ペルソナ4 第5話
ペルソナ5

ただ絶望的なまでにタイミングが悪かっただけ。


ざああああああああああ。



ざわめく雨音、したしたと叩きつけられる雨粒の冷たさと痛み、だんだん浸食していく水の不快さ、重さ、じわじわと感じる蒸し暑さ、そして遠く聞こえる蝉の声。ぱち、と目を開けた私は、落下してくる雨粒に反射的に目を閉じたが、そのまま目をこする。ぐっしょりと濡れた前髪をよけ、ふらふらと立ち上がった私は、すっかりパジャマのままだということに気付く。はだしのままで、片手にはとっさに手にした携帯電話が握られているだけ。すっかり泥だらけになってしまったパジャマに顔が歪むが、このままではいけない、とあたりを見渡し、私は走り出す。砂利道で足が痛いが、気にしている暇はなかった。周囲は大きな木々、縄でくくられた立派な御神木、後ろには古ぼけた鳥居、そして少し階段を上った丘陵の隅に私は倒れていたらしい。その先に神社の本殿があったのだ。ここは、辰姫神社なのだろう。



はあ、はあ、と息を切らせて、雨宿りに本殿にたどり着いた。泥だらけのパジャマに全身びしょ濡れの状態だ、無性に気持ち悪い。タオルがほしいが、あいにく私は手持無沙汰。すぐに携帯電話を取り出してみる。さいわい電池も電波もたっているし、壊れている気配もない。日付は2011年4月11日。時刻は11時34分32秒。もう学校が始まっている時間ではないか。ぎょっとした私は、あわてて祖母に電話をかけてみる。耳に当ててみる。しばらくして、コール音に飽き始めたころ、電波がつながりにくくなっているとアナウンスが入ってしまう。こんな姿で商店街に出るのは気が引けて、祖父にも、自宅にも電話をかけてみるが同様の結果だ。はあ、とため息。仕方ないが、助けを求めよう、と私は鳥居に向かって足早に走る。


『どうしたんだよ?』

「――――――――っ?!」


きいん、と頭に直接響いてきた声に戦慄する。周囲を見渡しても、誰もいない。降りしきる雨の中、神社には私しかいない。悪寒が走って、血の気が引くのがわかる。さっきの声は、誰だ、誰の声なんだ。男性にしてはやや高く、女性にしては低すぎる中性的な声、囁くような、わずかながらに嘲笑を交えた声。こわくなって私は神社をぬけようとした。だが、どういうわけか赤と黒の空間の先には、なぜかあるはずの商店街がなく、ただ広がるのは灰色の壁、壁、壁、そしてセーブの青い蝶、重々しい扉だけ。


「…で、なんで、ここは?」


人っ子いない、通路。異界空間に私は立ち往生せざるを得ない。こわくなって引き返せば、辰姫神社が広がっていた。迷った末に、本殿に駆け足で戻る。おそろしいほどの静寂が訪れた神社だけが切り離されて存在している。不気味さに私は狼狽するしかない。おかしい、おかしい、おかしすぎる。なんなんだ、ここ。体温が奪われていくわりに、あたりはまるで夏のように暖かく、私は凍えずにすんでいるが、そういえばさっき蝉の声がしたような。耳を澄ますと、かすかに鳴き声が聞こえてくる。どういうことだ、今はまだ4月の上旬、春先だというのに。決定的な違和感に気づいたとき、また頭のてっぺんから、がつん、と響く声が頭の中に反響する。私は思わず耳をふさいだ。


『どうしたんだよ、数カ月ぶりの再会だってのに、忘れちまったのか?』

「から、だからっ、お前は誰なんだ!再会とか、忘れたとか、そんなのしらない!どういう事だ、答えろよ!」

『…………あはははははっ!傑作だなあ、こっちの世界のこと忘れちまうくらい、あっちの世界はよかったってか?そりゃよかったなあ』

「はあ?なんのこと」

『ふざけてんのはお前だろ?お前が望んだんだろうが。我は汝、汝は我、本物は自分だって抜かすから、出してやったんだろうが』


脳裏によみがえる、テレビからのびた白い手。つかまれた右腕。私は目を開き、腕を見る。青あざとなって、くっきりと指の跡が残っていることにもはや恐怖心から二の句が告げない。引きずり込まれる真っ黒な画面。必死で抵抗したがなすすべなく引きずられ、それからどうなった?何があった?思い出したくないのに、心のどこかで状況把握をしようと必死になる私がいて、だんだん混乱していた頭が冷えてくる。あれは、誰の手だった?





