明星事変3

車から降りて、私達は目の前の巨大な岩に近づいた。

そして私達は見たのだ。人が現れたと気づいたようで、それは岩から姿が変わっていく濃霧の向こう側から私達の方へと泣き喚きながら近づいてくる、人間の歪んだ似姿のようなものを。目は鱗に覆われた厚い肉の中に埋もれて見えなくなり、骨のない腕を蛸の触腕のように私達に向かって振り回している異形の怪物を。深きものの輪郭はすでになく、その姿はハスターと名状しがたい直接契約を交わし、異形に変わってしまった狂信者の成れの果てに似ていた。犠牲者の皮膚は緑灰色を帯び、表面は鱗状だ。その肉体は人体を膨らませていながら、四肢は骨のないグニャグニャしたものになっていた。

あまりにも冒涜的な姿に、私は強い恐怖の念を抱く。これが私の半身といわれると不思議な畏怖が隙間なく取り囲む。ただひたすらに気味が悪い。そこに異様の光が宿っていた。私は迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安がわきあがる。

緋勇たちは私と同一視するにはあまりにも姿が違うからか、私を恐怖の目で見てくる者はいなかった。それだけで安堵できる。そんな私を見て、如月が大丈夫だといいたげにうなずいてくれた。

名状し難きものの憑依体は、ハスターと人間との間に結ばれた名状し難き誓約と引き換えに、この神によって創造される怪物だ。誓約の結果として、ハスターは名状し難き約束を結んだ者に憑依する事になる。この現象が生じると、グレート・オールド・ワンの精神は犠牲者のそれを圧倒し、そして彼の肉体を変形させてしまう。

憑依する肉体はまだ生きているものでなくてはならない。犠牲者が死んでいる場合もやはり肉体の変形は始まるが、数時間後には停止する。もし名状し難き約束を結んだ者が故人であった場合、ハスターは約束の期日より遅れた後、彼あるいは彼女の最も近い血縁者に代わりに憑依する。

ひとたび憑依が行われると、その結果誕生するのは常にあらゆるものに致命的な破壊をもたらし、時には単に殺して貪り食う事に満足するような怪物である。

ハスターに関係する大部分の呪文と同じく、この忌まわしき産物もまたアルデバランの位置に影響される存在であり、アルデバランが地平線に沈むか太陽が昇るかした暁には活動を停止して崩壊し始める。溶解して死ぬのだ。

ただ、今は硫酸の雨をふらせる厚い雲が邪魔をしていて、太陽は望めない。私がいつでもバイアクへーを呼べるようになったことから、太陽の光に遮られているだけでアルデバランの星辰の位置はずっと同じに違いない。

倒すしか方法はないだろう。

私は天気を変える呪文を唱えたあと、《如来眼》で解析をこころみる。

このハスターめいた怪物は犠牲者をその触手のような腕で捕まえようとする。攻撃が成功した瞬間に犠牲者は瞬時に口と耳から泡を吹いて、苦痛に満ちた死を迎える事になる。あるいは怪物は、先端に小さな口のついた触手のような指を犠牲者の体内に突き刺して体液を吸い出し、犠牲者が死ぬまで《氣》を吸収する事を選択する。そうやって吸収された《氣》はすべて怪物の欲する能力値に割り振られる事になる。つまり、犠牲者を得れば得るほど、このハスターめいた怪物はより巨大になっていくのだ。

逆に充分な犠牲者を得る事がなければ、日の出の際に起こる耐久力の喪失によって怪物は崩壊する。

名状し難きものの憑依体の本来の能力値さ、犠牲者を喰らうたびに増加し、アルデバランが沈むか太陽が昇るかするたびに減少する。減少する方法はない。ゆえにいつも全力である。

鱗とゴムのような肉は装甲である。《旧神の印》による《加護》を得なければ、まず攻撃は通らないはずだ。

そのことを緋勇たちに伝える。

「もし、この《荒御魂》が有能な魔術師だったなら、人間から名状し難きものの憑依体へと変身する以前に知っていた呪文を無尽蔵な魔力で使うことになります。実体は赤子なのが助かりましたね」

「あんまり嬉しくないな......」

「きっと《荒御魂》は私か、葵ちゃんを狙うはずです。ただ、《旧神》の《加護》が受けられない私は格好の的でしょうね」

私は《氣》を《アマツミカボシ》のものに変質させた。今まで《荒御魂》が私のところに真っ直ぐこなかったのはそのためだろう。《荒御魂》が気づいたようでその体を私のところに向けた。

「《アマツミカボシ》の《荒御魂》よ。私がわかりますか」

《荒御魂》は唸りをあげている。

「深きものに憑いた《アマツミカボシ》の《荒御魂》よ。私も死の星と呼ばれる惑星の輝きを背負う者。私はここにいる者たちの戦いを通じてその輝きに惹かれました。 願わくはその輝きと共に在りたい。 これからは彼らに降りかかる厄災への逆光となることを誓いました。あなたが立ちふさがるというのなら、私はあなたと戦います。たとえ同じ神を起源にもつ者だとしても。悪くは思わないでくださいね」

私は《荒御魂》の解析を完了した。

「雷属性には耐性がありますから注意してください。《旧神の印》による《加護》以外に明確な弱点も存在しないようです。触手が非常に強力ですが、しっかりと距離をとってください」

