オディプスの恋人

オディプスの恋人

2004年12月13日朝、私は図書当番のため朝イチで図書室にいた。生徒は誰一人いないため、カウンターで携帯をみている。

昨日、《ロゼッタ協会》からようやく魔導書の翻訳データが送られてきたと葉佩から報告があったのだ。江見睡院の遺留品にあった15世紀にイギリスで書かれたと思われる英語の散逸した本のページの束のデータである。メールで転送してもらった。

ちなみにH.A.N.T.が遠隔操作されている可能性があるとして、葉佩は新しいH.A.N.T.を使い始めた。これでひとまず安心だが私は担当者のアカウントは停止させたままだ。いつまたハッキングされるかわかったもんじゃない。

そして、私の携帯にはまさに画像が表示されている。冒頭と思われるページにはこう書かれていた。

この本はハイパーボリア文明が生み出した最も偉大な魔導師エイボンが執筆し、直弟子のサイロンが編纂したものである。エイボンが異端審問官にかけられる前に逃走する際、敵の手に渡ってはならないと考え、論文や手稿などをサイロンに預けた。サイロンはこれらを読み取って書き上げた。その後はエイボンの弟子たちによって後世まで保存された。後にハイパーボリアが滅亡した後も、エイボンの書は書写され、そのひとつが写本たるこの本である。

《ロゼッタ協会》の注釈で、翻訳される際に内容の挿入と削除を繰り返してきたため、完全なる写本ではないとある。その名は象牙の書。

「来ちゃった......とうとう出たな、マジモンの魔導書......。しかも、よりによってエイボンの書......。阿門、18年も預かってたけどまさか読んでないだろうな......?」

一抹の不安がよぎったが、千貫さんが不用意に近づけるとも思えないから大丈夫だろう。メールに添付されたデータは、必要な箇所だけピンポイントで抜き出されている。なんでも江見睡院が解読した形跡があるページだけ送ってきたらしい。SAN値チェック乱舞を回避するついでにノイズを排除するためとか。ありがたいことである。

それはウボ=サスラに関する秘密や儀式、呪文、伝承などだ。

「また大御所が出てきたわね......」

私は頭をかかえた。

ウボ=サスラは、クトゥルフ神話の神の一柱だ。粘液と蒸気のなかに横たわっている手足のない不定形の存在であり、アメーバのようなものを吐き出しているという。冷たくじめじめした洞窟の中に潜んでおり、その洞窟の入り口は南極大陸の氷の割れ目かドリームランドの凍てつく荒野の秘密の入口など探検隊くらいしか行き着かないような場所であるという。

また、古のものはウボ=サスラの体組織からショゴスを作り出したといわれている。

別名:頭手足なき塊、始まりにして終わり、無形の白痴なる造物主、自存する源。

「まさか古のものが天御子とかいう......?うっそでしょ......。いや、違うか、ハスターやらクトゥルフやらと共同研究してたんだからもっとやばい奴らよね、きっと」

この地球の全生命は一つの巨大な原形質ウボ=サスラから誕生したという記述はこの魔導書からは見当たらない。よかった、無駄に壮大にならずにすみそうだ。あっちの神様まで出てくるとニャルなんとかまで出てきかねない。

原初のまだ熱かった地球に、神々の秘密が記された超星石の銘板(別名『旧き鍵』)に囲まれるようにして原始生命を生み出し続けているというウボ=サスラの記述があるのみだ。

アザトースと共に旧神に創られたが、叛旗を翻した為、知性を剥奪されたとしており、ウボ=サスラの周囲の銘板こそが奪われた知性の一部である、とあった。

「............まさか」

脳裏をよぎる嫌な予感に私は口の中の水分がなくなるのを感じた。

「......あのスライム、《秘宝》をウボ=サスラみたいに守ってるとか言わないわよね......?」

私は携帯を握りしめた。

「調べなきゃ......あの《遺跡》のどこかにウボ=サスラを模したやつがいるのだとしたら、日本神話に似たような神がいるはずだから......なぞらえてるかもしれない......。江見睡院、気づいてるならメモをもう一回調べなきゃ」

もはや勝手知ったるなんとやら、で私は愛読してきた日本神話の本を棚から抜き出した。そしてカウンターに戻り読み始める。ウボ=サスラに模したやつを天御子がこの《遺跡》につくり、根幹たる《黒い砂》の主成分としているのだから天地創造あたりから見てみた方が良さそうだ。

《天地開闢の時、高天原に出現した神は造化の三神とされ》

ここまで読んだ私はふとある神に目が止まる。

いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」のなかに高御産巣日神(タカミムスビ)がいる。

「タカミムスビ......」

その字をなぞる。

タカミムスビは別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神(カミムスビ)とともに「創造」を神格化した神である。ちなみにカミムスビは取手の姉の思い出である楽譜から生成された化人だ。なら、タカミムスビは?