『そんなに神薙晃になりたいんなら、なってこいよ。そう言ってから、たった数ヶ月しかたってないってのに、忘れちまったのか?』





また、声だ。びくっとした私は、辺りを見渡すが、やはり誰もいない。雨の降りしきる、誰もいない商店街。分からないから、受け入れるしかない?目をそらすな?意味の分からない罵声に取りつく島がない。


だが、わかったことが一つだけある。息が詰まりそうになった。あの時、マヨナカテレビの代わりに現れたあの白い手の先には、にたりと裂けた口で笑った、歪な笑みをたたえた、本来の私、大学生活を送る男性としての自分をてにいれた、私がいた。


つまり、この声は、私。実際に声を発するときと人から受ける声は違って聞こえるから、わからなかったけれど、私なのだ。なんてことだろう、私はあの時、テレビにそのまま引きずり込まれてここにいるのだ。きっと、ここはテレビの中。反響するのは当たり前、声の主は、私の中に存在する、私が受け入れがたいと思っているであろう、深層心理のなかでも突出して嫌悪する部分の具現化した存在、シャドウその人なのだろう。私自身に拒絶され、取りつく島のなくなった、哀れなペルソナ。



ここまで考えて、私ははあ?と声を上げた。シャドウはシャドウの宿主に拒絶された部分がこの世界に感化される形で目覚め、具体化し、やがて拒絶される形で暴走して宿主を喰い殺して、もろとも消滅する。だとすれば、おかしい。私が私であることを嫌悪した時期はとうに過ぎ、家族と友人と許容してくれる大学という環境があったから私はすっかり私を気に入っている。確かにこの世界にいる私になってからは、再び生物学上の区分に縛られる生活を強いられ、辟易している部分はあるが、私は私を嫌悪するまでには至っていない。自我を抑え込むまでには追い詰められてはいない。あのときと比べて十分すぎるほどの心の余裕をもって高校生活になじんでいったはずだ。シャドウが周囲には見せられない自分の一面であり、認めたくないが故に閉じ込めている一面ならば、シャドウとして表れてもおかしくない。しかしながら、私は周囲に見せる時期をうかがっている段階であり、まだ時期尚早と考えて控えているだけであって、別に見せられないわけではない。ましてや拒絶するなんてことがあるはずがないのだ。どういうことだ。無意識の領域における部分だから私は私のすべてを把握しているわけではないけども、シャドウとは宿主が最も感じるであろう嫌悪感の対象がなるものではないのか。このような空間を作り上げるほどどす黒い何かが私にあるとすれば、一度は自覚したことがあるはずなのに、それがない。全く心当たりがなく、私は途方に暮れるしかない。