私は《氣》を滾らせる。そして蜂蜜酒をあおり、風魔の笛を吹き鳴らす。ハスターを称える呪文に反応しないのは、《アマツミカボシ》がハスターの狂信者であり、ハスター自身ではないからだろうか。バイアクへーは特に躊躇するそぶりもないため、やはり《アマツミカボシ》の《荒御魂》と名状しがたい憑依者はどこか違うらしかった。

「バイアクへー、吸血による攻撃を開始してください!」

おどろおどろしい声だけを残して、バイアクへーが飛び立つ。《荒御魂》に襲いかかり、その潤沢な《氣》を吸いあげようとしはじめた。一度吸血が始まればどちらかが死ぬまでやめないのだ。私はバイアクへーを支援するために《氣》を練り上げる。

「良いか、愛」

「はい、翡翠。私はいつでも大丈夫ですよ」

「北方を賜りし我らが守星よ───────」

「ふたたびこの世を乱せし、厄災をッ!鬼氣妖異の不浄を清めよッ!」

「「玄武黒帝水龍陣ッ!!」」

聖なる水が龍の形となり、《荒御魂》を締め上げ、北辰の《力》が一瞬にして凍りついていく。幾重も伸びていく水流が《荒御魂》の実体をズタズタに引き裂き、凍りつくことで膨張し、触手が四方八方に飛び散った。

凍てついた肉体が動きをはばまれる。バイアクへーにより《氣》を著しく奪われた《荒御魂》はバイアクへーを攻撃するのに熱心で気を取られている。緋勇たちはその隙をついて攻撃を開始した。





弾け飛んだ《荒御魂》が宙を舞うのを蓬莱寺たちが追いかけていく。その先の暗闇が不意にゆがんだ。私は戦慄した。

「待ってくださいッ!これ以上深入りしてはダメですッ!」

私の叫びに蓬莱寺たちは立ち止まった。暗闇から現れたのは、宙に浮かぶ、8本の巨大な蛸の足が捻じれ固まったような物体だ。その化け物は明確な殺意を向けている

「げぇッ、回復しやがった!」

「これで不充分なのか......やっかいな!」

「転移魔法が使えるなんて......」

一瞬にして違う場所に完全な形で出現した化け物を中心とする半径で原形をとどめている物はなにもなかった。道路も壁も電柱もなにもかも全てが破壊しつくされている。人がいないのが奇跡だった。

「みんな、このままでは危ないわ!下がって!!」

美里が叫ぶ。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神とあった。権天使の銀よ、我に《力》を!」

白銀の鎧に身を包み、善き魂を悪霊の手から護るために闘う権天使たちが出現した。彼らは国家及びその指導者層の守護。国家の興亡。悪霊からの守護を司る。矢をつがえ、そして《荒御魂》に向かって放たれた。

幾重もの聖なる矢が降りそそぎ、《荒御魂》をはるか後方へ吹き飛ばす。

「やるじゃねーか、美里ッ!助かったぜ」

「ありがとう、葵。今のうちに距離をとるぞ、みんな」

私は方陣の体制にはいる仲間を見守りながら、考えた。誰が《荒御魂》を回復しているのだろうか。たしかに自己蘇生はするがあのスピードで一度に完全な形まで回復するには誰かしら犠牲にならなければ難しい気がするのだが。

長引いてきた戦いを支援するため、私は天気を変える呪文をまた唱え直した。

その時だ。

たちこめる瘴気の向こう側にて、しわがれた声で何かを詠唱していること、金属の軋るような甲高い音が聞こえることに気づいたのだ。

暗闇の向こうになにかある。私は《如来眼》をこころみた。

「───────ッ!?」

移動呪文ではない。《荒御魂》が瞬時に移動したり、回復したりしているのは、誰かが《門》を使っているのだ。その《門》から溢れ出す瘴気がこの暗闇の正体だったのである。《門》の向こう側では、道場のようなところで鬼の面をつけた者たちが円陣を組み、一心不乱に祈りをささげており、不快な声を上げていた。魔法陣の前にはたくさんの死体がある。円陣の中心の老人がこれで終わりだとばかりに笑いだした。その目は焦点があっておらず、完全に正気を失っていた。

「まさか......まさか、身内を生贄に......!?」

呪文を詠唱している男たちの前には老人がいた。私は老人と目が合ってしまった。そこには狂気があった。僅かな静寂の後、轟音と共に《荒御魂》が跳躍し、私のところに近づいてきた。私は逃げる。さっきまでいた場所の近くにあった建物の壁が吹き飛んだ。まるで他愛もないことのようにあらゆるものを薙ぎ払ってゆく。触手が通った後に残るものは何もなかった。

「まーちゃん、こっちだ!はやく!」

なんとか攻撃の範囲外まで逃げ出した私は、あわてて緋勇たちに《門》の存在を告げる。

「復讐の時は来た。あやつらと同じ血族の者どもに死を与えてくれるッ!」

狂人の叫びがこちらにまで響いてきて、緋勇たちは《門》の場所を把握した。

「おっけぇ〜。槙乃ちゃ〜ん、呪文がんばろうねぇ〜」

「今度は巻き込まれないようにしますね」

「2人も攻撃手がいなくなるのはキツイけど、いつまでも奇襲と回復を繰り返されたらこっちが持たない。まーちゃん、ミサ、頼んだ」

「わかりました」

「まかせて〜」

「その間、僕達が守ろう。任せてくれ」

「みなさん、触手には気をつけてくださいッ!触れたら最後、即死しますよッ!かならず距離を保ってください!」

緋勇たちがうなずくのをみて、私はとりあえず《門》を閉じる詠唱を始めたのだった。



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