子供の鳴き声が反響しはじめ、病院の一室がみるみるうちに変化していく。シャドウや空間が今まさに上書きされていく様子を私たちは目撃しているのだ。それだけ完二のシャドウの力が強い証であり、私たちの侵入を拒んでいる証でもある。
それはおそらく稲羽市立病院にある遺体安置室だった。完二の父親の遺体は、その建物全体から見れば目立たない一画にある、目立たない小部屋に安置されていた。
父親は移動式のベッドの上に仰向けに寝かされ、白い布をかけられていた。
窓のない真四角な部屋で、白い壁を天井の蛍光灯がいっそう白く照らしていた。腰までの高さのキャビネットがあり、その上に置かれたガラスの花瓶には、白い菊の花が三本さしてあった。
花はおそらくその日の朝に活けられたのだろう。壁には丸形の時計がかかっていた埃をかぶった古い時計だが、指している時刻は正確だった。それは何かを証言する役目を担っているのかも知れない。そのほかには家具もなく装飾もない。
たくさんの老いた死者たちが同じようにこの簡素な部屋を通過していったのだろう。無言のままここに入ってきて、無言のままここを出て行く。その部屋には実務的ではあるが、それなりに厳粛な空気が大事な申し送り事項のように漂っていた。
それは今まで戦ってきたシャドウとは明らかに違っていた。
《とうさん......》
《とうさん......》
《おとうさん......》
少年の声がする。今にも泣きそうな男の子の声だ。
「もしかしてこの声、完二くん?」
「ううん、小さい頃の完二くんじゃない?天城さん」
「あ、たしかにそうかも!」
幼なじみの2人は幼い頃の完二を知っているためすぐに気づいたようだ。2人が言うなら間違いない。この声は小学生くらいの完二のシャドウなのだろう。
「なんか......つらそうだなあ」
《なんで呼んでくれないの》
《なんで起きてくれないの》
《なんで笑ってくれないの》
「小学生くらいでお父さん亡くなったんだっけ?そっか......やっぱ寂しいよね」
《やだ》
「受け入れられないよなあ」
《やだ》
「死がどういうものか、わからないよね」
《いやだ》
「完二くん......」
《お父さん連れていかないで》
「あー......病院で......」
《いかないで》
「このまま火葬になるんだっけ?」
《お父さん》
「完二って救急車に運ばれてすでに亡くなったお父さんを病院でみたんだよな?たしか」
《お父さん》
「え、まじ?じゃあ......」
《お父さん!!》
「これが火葬前の最期の別れになったわけか」
時空が歪んでいる。遺体安置所になぜか霊柩車が乗り入れている。
やがて父親の遺体が簡素な棺カステラの木箱をいくらか丈夫にした程度の、いかにも愛想のない代物に納められていく。故人は完二に似て大きな体躯だったが、それでも長さにほとんど余裕はなかった。合板でできていて、装飾もろくに施されていない。
葬儀社のライトバンは、運転席以外のドアのガラスはすべて黒く塗りつぶされ、真っ黒な車体には文字もマークもない。特別仕様で天井を一段高くしてあり、レールを使って寝台部分だけをそのまま載せられるようになっている。そこに完二の父親の棺桶が載せられる。
どこにいくのか、と完二が母親に聞くのが聞こえてくる。
《お父さんを燃やさないで!》
完二の悲鳴が木霊した。
「きっついなあ......」
「聞いてるだけでしんどいよ、これ」
「完二......」
悲痛な男の子の叫びが木霊する。誰にでも想像しえる悲劇が私たちの前に横たわっていた。シャドウにとっては今まさに起こっている悲劇だ。
巽屋は代々全国の染物屋へ卸し始めたことでスタートをきった生地問屋だ。生地問屋である以上、生地に関する知識や経験はもちろんのこと、多くの染物屋との関係を築く中で、印染しるしぞめに関する知識や経験も積んできた。今では、お客様の用途やお好みを伺った上で、印染しるしぞめに最適な生地と染め方の組み合わせを提供できていた。
その目利きの主人であるお父さんが死んだ。お父さんは染物の職人でもあったから、その腕に惚れ込んで常連だったお客さんに支えられていたから、これからどうなるかわからなかった。
お母さんは色んなところに頭を下げて自分がお父さんの代わりに目利きを勉強して問屋を続けるために頑張り始めた。
裁縫の腕を磨いて小物などを出し、今までにない方向性を打ち出すことで何とかジュネスの脅威にも太刀打ちできている。
そんな商店街内でも上手くいくところ、いかないところ、現状維持できているところで軋轢が生まれ、それが親から子供につたわっていく。
やがて子供たちは裁縫の手ほどきを受け、跡取りとして上手になっていく完二をいじめ始める。男のくせに絵が上手、縫い物ができる、おかしい、おかしい、男のくせに。親の耳に入れば染物問屋の息子なんだからあたりまえだと怒られるし、謝罪にきてくれることもあるが、意地の悪い子供は繰り返し繰り返しいじめる。
初めこそ我慢していた完二だったが、調子に乗り始めた子供たちはやがて完二の地雷を踏み抜くことになるのだ。そして喧嘩になりいじめは止んだ。完二は学ぶのだ。我慢してもいいことはない、いってわからないやつには手を出してもいい。
成長期が始まり、体格に恵まれ始めた完二は、なおのことトラブルに巻き込まれやすくなる。そうして素行が悪くなり、不良と呼ばれるようになっていく。
一度も母親に打ち明けたことはなかった。いつも事後報告だ。
そして、父親のいない生活にすっかり慣れた今も、やはりこうして喪失の記憶は色濃く残っている。置き去りにされた小学生のころのトラウマを集約したもの、それがシャドウになったのだろうと私たちは悟るのだ。
いつしか小学生の完二は消えてしまった。代わりにいるのはその残滓。それが形をなし、シャドウとなる。そして侵入者である私たちに襲いかかってきたのである。
母親はこのとき、完二にいったのだ。父親は今から火葬場に運ばれ、焼かれてしまう。煙となって空に立ち上り、雲に混じる。そして雨となって地表に降り、どこかの草を育てる。何を語ることもない、名もなき草だ。
それはきっと道端の通学路に咲いている花を咲かす。だからないてはいけない。お父さんは完二のすぐそばに居る。ずっとそばに居る。見守っている。だから2人でお父さんの分まで頑張ろうねと。完二はうなずいた。今日からお母さんをお父さんの代わりに守ると。強くならなくちゃいけない、男の子なんだからと。
頭では理解出来ても心は納得できない。それでも泣いちゃいけないと大好きな母親がいったから、甘えたい気持ちを、寂しい気持ちを、その日から完二は完全に封印したようだ。
そして、それが今私たちに牙を剥いている。
あの日、完二たちから永久に父親を奪った霊柩車から変異したシャドウが私たちの前に現れたのだ。
「みんな気をつけるクマッ!あの車に乗ってるシャドウが本体クマー!!すんごい強いクマッ!!」
私たちを轢き殺そうと床だろうが壁だろうが縦横無尽に駆け巡る真っ黒な不気味な車から不気味な笑い声がする。ヒビが入っている運転席側の窓からなぜかぬいぐるみのクマが見えた。ただ、腹が裂けている。白い綿の向こう側になにかがいて、ぎょろぎょろした目がこちらを覗いているのがわかった。そして、そいつは私たちに向かって車から不気味なガスを撒き散らした。
「気をつけるクマー!状態異常にかかりやすくなったクマー!」
クラクションがする。そして私たちを血祭りにしようと車が襲いかかってきたのである。
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