雨は降り続いている。どこかで苛立ちのこもった舌打ち。私は手を下ろした。


『わかってるくせにいつまで目をそらす気だ。いいかげんにしろ。こうやって忠告できるのも奇跡だってのに、どうでもいいことなんかほっておけ』

「だから、なんのことだよ」

『………アンタ、ホントに覚えてないのか?』

「ああ、覚えるもなにも、4月に入ってからの記憶しか私には無いな」

『…………あははははっ!そーか、そーか、そーいうことか!やっぱり神薙晃じゃないっていう重圧に耐え切れなかったのか、バカなやつ!』

「なに笑ってるんだ」

『うん?マヨナカテレビの噂を真に受けてダマされて、この世界に閉じ込められた馬鹿な奴から生まれたシャドウの顛末について笑ってただけだよ』

「・・・・・・・・え?」

『その様子じゃ本気で覚えてないみたいだから、教えてやろうか』

「ああ」

『数ヶ月前、理想の自分に会えるっていうマヨナカテレビの噂を実行して、この世界に引きずり込まれた馬鹿がいたんだ。なんで気づかなかったんだろうな。理想の自分に会える?じゃあ逢えたらどうする気なんだ?どう頑張ったって理想の自分になんかなれるわけねえのに。それにテレビの向こうにいる理想の自分は、現実世界にいるバカよりも自分のほうが相応しいって思うに決まってる。この噂が本当にあることなのに、なんで誰も事実なんて気づかないまま、マヨナカラジオとかふざけた都市伝説が受け継がれ続けてるだけなのか、ちょっと考えれば分かることなのにな』

「ちょっと待ってくれ、まさか、アンタは」

『そうだよ。数カ月前にこの世界に閉じ込められた大馬鹿だ。そして、アンタは、オレから生まれたシャドウの癖に汝は我、我は汝とか物知り顔で抜かすから、代わりに神薙晃になってくれよ、って追い出したやつのなれの果てなんだ。記憶喪失になって自分のこと忘れて、神薙晃になろうなんてご都合主義の塊だな、ホントに』

「入れ替わった、のか?この世界は雨が降ったらシャドウが暴れてあんたも死ぬのに」

『へえ、そうなのか?襲われないってことは、もうオレは人間じゃなくなってるんだろうな』

「………嘘だろ、冗談じゃない………。なんでそんなバカな真似したんだよ」

『バカな真似、ねえ。その口が言うか。オレにとって理想的な人生を歩んできたアンタには分かんないだろうよ』

「・・・・・・。引きずり込んだ理由は何だ。私を殺す気か?私を殺したら、シャドウになったんならアンタは道連れに心中するハメになるぞ?」

『さっきからいってるだろ、久しぶりに話そうぜっていう気分で呼んだだけだ。でも、気が変わったな。アンタが神薙晃としての記憶を失ってるんなら、オレがアンタをあっちの世界に送り込んだ理由がなくなる。覚えてもらわねえと』



どういうことだ。難解な問答を丸投げされて頭が痛くなってくる。













それにしても、まずいことになったと携帯を見る。日付は11日。主人公が転校してくるのが明日、アナウンサーが足立にテレビに放り込まれ、シャドウに喰い殺されるのが翌日の放課後。つまり外の世界で霧が出て、この世界のシャドウが暴走するということだ。しかも13日には小西先輩が足立にテレビに放り込まれ、翌日の早朝にはシャドウに殺されている。14日、あと3日までに自力でクマのいるところまでたどり着くか、それともクマに見つけてもらえるまでここにいて人が放り込まれたということを聞いて、千枝や花村が私の存在に気づいてくれるのにかけるか、しかない。2回もシャドウが暴れる危険性があるとはいえ、ペルソナに目覚めていないただの人間である私を襲う奴はいないはずだ。できるのは私をここに拉致したわりに、執拗に精神を追い詰める攻撃をするどころか謎な問答をしてくるシャドウもどきしかいない。放り込まれた人間は水なしでも案外衰弱するだけだからこの世界では餓死は心配しなくて済みそうだ。やはりなんとか脱出するのが優先事項。











