静姫

町々は、夜になると、ひっそりと暗い闇につつまれてしまう。 古い京の町が、そのまま闇の中に息づいて細い道には車も人も通らず、人声も絶えてしまう。 江戸の町の夜がそこにはあった。周囲の環境と呼吸を合わせ、見事にひとつの日本の情景を作り上げている。

美里は格子窓からかろうじて見える風景を見ながら、ここがどこなのか考えていた。

座敷の芳しいヒノキの香りがする。澄み切った月が暗くにごった燭の火に打ち勝って、座敷が一面に青みがかった光を浴びる。雨戸がすっかり繰られて、まだ明けきらない朝の青い光とすがすがしい空気が、霧のように座敷の中に流れこんでいた。武装をした男たちが四方を警備していて、世話役の女達がしずしずと座敷を出入りしている。


脳細胞のように襖で仕切られた座敷はただひたすらに広かった。美里は仔犬のように座敷の隅に縮こまっていた。


座敷は雨戸がなく直接冷やされていた体で、室内は冷蔵庫のように冷えていた。

日がでていればうららかに座敷は燃えるように照るが、夜の帳が降りればほんとうに真っ暗になってしまう。菜種油のロウソクが唯一の光源だった。


座敷のあちこちで話が盛り上がり、お互いによその話し声に負けないようにと大声を出し合っているので、それらが混ざり合い騒音となって聞こえている。失望と怒りを掻かき交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴り声が聞こえる。いつも怒鳴っているのは、同じ男だった。

気まずくなった座敷の雰囲気を塗り替えるように、世話役の女たちが美里に構ってくれていた。八畳の座敷に余るようなさびを帯びた太い声がどんどん近くなっていく。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされていた。不穏だ。

今日で1週間になる。連日見る夢はいつも続きからだ。いつも静姫と美里は呼ばれていた。雛川神社に奉納されていた絵巻物にでてくる九角鬼修に誘拐された《菩薩眼》の女性の着物によく似ている。大奥の姫に幕府の重鎮が手を出したのかと思っていたのだが、どうもこの女性の扱いはドラマでみたことがある生活ではなかった。どちらかというと幽閉されているといった方がただしい。

世話役の女は少ないし、逃げ出さないように警備は厳重だし、《菩薩眼》として知らない人間に《力》を使うよう言われて、使う。そんな日々だった。

最近、頻繁に尋ねてくる男がいるのだ。美里はあったことがないのだが、人を探しているとかなんとか。それは静姫でも藍でも葵でもなかった。知らない女性の名前だった。

もしかしたら、静姫の女性にここに閉じ込められていた女性なのかもしれないと美里は思っていた。

どうにも眠れなくて月を見ていた美里は、ロウソクの火がおよばない向こう側に誰かいることに気がついた。誰かを呼ぼうとしたが返事はない。

「お前に話を聞きに来た。終われば直ぐに帰る」

「......よく訪れているお客様かしら」

美里の意思に関係なく口が喋る。

「ああ」

「なにか御用かしら。《力》を必要としている人がいるとか?」

「いや、お前に聞きたいことがある。人を見ていないか」

「尋ね人?なら、時須佐家の《如来眼》の御息女をお尋ねになってはどうかしら。私の《力》では......」

「この屋敷を出入りしているのを見かけたのだ」

「この御屋敷に?」

男はよほど腕の立つ人相描きにかかせたのか、よくかけている紙を出してきた。

「......あなたとこの方のご関係は?」

「知っているのか」

「教えていただけないと答えようがありません」

「妹だ」

「......あなたは九角鬼修様?」

「ああ」

「......悪いことはいわないからお忘れになった方がいいと思います。でなければお命が」

「構わん。長らく徳川家にたてつく逆賊の身ゆえな、今更失うものなどありはしない」

「そうですか」

「《鬼道》に通じるがゆえに長命な我が身はともかく、家光殿に嫁ぎ、大奥に入ったはずの妹がなぜ生きているのだ」

「......《鬼道》ゆえ、と申し上げた方がわかり良いかしら。なぜ代々女性を大奥に嫁がせ、安寧の地位を築いていた九角家がおとり潰しになったのかと思っていましたが、見てしまったのですね。あなたが長命であるように、九角の秘技により長らえているのですわ」

「だが、あれは妹ではなかった」

「あなたの妹も、私も、《菩薩眼》に目覚めた女はみな、あの方の器になるのですわ」

「鬼道書にかかれている秘技のことをいっているのか?あれは世迷言では......」

「それは違いますわ。男性が《鬼道》を使えるようになさったあなたがなぜ分からないのです?あれはすべて真実ですわ」

「......あれは夢ではなかったのか」

「そうですね」

「......」

男は沈黙した。

「あの方はあなたの妹様の姿をしているだけで、長らくこの国を支えてこられた方ですわ。その密命のために私の体もいずれは」

「......怖くはないのか」

「なぜです?私は初めからそのつもりで生きてきました。そのためにこの《力》を授かった」

「......」

「あなたの妹様は九角家最後の女性でしたから、あなたの妹様を解放してさしあげる上でも必要なことなのですよ」

男は息を吐いた。

「妹はなにも言わなかった」

「そうですか」

「誰もなにも言わなかった」

「そういう暗黙の了解だったのですね」

「そこにたどりつくまで、百数十年もかかった」

「それはそれは......妹様が大切だったのですね」

「......なぜ妹は......」

「あなたは、覚悟がおありですか」

「なに?」

「神武天皇から脈脈と受け継がれてきた過去の血塗られた歴史をしり、この国の成り立ちと向き合い、この国の全てを敵に回しかねないことに手を出そうとしている自覚がおありですか。覚悟はございますか」

男は息を飲んだ。

「......九角家はそこまでの深淵に関わっていたのか」

「女性たちにだけ受け継がれてきた因習に手を出す覚悟はおありですか」

「......また来る」

「......2度目がないことを祈っています」

「名はなんという?」

「静姫と」

「そうか。ではな」

男はなにも言わないまま、去っていった。

美里は目の前で繰り広げられた応酬に沈黙しているしかなかった。行き交う情報の密度が濃すぎて、頭が受け付けるのを拒否していたのだが、ようやく訪れた静寂が思考回路を正常にしていく。

「あれが、九角鬼修......?徳川幕府はいったいなにを隠していたのかしら......。静姫のいうことが本当なら《菩薩眼》は一体......」

美里は考える。考えずにはいられなくなる。《菩薩眼》は《アマツミカボシ》というまつろわぬ民の末裔だとばかり思っていたのだが、その《力》以上に役目がかつてあったのだとしたら。それが槙乃が《アマツミカボシの器》であるように、龍麻が《黄龍の器》であるように、この国の成り立ちとかかわりがある深淵なのだとしたら。それがこれだけ聡明な静姫の自我を吹き飛ばしてしまうくらい強大な《力》を秘めた《人間》なのだとしたら。そう、《鬼道》は人間を降ろす呪術だ、神霊ではない。そんな人間がかつてこの国にいたのだとしたら。

「もし、生まれる時代が違ったら、私も......?」

美里は益々怖くなってきて、このために生きてきたと言い切った静姫の静かなる強さを感じざるをえなくなる。

「この夢が続いていったら、まさか......」

気づいてはいけないことに気づいてしまった。混迷と悲哀とが、足許に底知れぬ大きな口を開けている気がしてならない。美里はどうにかこの夢から脱出する方法を考え始めたのだった。


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