ。こいつがお前を助けたとかわけわかんねーこというから里中が冗談言うなって怒っちまって、実際にテレビに入れるかどうか見せてみろって話になっちまったんだよ」

「だからごめんってば!その日マヨナカテレビ見たら、なんか晃が誰かに襲われてるっぽい映像見ちゃうし、途中でテレビが消えちゃうしですっごく怖かったんだから!雪子は泣きそうな電話してくるしもうどうしようかって。そしたら月森君があっさり大丈夫だっていうんだもん。だってさ、そんな信じられるわけないじゃん」

「あれは俺の言い方も悪かったと思うから気にしてないよ」

「ありがと、月森君」

「そのせいで俺も巻き込まれてテレビに吸い込まれる羽目になっちまったんですけどー?」

「う、うっさいなあ!ごめんっていってるでしょー?いつまでひきずんのよ、ヒーロー願望全開だったくせに」

「だあああっ?!何言っちゃってんのこのひと?!」

「……月森、解説してくれると助かるんだけど」

「実は俺があの日落ちてきたのは、そもそも里中さんが晃のことを心配してて、少しでも行方が分かったらってことでマヨナカテレビを見る約束をしたからなんだ。マヨナカテレビだと俺が助けに入る直前で放送が切れたらしくて。その日は天城さんお休みだったんだけど、里中さんはもう、なんだろうな、パニック寸前だったらから、つい「大丈夫」だって言っちゃったんだ。里中さんは何も知らなかったから、最近知り合った俺が何の根拠もなく慰めるようなことを言ったから怒っちゃって」

「ホントごめん。アタシ、かーってなっちゃうとなかなか前が見えなくなっちゃって」

「ううん、いいよ。それで…その、なんで知ってるんだと言われたから俺が助けたってつい」

「テレビに入れると言っちゃったわけか」

「うん」

「正直俺もあんときはちょっとあれだと思ったわ、うん」

「そっか、心配かけてごめんな、千枝」

「ううん。無事だったからいいよ」

「えっと、まあ、なんだろう。仲直りできてるようで安心した」

「そりゃーさあ、ジュネスの家電売り場で堂々と腕やら首やら突っ込まれちゃ怒りもふっとぶって。何してんだお前―って思わず叫んじまったもんなあ」

「お客さん来た時にはどうなるかと思ったよねー。月森君、中は広そうだとか空間が広がってるとか冷静に実況するんだもん」

「空間て何だよ、広いってなんだよっていちいち突っ込ませるような問題児だとは思わなかったぜホント。普通そんなことになったらひっこ抜こうとするだろ?そしたら里中の奴どーんって突っ込みやがってさ」

「わけわかんなくなっちゃったんだもん、どうしろってのよ!」

「その先でクマと再会したんだ」

「冷静だな、そこ!」

「クマはなんて?」

「神薙もかよ。おい、里中、あんまり話脱線しすぎると蚊帳の外にされちまうぞ」

「花村のせいだろがー」

「なんで俺?!」

「あんたが漏れそうとかなんとか信じらんない!」

「だからさらりとピンポイントで暴露すンナよおい!」

「悪い、二人とも静かにしてくれ」

「ちょっとうるさい」

「「はい」」

「内容は初めて会ったときと変わらなかったな。相変わらず自分が何なのか分からなくて困ってるみたいだった。ただ、前よりは随分と落ち着いて話せるようになってた」

「本人はさびしんボーイらしいからな」

「……そうか、な」

「で?」

「アナウンサーの部屋に案内してもらった。クマは晃の場所は覚えていないようだったから案内はなかったけど、俺があっちの世界に来たことがあるって証明してくれて助かったよ。とりあえず俺の疑いは晴れて、花村たちと一緒に帰してもらったんだ」

「それでさ、その日雨だったからマヨナカテレビ見てみようかって話になったの。こんなことあったら気になるじゃない?」

「……そしたら、今度は小西先輩がうつってたんだ」

「小西先輩が?」

「ああ。まだ、こう、ぼーって感じだったけど。一番最初に気付いたのは正直寝れなくてさ、まだ月森の携帯番号とか聞いてなかったからやきもきしながら見てたぜ。心配になってメールしたんだけど、そしたらあっさりどうしたんだってメールきたから安心したんだけどさ、その日からバイト来なくなっちまって。家の都合かなって思ったら……」

「そしたら晃の時みたいにマヨナカテレビうつっちゃうんだもん。びっくりしたよね」

「あんときは月森しかテレビん中入れなかったからさ、放課後になったら月森に頼んでみようってそれだけで頭いっぱいだったからなあ」

「だからってフードコートで模擬刀ぶん回す馬鹿がどこにいんのよ。月森君のおじさんがいなかったら補導歴ついてたくせにー」

「へいへい、わるうございましたってば。そう言えばテレビん中に初めて入った時も、小西先輩のときも月森の「落ち着け」って声は結構効いたなあ」

「うんうん。だから特別捜査本部のリーダーは月森君なんだよね」

「今思えば戦う手段もねえのに、雰囲気出しのノリで突撃するなんてあほなことしたよな、俺ら」

「だよねえ、むしろ月森君にすごく負担かけちゃって。もーしわけないって感じでさ、あはは」

「いや、でも二人がいなかったら俺も多分積極的に動くことはなかったと思うから感謝してるよ」

「こっちこそ命まで助けてもらって、もうさ、ありがとうだけじゃ足りねえわ」

「小西先輩助けるためになんかすっごく広いダンジョンに行ったんだけどね、そこで小西先輩のシャドウが花村のこと…」

「うざいだの何だの言ってたけどさ、シャドウとはいえ本人に言われたのはきつかったなあ、あはは。でも、さ、ぶっちゃけそれを拒絶したから小西先輩は襲われたわけで、ってことはまだ……!」