降りしきる雨の中、私はふと物音がして、顔を上げた。あ、と声をあげる。










いつの間にか人がいた。彼は私の存在など知りもしないで、ただ携帯を見つめている。





「何やってんだよ、雪のやつ。おっせえなあ。雨でも大丈夫だって言ってたくせによ」



その子は苛立ちを押さえず、乱暴にこうもり傘で石畳をがんがん、と八つ当たり気味にあてる。彼、いや女性の要素をすべて排除した服装ながら、体格や顔つきで隠せない生物学的な生物からして、彼女であろう。男性にしては高く、女性にしては低い声は怒りをはらんでおり、未だに来ない待ち人をただひたすら待っていた。携帯電話でメールを打ち込んだり、電話をかけようとしたりしては、相手の迷惑になるのではないか、と考え直してクリアーボタンを押してしまう。行く度目になるか分からないため息をついて、彼女は降りしきる雨の中、時間ねえのに、くっそ、と舌打ちする。ウチの手伝いは大丈夫だっていってたじゃねーかよ、ウソつき。もう時間ねえのに、と焦燥感の混じった様子で、鳥居の向こう、赤黒のストライプの走る空間を眺めている。私が声をかけようとしても、触れようとしても、一切接触を取ることはかなわない。ただ彼女がひたすら待っている様子を見るしかない。あまりにも覚えがある光景に、私はこみあげてくるものがあって、じわり、と目頭が熱くなって拭う。



一時間たった。待ち人き足らず。


二時間経った。彼女は待ち切れず、電話をかけたが留守電だったようで、5時までなら待っていることを伝えた。どうしても伝えたいことがある、とだけ付け足して。待ち人以外に聞かれる可能性のある媒体に、今まで生きてきた中で一番の覚悟を込めた告白をするつもりの彼女にはどうしてもできなかったようだ。雨はすっかりあがっていた。


三時間経った。彼女の眼に若干の諦めと期待が混じりはじめ、せわしなく行き来していた足を止め、私のすぐ隣で座り込んでしまった。


四時間がたった。彼女はとうとう我慢できなくなって衝動的に電話してしまうが、やはり留守電のコールを前に、ぐっと怒りを押し殺し、手伝いがあるならあきらめる、と連絡を入れるにとどめた。


五時間がたった。もしかしたら、を捨てきれず、結局ぎりぎりまで待っていた彼女は、泣きだす寸前だった。何度もぬぐうものの、くすぶる激情を抑えきれず、やがてそれは嗚咽に変わる。うずくまって、静かに静かに肩を震わせる彼女を見て、私はたまらず目をそらす。あと一時間あるが、それは彼女が泣きやむまでの時間にすぎなかった。ふたたび、雨が降り出した。



「オニーチャン。なにやってんの?」



私が顔をあげると、彼女も弾かれたように顔をあげる。傘をさした弟が、心配そうに顔を覗き込んでいた。すっかり涙が乾き、充血した目のまま、彼女はあわててこうもり傘をもつ。



「ひろこそ、なにやってんだよ」

「今日は×××の発売日でしょ?買って来いっていったの、二―チャン」



ビニル袋を携えた弟に、彼女はああ、とかすれた声でつぶやく。



「ふられた?」

「それ以前の問題。すっぽかしやがった、雪のやつ」

「えっ、どうすんの?こっち帰ってきたの、最後の荷物の引き取りだけだろ?あさってにはもうばあちゃんと出なきゃいけねえじゃん」

「もっかい話してみる。たぶん、都合付かなかっただけだろ」

「無理って連絡もなかったの?」

「たぶん、忘れるくらい忙しいんだろ。気づいてんなら、雪、絶対に連絡するはずだし」

「なにそれ」



弟はどこか不審な顔をしている。雪はそんな奴じゃねーよ、と彼女は低く唸る。すると携帯から無機質なアラーム音が響く。そこには待ち人からの連絡。彼女はぱっと明るくなり、あわてて電話に出る。もしもし、おせーよ、雪、と生き生きし始めた彼女を見つめて、弟はただ静観している。



「遊び?あ、ああ、まあ、な」



どうやら久しぶりに遊びに誘ってくれた親友の誘いをすっぽかしたことを詫びる電話らしい。彼女の顔が曇る。留守番電話を聞いていないか、もしくは電話と待ち人の間にすべてにおいて仲介が入り、大切な話があるから絶対に来てくれ、というくだりが省略されてしまったらしい。どんどん彼女の表情が苦痛を帯びていく。世間話や近況についての長電話が始まってしまい、彼女の口調はどんどんぎこちなくなっていく。弟はしばらく彼女のことを見つめていたが、とうとう我慢ならなくなったらしく、通話相手に聞こえないような音量で彼女に詰め寄る。