無性に気になって仕方なくなり、調べまくったところ、タカミムスヒはアマテラスが天岩戸に隠れた時に諸神に命じてアマテラスを帰還させたという記述を見つけた。このことから、タカミムスビには衰えようとする魂を奮い立たせる働き(すなわち生命力の象徴)があるとされたという記述を見つけた。

タカミムスビは男寄りで動物系の生命、カミムスビは女寄りで植物系の生命のようだ。生命を生み出した神様という話なので、ウボ=サスラとの共通点もある。ウボ=サスラは生命の他にも物質やら何やらも生み出しているのでそっちの方が近いっぽい。

「取手がいた区画、もう1回調べてみた方がよさそうだなあ......」

私は頭をかいた。問題は山積である。

天香學園の《遺跡》は、記紀神話になぞらえて作られている。神代七代の像から始まり、イザナミの死、三貴士の誕生、スサノオとヤマタノオロチ、イナバの白兎とオオクニヌシ、アメノワカヒコの造反、タケミカズチの侵攻、そしてニニギノミコトとコノハナサクヤ、イワナガヒメの婚礼。葉佩が攻略してきた《遺跡》はいよいよ神武東征の区画に入る。この《遺跡》の確信に迫ることになる。おそらく私の先祖が《遺跡》にかかわっていたならば、なんらかの意匠が残されている可能性もある。これも気になるところだ。

神の威光の下に地中深く封じられた哀れな王の正体、そして《遺跡》の存在意義。そこまで考えてふと思うのだ。

「鍵ってまさか、白岐さんだけじゃないとか言わないよな?」

ウボ=サスラの周りに浮遊する銘板も《鍵》じゃなかったか?地球創造の遥かに前より存在する神々の、究極の知識が記された銘板だったはずだ。この銘版は『旧き神の鍵』あるいは『星より切り出された石の大いなる銘版』と呼ばれるもので、かつて旧支配者と旧き神が争った時、旧支配者が旧き神より奪い取ったものだとされているが真実は定かではない。それを模した区画がどこかにあるとするなら、きっと江見睡院が待っているのはそこなのだという意味のない確信が私にはあった。

「つうか全ての生物は、大いなる輪廻の果てにウボ=サスラの元に帰するとか言われてんのに、それを模したやつを作った......?どう考えても嫌な予感しかしないんだけど」

九ちゃんに江見睡院が天地創造のエリアと次の舞台となるであろう神武東征のエリアはかなり入念に調べていた形跡があるから、次の探索の時はつれていってくれとメールをおくる。

「あっ、やっば。もうこんな時間。教室行かなきゃ」

私はあわてて貸し出しカード手続きをすませ、カバンに放り込む。図書室の鍵を閉めていると後ろから声をかけられた。

「あら、江見じゃない。今日は江見が図書当番なの?」

「びっくりした、誰かと思ったら双樹さんか」

「フフッ、おはよう。あなたを探していたんだけど、葉佩からもう学校に行ったと聞いてここまで来たのよ」

「えっ、オレになんのよう?」

「ちょうどよかったわ、新しいアロマが調香できたの。持っていって」

「ありがとう」

「ところで気づいているかしら?學園中に嫌な気配が満ちていることを。これは間違いなくあいつの仕業よ。まさかここまで大掛かりな手に出るとは思わなかったけど......。それだけ葉佩の存在が《生徒会》にとって危険だということなのね。だからこれはあなたを守る意味でも必要なものよ」

「やっぱり気づいてたんだ?」

「ええ、わかるわよ。《生徒会》にも警備員室の事件は報告があがっているもの。大変な目にあったわね。そのせいでせっかく融合していた魂と肉体がまた乖離しているんでしょう?前とはフェロモンの性質が違っているもの、そこも吟味してあげたから感謝してちょうだいね。弱った精神を少しでも和らげるように配合を変えてあげたから」

「ほんとにありがとう、双樹さん」

「いいのよ。あたしはまだ阿門様のおそばを離れるわけにはいかない。あの方を學園に縛り付ける重い鎖があたしには見えているわ。嫉妬しちゃうけど、あなたにはもっと明確に見えているのよね?」

「まあ否定はしないよ。阿門の名誉のために言わないけどさ」

「フフッ、あなたは優しい人ね。だからこそ余計に阿門様と不用意に近寄らせたくはないのよ、わかってくれるわよね」

「あはは......やっぱりそういう?」

「だってあなた、9ヶ月の融合の流れがすべてリセットされてしまったじゃないの。体の操作方法は馴染んでいたころの名残があるからか違和感はないけれど、女を思わせる所作や雰囲気がまたぶり返しているわ」

「そんなにか......双樹さんがいうなら間違いないね。気をつけるよ」

「ええ、ぜひそうして。あたしもわりと気が気じゃなかったのだから」

「考えすぎじゃないかな、阿門は間違いなんて起こさないだろ」

「いやね、そういう問題じゃないわよ。そういう状況になること自体があたしには耐えられないといってるの」

「なるほど」
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