「はいはい、のろけはいいから肝心なとこスキップしないの」

「月森、解説」

「小西先輩は酒屋の娘さんなんだけど、経営がうまくいっていないらしいんだ。本人はジュネスでバイトして、少しでも家計の足しにしたいって頑張ってるのになかなか理解されなかったらしい。俺たちはあそこで小西先輩が家族や友達を思って行動してるのに、なんだろう、言葉やタイミングが足りなくてなかなか理解してもらえないっていう声を聞いたんだ。その中には結構ジュネスに関する近所の人の悪口も入ってて、マヨナカテレビ見てから先輩を助けることで頭がいっぱいだった花村は結構疲れてるのに無理してついてきてたんだ。今まで近くにいたのに気付いてあげられなかったとか、いろいろ考えちゃったんだろう。途中で花村のシャドウが襲ってきたから戦ったんだ」

「結構心の奥底で自分も気づいてなかったこと、里中とか月森とか、どっかで聞いてるかもしれない小西先輩の前でべらべら言われちまってさ、覚悟なんてできてなかったからなあ。はは、情けねえ」

「でも受け入れてたじゃん。カッコいいよ花村。頑張ればヒーローになれるって。頑張れ、キャプテン・ルサンチマン!」

「だからさらりと触れるなってば、うっせえな!こんの肉食女子!」

「……月森、詳細について詳しく」

「やめたげて、お願い!」

「ごめん、晃」

「心の友よー!」

「また今度な」

「さらりと次回予告?!やめてくれってば!それより小西先輩が助かったことの方が大事だろ!」

その言葉に、私は思わず息を飲んで硬直してしまった。本当に?と返した私に、おう!とそれはそれは嬉しそうに花村は笑って答えてくれた。

「小西先輩、助かったのか」

「ああ。花村が自分を受け入れたことでシャドウがペルソナに変化したんだ。だから俺と花村と二人でなんとか」

「……千枝は?」

「アタシはね、クマ吉が信じられないくらいよわっちいからさ、守ってあげてたの。クマ吉は遠くから離れて指示を飛ばしてたんだ。結構いい感じだったよ」

「小西先輩も神薙と一緒で入院してるんだ。でも命に別条はないから心配すんな」



そうか、小西早紀先輩は助かったのか。入院中なのか。私は心の中で安堵のため息をついた。もしかしたら、と予想していたことではあるのだ。本来ならば、アナウンサーの彼女が殺害された事件現場の第一発見者である小西早紀は、同一犯によってテレビに突き落されて第二の被害者となってしまう。しかし、アナウンサーの彼女がテレビに放り込まれるという第一の犯行のすぐ後に、私はこの世界の私の成れの果てによってあのテレビの向こう側に引きずり込まれてしまっている。あんまり考えたくはないのだが、本来だれだか分からないほどぼんやりとしか映らないはずの真夜中テレビの向こう側では、きっと私とあのシャドウモドキの恥辱モドキのドラマ仕立てな趣味の悪い深夜番組は毎日のように繰り広げられていたに違いない。本来ならば、小西早紀先輩の真夜中テレビとなるはずだった時間帯には、ぼんやりとした次回予告のシルエットではなくて私の真夜中テレビが放映されてしまっていたはずだ。愉快犯なあの男がそんな面白いテレビが絶賛放映中であるにも関わらず、小西早紀先輩をすぐにテレビの中に放り込んでしまうとは限らない。私が月森に救出されたのは4月の16日だ。私は月森を見た。



「私が助けてもらったのは、16日だったよな?」

「うん。小西先輩がテレビの中に放り込まれたのは、19日なんだ」

「19日?」

「うん。ほら、一日中雨が降ってた日、あっただろ?危なかったんだよ。次の日は霧が出るだろうって予報が出てたからさ、花村たちとあわててジュネスのテレビくぐって助けに行ったんだ」

「なあ、花村。犯人は?小西先輩は何か覚えてないのか?」

「いんや、全然」

花村は肩をすくめた。

「それがさ、よく覚えてないんだってよ。助けてくれたお礼にって、いろいろと教えてくれたんだけどさ、メールで聞いた限りでは、不審人物に声かけられたって感じはしなかったんだってよ。何でも、普通に挨拶して、ドア開けて、そしたら記憶が飛んじゃったらしいからなあ。小西先輩、あんときはテレビに出ちゃったせいで、近所の人や学校の友達、家族にいろいろと聞かれたし、知らない人からも声かけられまくってたから、精神的に参ってたこともあってさっぱりだって。ただ、黒と白の四角い輪郭の中に押し込まれたことだけは覚えてるらしいぜ?」

「テレビの中に放り込まれたのは確かなんだな」

「小西先輩が復帰したら、いろいろ聞いてみっか、って感じだな」



雰囲気がやはりほんの少しばかり重くなる。そうか、と私はため息をつくほかなかった。どうやら、一つ、ずれたようだ。私が救出されたことで、真夜中テレビが映らなくなった。霧が出たのに誰も発見されなかった。死体が出なかった。私は死ななかったのに、アナウンサーは死んだ。この違いはなんだ、という比較できる前例が出来た。真夜中テレビに予告されるぼんやりとした映像と、真夜中テレビというふざけた番組と霧の関連がなおさらあいまいになってしまう。これじゃあ、どっちが小西先輩をテレビに放り込んだのか分からない。どっちだろう?ただ一つ言えるのは、私の真夜中テレビを彼らは確実に見ているということだけだ。状況が悪化しなければいいのだが。そして私は、とうとう訊きたくなかったことを切り出そうと決めたらしい里中の顔を見るに至る。沈黙して耳を傾けることにした。




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