「二―チャン、もう言っちゃえよ」

「は?な、何言ってんだよ、ひろ!これはちゃんと俺が会って言わねえと駄目だろ!」

「お盆の時期だし、天城屋旅館も忙しいんだよ、きっと。急がなくったっていいじゃん。とりあえず、引っ越すことだけ伝えて、それについてはまた都合がついたらでさ」

「いや、でも…」

「一区切りつけたいのはわかるけど、今の状態で会えるの?」

「……」

「無理しないでよ、二―チャン。二―チャンだってまだいろいろぐらついてるでしょ?俺だって母さんだって父さんだってまだまだなんだし、もっと落ち着いてからで、いいだろ?」



な?といわれ、しばらくの沈黙ののちに、迷いが混じるのかたどたどしいまま、彼女は引っ越すことだけを伝えた。しばらくの会話ののち、電話が切れる。



「かえろ?」

「わかった」









帰っていく二人の傘を見届けた。


あったかもしれない未来を私は体験しているということなのだろうか、と考える。あの時、私の親友は来てくれた。私は人生で一番の覚悟をもって思いを告げた。すべて打ち明けた。少々理解してくれるには、幾度か衝突寸前の激しい応酬があったが、ものの見事に振られた。でも、まだ私の友達であってくれると約束してくれた。だから私は生れ故郷に帰ってこれたのだ。あらためてこの世界の私が歩んできた人生は、ニアミスの平行世界だと思い知らされる。一方的に告げられた事実と情報が驚愕的すぎて、私はずっとそのまま立ち尽くすしかなかった。










じじじじじ、というテレビの砂嵐を聞いているかのような、耳障りなノイズ。全体的にトーンダウンした暗闇の世界で、うごめく影。人の影だろうか。次第にクリアになるも、やはり目は慣れてはくれず、闇に満ちている。声は聞こえない。無声映画を見ているようだ。しかも、まるでパラパラ漫画のように、コマ撮りで進んでいく世界は、登場人物を断片的にしか、移してはくれない。今度はなんだ、と月森孝介は考える。



暗転する前の世界では、外は霧がかった高級そうなリムジンのソファに座っている、ごぶりんのようないでたちのスーツを着た奴に出迎えられたばかりだ。しかも声は目玉おやじ。傍らにはぞっとするほど美人の青いスーツを着た、本を傍らに置いた秘書がいて。
運転手が気になって、二人を無視して真っ先にその先のドアを開けたところ、延々と続く闇の中を無人の運転席が走っているのだけ確認できたことだけ覚えている。ぞっとしたとき、後ろから低い声で座るよう促されたのだ。そして聞いてもいないのに、タロットカードで占いを開始され、あげくがこれからの転校先で事件に巻き込まれ、解決しなければお前死ぬぞ(意訳)とまで言われてしまった。いくら自分の不安が具体化した世界とはいえ、あまりにもぶっ飛びすぎてるだろう、と一度目を覚まし、ワンマンカーで一人ねこけていた自分を叱咤したばかりだというのに、今度はなんだ。頭が痛くなってきた。



すると、月森の前で過ぎていく映像は、ようやく登場人物を映し出す。ショートカットの妙齢な女性だ。だれだっけ?覚えてはいるものの、名前が思い出せない。その人は、右から左へ何かに追われるように、一目散に駆けていく。キャリアウーマンともいうべきスーツは台無し、しかも化粧はいろんな液体がぐしゃぐしゃにしていて、勘弁願いたいほどになっている。ヒールが折れ、転倒。彼女はよほど躍起になっているのか、とうとう高そうなヒールまで脱ぎ捨てると、そのまま走り出す。追いかけてくるのは……?ここでまた、ノイズが入る。そして暗転。





