如月翡翠

僕は落ち込んでいた。

們天丸が法螺貝を愛に預けたのは、どう考えても憑依師の事件を見越して託したとしかいいようがなかったからだ。あの法螺貝が憑依師による呪詛を抑え込み、僕たちが完全に愛たちと闘うことになる最悪の事態を防いでくれていた。

スサノオの転生体というとんでもない《魂》をもつ霧島君、おそらくスサノオの妻であるクシナダ姫の前世をもつ舞園さん、そして《菩薩眼》である美里さん、《陽の黄龍の器》である龍麻、《アマツミカボシ》の《和魂》である愛。5人しか正気を保つことができなかった。

僕を含めたほかの仲間たち全員が敵に回りかねない、殺し合いをしかねない状況だった。まさに愛の大凶の暗示そのものだったわけだ。

それを僕は。ため息しかでない。

相手は弥生時代に実在した稀代の呪禁博士として名を馳せた呪術師だったのだ。們天丸がいてようやく完全に防ぐことが出来るとはいえ、まんまと術中にハマってしまったことがショックだった。

強烈な《意思》に憑依された経験はあまりにも強烈で、思い出すだけで引き摺られそうになる。修行が足りないと最近鍛錬を増やしてみたが、ふとした拍子に思い出してしまうのだ。

あの憑依師は獣のように本能のおもむくままに殺しあえといった。だが、自然界において野生生物は必要以上に殺し合いはしないし、むしろ避ける。だから理性失った人間は獣ではなく鬼であると僕は思うのだ。あの時は誰もが鬼になりかけていたといっていい。

ゾッとする話である。ほんとうに火怒呂は恐ろしい敵だった。

思い返す度に、そもそもなぜ僕は們天丸を邪推したのかという疑問に突き当たり、その先を考えるのが億劫になって、ついつい先延ばしにしていた。

「こんにちは、翡翠」

そういう時に限って愛は現れるのだ。

基本的になにか新しく手に入れるとかならず愛は僕のところにやってくる。僕の審美眼や鑑定力を信頼しているからだと思うのだ。今まではその信頼に応えることになんの不満もなかったというのに、今は違う。誰からもらった、どこで入手した、という話を僕がしらないというあたりまえが心にささくれをもたらしていた。

憑依師に動物憑きにされたせいだろうか、理性で本能を抑え込めなくなっているのか。愛は終始真面目に相談してくるから、そんなくだらないことを考えている自分が心底嫌になる。

「龍君が気にしていたので調べてみたんですが、今回の事件で《将門公の結界》を始めとした《東京の守護》を担う《結界》を司る《龍脈》に少なからず悪影響が出たように思います。柳生の狙いが《陰の黄龍の器》の作成なのだとしたら、間違いなく似たような事件は続くはずです。気をつけなくてはいけませんね。あと8回は死にそうな目に会う訳ですから」

「そうだな......今回の事件で未熟さを痛感したよ。君のように憑依されないわけでも、京一君のように憑依されうる自分を自覚していたわけでもなかった。憑依される危険性を自覚できなかった自分が悔しい」

「翡翠まで憑依されるなんて......そんなに火怒呂は強敵だったんですね......」

愛は相手の強さを思い出して身震いしている。実際は、不倶戴天の敵でもある《天御子》の影がチラついた瞬間に動き出した愛においつくのが精一杯だった自分が嫌なのだ。

劉君の復讐心を愛は咎めなかった。愛自身、平凡な日常を過ごしていたある日、いきなり《天御子》に拉致されて実験台にされかけたところを逃げ出した過去があるのだ。愛は復讐に囚われても倒せるような敵ではないからか、終始冷静だっただけで、《天御子》の存在を感知すると愛は真っ先に向かう。10年間それを見ていた僕なのに、追いつくのがせいいっぱいだったのだ。

あの憑依師が《天御子》だったのかはわからなかったが、あれほどの実力をもつ人間たちの勢力なのだとしたら。今の僕はきっと太刀打ちできない。そういう意味でも不甲斐ないのだ。

僕が心底凹んでいることには愛も気づいたようで、心配そうにしている。

「火怒呂が五重塔に触れた理由、わかりませんでしたよね。なにかあるのか調べたいので、蔵をみせてもらってもいいですか?時須佐家の文献はあらかた調べたので」

「わかった。僕も手伝うよ」

「ありがとうございます」

愛の腕には見慣れない数珠がある。

「あ、これですか?昨日の夜、法螺貝をお返ししたら、また貸してくれたんですよ」

「これは......修験者の持つ念珠だな。このソロバン玉のような形の珠を繋いだ数珠は......イラタカ念珠だったかな、たしか」

「イラタカ念珠......」

しげしげと愛は眺めている。

「このソロバン玉のような形には、邪気を斬る魔除けの意味があったはずだ。山中とか他に仏具がないところでは、念珠を擦る際のジャリジャリという音で合図の代用もするのだとか。ありとあらゆるものに命が宿り、全てが礼拝の対象であり、そしてまたそこに神仏が宿る。修験道では、人間の力で作りえない山や川、滝、岩などに神仏が宿ると考えられ、自然の恵みに『感謝』して祈りを捧げるんだ。その時に使われる念珠だ、かなり《加護》が期待できそうだね」

「なるほど......うれしいといえばうれしいんですけど......火怒呂のことかんがえたら、うーん......」

「あはは」

「今回の件で們天丸さんが貸してくれるということは、なにか凶事の前触れだとわかりましたし......素直に喜べない......」

「間違ってもいうなよ?」

「いいませんよ......」

あんまり嬉しくなさそうな愛をみた瞬間に、無性にうれしくなる僕がいた。何十年もしまい込まれていたものが蓋を弾き飛ばして溢れ出ようとしているのは、なんともいえない切ない感情だ。

もうあまり燃えやすい部分は残っていなかったはずの心の中で、唐突に燃え立ち始め、勢いを増してゆく火だった。いつまで見て見ぬふりができるか、正直わからないでいる。

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