餓狼1

夜の帳が降りてきて、闇が忍び寄り始める。街の喧騒に紛れた裏路地の先にあるちいさな死角にて、初老の男が死に物狂いで走っていた。ブランド物の品がいいスーツがぐちゃぐちゃになるのも構わず走り抜ける。なんとか逃げようとしていたのだろうが、その先は行き止まりだ。ここでようやく必死で逃げているつもりで、実は今の今まで誘導されていたのだと気づいた男は、絶望のあまり咳き込みが激しくなる。とうとう限界を迎えたようで、あちこちに大小様々な手傷を負ったまま崩れ落ちた。

「苦しいかい?」

影がさす。今夜は月のない夜のため、ひときわ世界は闇に包まれていて、男に恐怖をかりたてる。

「ひィッ」

「まあ、その苦しさは犠牲者たちの千分の、いや1万分の一にも満たないんだけど」

男の前に濃紺の学生服の青年が現れた。無表情なまま男を見下ろしている。

「その制服は......拳武館高校の......」

男はすぐに思い当たるのだ。それは固い信念の前には人を殺める事もいとわぬという、裏社会では恐れられている若き殺し屋たちの集団の名前だった。噂には聞いたことがある。

「誰からの刺客だ......?金は出す......。だから命だけは......」

「そうやって助けを求めた人間の手を払い除けたから今お前はここにいるんだろう?」

その男は青年のいっている意味がわからないようだ。様々な考えに取り憑かれ、ようやくたどりついた、たった一つの事実がある。それはこの目の前の青年に今から殺されるという非情な現実だった。この目の前の青年に。その思いは男の声を上ずらせ震えさせた。

「言えるわけがないじゃないよ。僕らにはクライアントからの守秘義務があるからね」

その長身の高校生の声は凛としていて、殺し屋とは思えない穏やかなものだった。男の視界には切れかけの街灯ごしにうつる青年の顔がちらついた。その出で立ちに似て端正な男だった。

「た、助けてくれ......」

男は懇願した。先程までたくさんのボディガードにかこまれて、長い高級車の後部座席から降りてきたのがまるで嘘のようだ。

「駄目に決まってるじゃないか。しかし、哀れなものだね。この場に及んで土下座でなんとかなると思ってるあたりが、さ」

高校生の涼やかな、この場には似つかわしくないくらいの声がする。そして一歩、その声が歩み寄る。それはやがて来る死への足音にも似ていた。もう逃げ場を失った男は、恐怖でまともでいられなくなってしまう。

「何でもするッ!君の欲しいものはなんだって用意しよう!金か?権力か?女か?」

男は哀願してくる。情けない姿だった。これが日本の政治の裏を動かすフィクサーの重鎮だと誰も思えないに違いない。そこにいるのは突然訪れた死に恐怖し、戦慄くだけの、ただの男だ。

「なんでも、ね......」

濃紺の学生服のその青年が、わずかに整った眉を吊り上げた。

「そ、そうだ......なんでも......なんでもだッ」

男は一筋の光を見出したとさっかくしたのか、青年の足にすがりついた。パニックになりすぎて、青年の機嫌が悪くなったことにすら気づけない。声が明らかにワントーン低くなったことに気づけない。

頭の中で繰り広げられる損得勘定すら見透かされ、青年を手玉に取ることなど簡単だという狡猾な大人の考えが、男の頭の中に巡っていることに嫌悪感を抱かれていることすらわからない。

返ってきた青年の声は氷の様に冷ややかだった。

「そうか......なら、死んでくれ」

「へ......?」

「あんたみたいなやつがいるから、僕は欲しいものが手に入らないんだ」

「な、ななななッ!?」

「だいたい、僕の欲しいものが分かるのか?あんたなんかに」

男は漸く気づくのだ。青年を取り巻く空気が、明らかに怒気を孕んで刺すようなものに変わっていることに。そして戦慄するのだ。今から殺そうとしている人間の神経を逆撫でし、地雷原で暴れ回っていたことに。男の目の前のその澄んだ瞳の中に、今までと全く違う色がある。

「あんたなんかに......与えられるわけがない」

まだ高校生であろう若き殺し屋が軽く拳を握ったのを男は見た。

「そうだな......一番苦しい方法で死なせてあげるよ。それが僕に出来るあんたへの唯一の手向けだ。地獄も少しは罪が軽くなるんじゃないかな?」

男を蝕んでいた恐怖心が頂点に達した、その瞬間に絶叫した。青年はいきなりの豹変にも動じず、ただ男を見つめている。青年の目の前でいきなり内側から男の頭が弾け飛び、ソフトボールくらいの大きさの蟲が現れた。

「またか......」

触手があふれだす。うんざりといった様子で青年はつぶやいた。

「人間として逝かせてやった方が温情だったんだ。これは残当な末路だね。唯一の欠点は本人が罪を懺悔しながら苦しみ抜いて死ねないことだ」

青年の放った鋭い蹴りの一撃は致命傷だった。男は倒れた。続いて、蟲目掛けて強烈な《氣》が放たれた。一瞬で蟲は蒸発した。体が完全に変異する前だったため、比較的楽に処刑できたと壬生紅葉(みぶくれは)は無表情に男の死体を見下ろしていた。その瞳には先程までチラついた感情の片鱗はおろか、何の輝きも色すらも無くなっていた。

「しかし......館長はずっとこんな連中を相手に闘ってきたのかな......。気が滅入るけど、敵はそれだけ強大ってことだ。僕も少しは力になれているといいんだけど」

壬生は早々に宣戦を離脱し、ポケットから出した写真に罰をつけながら館長と呼んだ男に連絡を入れる。後処理は館長のツテでいろんな組織がやってくれるから問題ない。殺せる人材の不足の方が深刻なのだ。

なにせ、《将門公の結界》をはじめとした東京の《霊的な防衛線》を破壊しようとあらゆる業界の有力者たちに蟲を寄生させている奴がいるのだ。壬生は病弱な母親の治療費を稼ぐためにこの高校にいるのだが、この蟲の傀儡を倒す《力》に恵まれたために今は館長直属としてずっと3年間動いていた。敵は正体不明で強大だ。放置すれば母親の平穏まで脅かされてしまう。だからこれは壬生なりの母親を守るやり方だった。

「副館長め、また不穏な動きをしているな。館長がこちらに干渉出来ないのをいいことに」

携帯には館長の許可がおりるはずもない任務をひけらかす同級生がいる。館長に贔屓にされていると妬む連中の1人だったはずだ。守秘義務もなにもあったものじゃないが、こうして副館長の動向が簡単に把握できるので壬生はそのままにしていた。

「これが今回の標的......?」

写真はいずれも高校生。たしか真神学園の制服を着た生徒たちだったはずだ。

「これはッ!?」

壬生は戦慄した。よりによって今回の標的は館長の今は亡き親友が残した忘れ形見の青年と、彼に引き摺られる形で壬生と似たような《力》に目覚め、表の世界で巨悪と闘っている高校生たちだったのだ。

脅す程度にいたぶるのか、一生病院生活か。壬生は携帯をみる。

「依頼されている内容は───────抹殺......?明らかに
館長のご意向じゃないッ!!まさか、副館長、あの男から依頼を受けたのかッ!?どこまでふざけた連中だッ!!」

激昴した壬生はまた館長にかけなおすために携帯を耳に押し当てる。そして、そのまま裏路地を去ったのだった。


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