なんでまた、何かを考えてるように、両手を組んでいるごぶりんの映像が入るんだ。





いらっとして舌打ちした月森の心境に呼応してか、再び映像が流れ始める。じじじじじじじ、と脳裏を焼くようなノイズが無声映画を台無しにする。彼女はなにかにつかまれ、持ち上げられ、ぐらぐら、と揺さぶられている。たすけて、だれか、と口走っているが声ははいっていない。必死で抵抗する彼女は、ぐわんぐわんと揺られる視界にふと眼に入った何かを見て、ますます青ざめ、目を閉じて、絶叫。彼女を捕まえて、暴行しているそれは、なぜかぞっとするほど白い手をしている。成人女性を持ち上げるほどだ、相当体格のいい男なのだろう、と思っていたのに、ちら、ちら、と除く腕は細い。そして、彼女と同じスーツ色。ん?と月森は疑問に思うが、突然映像が反転し、一瞬だけ、異様に目がぎらぎらとした黄色く発光する眼光がうつった気がして、ぞっとする。そして、不自然なタイミングで映り込む、くくられたスカーフ。わっかだ。なんだいまの。





再び暗転し、今度は静かにうつむく、先ほどの美人秘書。ウエーブがかったブロンドがわずかに揺らぎ、彼女が目をあける。すると、再びノイズが始まった。





今度は月森と同じくらいの女の子だ。ただ、パジャマ姿で、しかも雨の中で外に飛び出したかのごとく、びしょぬれでドロドロで、いかにもわけありといった様子。必死で前に進もうと手をのばして、その先にある何かを止めようと、口走っているのはわかるが、さっぱりわからない。その女の子を押しとどめているのは、女の子によく似た容姿ながら、不自然なまでに充血した異様な目をした男。あ。と月森は声をあげる。女の子が、男に背中から抑え込まれ、地面、いや、高そうなカーペットが敷いてあるから室内だろう、床に押しつぶされる。必死で抵抗するも、男は全く意に介さず、何かをささやくように耳元で呟いている。彼女は理解できないのか、首を振って、何か罵っているらしい。読み取れる言葉は、女の子が口走っていいような単語ではない。そして、彼女は何か聞こえたのか、顔をあげる。そして、絶望しきった顔をして、硬直する。男は、さもあらん、といった様子で冷酷なまなざしをそちらに向け、ためいき。女の子は耳をふさいだ。










はっとして目が覚める。



がたんごとん、と一定のリズムで刻まれる電車の中の座席。トンネルの中らしく、映りの悪い鏡と化した窓の先の月森は、いつのも増して顔色が悪く、嫌な汗をかいているのか、掌が湿っていた。





恥辱ものは好きじゃない。溜まってるんだろうか、と月森は知られざる自分の性癖が明らかになった気がして、しばらく落ち込んだ。














私のダンジョンは、ただひたすら、「この世界の私」が経験してきた、私にとってある意味あったかもしれない過去をただひたすら逆行体験するということに終始した。あの声は本気である。ずーっと私のそばにいて、ひたすらにいろんなことを教えてくれる。過去と経験とそして人生そのものを教えてくれる。頼んでなんかいないのに。この世界の私の記憶が浸食していく。私の大切な記憶がどんどん浸食されていく。かけがえの無い思い出が塗りつぶされていく。ごりごりと上書きされていく錯覚を覚える。殺されるという恐怖に駆られることと、どちらが拷問なのだろう。死にたいと何度思ったか分からないが、このシャドウもどきは私をこのダンジョンから出してくれないのだ。

もう2日が経過している。携帯が壊れていなければ、きっと合っている。シャドウはただの人間は襲わない。だから、ただひたすら、階段を下っていけば、出られたはずだったのに。だから、希望を持ってしまったのかもしれない。このシャドウもどきは私を襲わない。もしかしたら、山野アナウンサーを助けられるんじゃないかと思ってしまったのだ。山野アナウンサーをこのダンジョンまで引っ張り込めれば、もしかしたらと。それが、このざまだ。

私は携帯を落とした。霧が出るとシャドウは暴走し、やがて宿主を喰い殺す。そして、シャドウは消滅し、ダンジョンは消滅する。ゲームをやっていて当たり前のように受け入れてきた設定が、ここまで抉るものになるとは思わなかった。間に合わなかった!助けられなかった!せめて、一度でも、たった一回でもいい、あのスタジオのところまでいって、ゲームの記憶を頼りに、山野アナウンサーのダンジョンがあったらしいところまで、奔走することができたなら。ただひたすら、階段を駆け上がれば。もはやシャドウのショーと化しているだろう。私の頭の中で、山野アナウンサーは、己の禍々しいまでの嫉妬と憎悪、孤独、絶望を受け止めきれず拒絶し、シャドウに喰い殺された。

分かり切っていたとはいえ、助けられるはずの命が無残にも消滅していく姿は、想像を拒否した。激しい吐き気と絶望なまでに無力な自分を思い知らされ、私はパニックになる。きっと空間が収縮する。きっとよりどころとなった宿主を失った世界は、収縮し、ゲームでみた、あの部屋になる。ぶらーん、ぶらーん、と振り子の如く、揺れている山野アナウンサーは、霧の如く消えてしまう。きっともう大騒ぎになっているだろう。八十稲羽市の猟奇的な連続殺人事件の開幕である。

「なんで、なんで、なんでっ!なんで邪魔をするんだよ!」


私は、私を邪魔したシャドウもどきをにらみつける。元の世界の私の姿をしたカンナギアキラは、平然と笑っていた。こいつやっぱり人間じゃなくなっている。かつてこの世界の神薙晃だったこの男は、普通なら現れたシャドウを拒否して、もろとも心中するところを、我は汝、汝は我というのなら、お前が本当の神薙晃になって現実世界を生きろ、そしてシャドウにその姿と存在をよこせと言い放ち、実際に追い出してしまったのである。無茶苦茶である。自己否定と自己嫌悪の果てなのだろうか。誰もこいつを助けてあげられなかったんだろうか。そう思うとやるせなくなる。こいつは私が歩んだであろう中でも最も最悪の人生をたった一人ぼっちで歩む羽目になってしまったのだ。中途半端に同情できないが、共感できるから尚更辛い。

『お前が悪いんだろ?』

ため息交じりで、なんで分かんないんだよ、とシャドウもどきは苦笑いだ。人一人死んでいるのに、何だこいつは。

「私が?」

『そうだよ。お前がさっさと神薙晃ならないから、あの女を助けられなかったんだよ。わかるだろ?俺なんだから』

「どういう意味だよ」

『おいおい、しらばっくれるのはやめようぜ、そのままの意味だろう?あの女を助けたい、とアンタはいってるけど、アンタはこうもいったよな。山野アナウンサーのシャドウとも戦わなくっちゃいけないかもしれない、ってな。どうやって戦うんだ?俺はアンタにしてもらわなくちゃいけないことが、沢山あるんだよ。勝手に死なれちゃ困るぜ。責任は果たせよな、本物になった神薙晃さんよ。シャドウってやつは、受け入れた時にペルソナってやつになるんだって言ったのはアンタだろう?違うのか?なあ?俺が神薙晃だった時に抱えてた問題は、アンタの中では全部解決してんだろう?まあ、平行世界から憑依しちまったのはご愁傷さまって所だけどな、ならアンタが俺の代わりにこの世界に神薙晃として生きていくって決めてくれれば全てが解決するんじゃねーか、なあ?そうだろ?そしたらアンタは俺を受け入れたことになるし、俺はペルソナってやつになって山野アナウンサーを助けられたかもしれない。ほら、やっぱりあんたのせいじゃねーか』

「……やっぱり、そうなるのか」

『ああ、そうさ。そもそも、俺がいまだに存在してることが奇跡だ』

「ふざけるなよ」

『ん、まあ、そういうこともできるか?でも、アンタが心の奥では拒絶してる限り、俺はアンタをここから出すわけにはいかないな。だから、俺は直接力を貸せない』

「よくいう。山野アナウンサーを助けようとした私を、はがいじめにしておいて」

『そりゃ、「まだ」拒絶してるだけだからな。そのうち、お前はこの世界のカンナギアキラになるさ。そのためにひきこんだんだからな。そうでもしなけりゃ、俺が死んじまう』

「私が、受け入れるまで、閉じ込める気か」

『さすがは俺、分かってるじゃねーか。ご察しの通りさ』



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