2004年12月7日月曜日早朝
「おいっ、大丈夫か、翔ッ!」
ガチャガチャ音がする。声が遠ざかったかと思うと、またガチャガチャ、ドンドンという音がした。
「寮長、おい、寮長ッ!こっちだ、早くッ!」
誰かが鍵をあける音がした。
「チェーンが......クソっ」
物凄い衝撃波がきて、遅れてチェーンが弾け飛び、ドアが破壊される音がした。
目が覚めた瞬間に私は強烈な痛みに悶絶し、ベッドから起き上がれなくなった。頭の片側がズキンズキンと鈍く疼く。たまらずこめかみを押さえるが、動悸を打って痛んできた。
頭に鉄の輪をはめられたような痛さがずっと続く。稲光が走るように意識の深部がチカチカとする。やがてズキンズキンと音を立てて鳴り、突き刺すような痛みが走るようになる。その緊めつけが強くなると、眼球を動かすのさえ辛くなった。眼球が硬くなって動かそうとすると痛い。
異常に頭が痛かった。何かで刺されたかと本気で思うくらいだった。とがった痛みが私を打ちのめした。口がからからに乾いていた。
頭を少しでも動かすと痛みが走り、体中がひきつれるようだった。
しばらく意識の外側に遠のいていた飢餓感がまた戻ってきた。その飢餓は以前にも増して強烈なもので、そのせいで頭の芯がひどく痛んだ。胃の底がひきつると、その震えがクラッチ・ワイヤで頭の中心に伝導されるのだ。私の体内には様々な複雑な機能が組みこまれているようだった。
くもの巣がまぶたの上を重く貼り付けられているように心にわだかまっている。魂が血管を下り、足の裏を突き抜けて地面にめり込むように落ち込む。
「これは......やばい......しねる......」
ブローチの加護がなくなった途端にこれである。
「大丈夫か、翔ッ!おい、翔、しっかりしろっ!」
「......やまと、?」
「立てるか!?」
「むり......」
「わかった、ほら」
どうやら背負ってくれるようだ。足取りはまるで鎖にでも繋がれているのを引きずって行くように重かった。肩に緩やかな重みがのっかかってる感じがする。まぶたの裏に涙が詰まった重い袋ができたようだ。
崩れ落ちるように体を預ける。
頭の中に、鉛のように重く、苦しく、ドロドロしたものがある感じ。馴染みのない人の前で畏まり続けることは、何か目に見えない縄で縛り付けられているようで辛い。体がなんとなく重くなり、筋肉の切れが悪くなる。食欲が減退してくる。肌が荒れてくる。髪がぺしゃっとしてくる。汗の臭いが変わってくる。
何だか身体中が溶けるように倦だるくって、骨がみんな抜け落ちそうで段々を一つ降りる毎ごとに眼の前が真暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユラユラして痛む。おでこが急に重くなり拒否してるのに規格外の大きな塊がこめかみを通ろうとする。私は意識を飛ばした。
「大丈夫かい、江見」
「るいりー......せんせ......ここは?」
「保健室だ、夕薙に感謝するんだな。また死にかけていたぞ」
「......?」
「よかった、目を覚ましたか」
どうやら私はベッドに寝かされているようだった。
「君の部屋の扉にこれが張り付けられていたそうだが、覚えはあるかい?」
「たまたま通りかかったら異様なマークがたくさん張りつけられていてな、愛用していた香水に毒が混ぜられていたと聞いて嫌な予感がしたんだ」
「......あれ、大和にはなしたっけ......?」
「......墓守の爺さんがいってたんだがな」
「そっかあ、双樹さんから聞いたのかな......」
「ずいぶんと殺意に溢れた嫌がらせが続いているじゃないか、江見。心当たりは?」
「あはは......心当たりしかないです」
私は夕薙から携帯をうけとる。いくつか画像がある。
私は笑うしかない。そこにあるのはクトゥルフ神話におけるキーアイテムのひとつだったからだ。形状は不安定に歪んだ五芒星形の内側に、炎の目、若しくは塔が描かれたもの。通称《旧き印》。
神話上の位置づけとしては、地球外からやってきた宇宙人たる旧支配者の敵対者たる地球に初めからいる旧神の印であるとされ、旧支配者の配下を退けるとされる。但し、旧支配者そのものには効果がなく、その配下にも絶対的に有効というわけではない。たとえば、深きものには有効だがクトゥルーの落とし子には効果が見られない。しかし旧支配者でありながらハスターに対しては抜群の効果がある。
そう、ハスターの眷属や狂信者に効果があるのだ。
護符としての種別は、タリスマン(招福)ではなくアミュレット(退魔)。
通常、目が中央に置かれた星として描かれる。目の瞳があるべき場所に炎の柱が描かれる。 ほかにも五角形の中に目のようなものが描かれたもの、葉のついた枝のようなもの、手でつくられるサインなど、伝統的な意匠に沿っているかどうかにかかわらず、知られざる変形も何種類かある。 神話的存在の手先になった人間からも保護してくれるという者もいるし、人間以外の従者にしか効果がないとする者もいる。 今回は人間にも効果が抜群らしい。
「あの野郎......」
「これは?」
「宇宙人の手先になった人間にも効果がある退散の刻印だよ。アミュレットだ」
「精神交換されたのは翔が望んだことじゃないのにな、なんてことだ」
「ああ......なるほど。今の君にはこれ以上ないくらいの嫌がらせだな」
「ほんとだよ......」
私はぼやく。
「ちょっと迂闊でした。売り言葉に買い言葉だった。まさかそっちの知識まで精通してるとは思わなかった......ああくそ、《鎮魂の儀》伝えた家系なんだから《遺跡》の成り立ちまで把握してるに決まってるじゃないか、馬鹿じゃないのか私......」
「そっちの知識?ああ、甲太郎が白岐と話してた呪われたうんぬんか?」
「そうだよ。ここの《遺跡》を作った時点では、私の先祖は指揮をとる側だった。喪部の家系は《遺跡》の封印を施す《鎮魂の儀》を墓守である阿門の家系に伝えたんだ。私の先祖が邪神に狂ってるのがバレて追放されたことまで知ってるなら、狂信者の血が流れている私への対応策なんて練ってあるに決まってるよな」
「本当に馬鹿だな、翔は。底抜けのバカだ。これで少しは自分の身を案じることを覚えるんだな」
「本当に申し訳ない、大和。まじでありがとう」
夕薙は壁にどっと身体をあずけて、口を開け天井を振り仰ぐ。やれやれという感じだ。それまで張りつめていた緊張のなかに、ちょうど風穴のように不意にゆるみが入った。
私はまるで張っていた糸の一本が切れたように、心の重心の置き場をまだ見つけ得ない状態だ。ずっとはりつめつづけて来た心に、ほっと帯をゆるめるような安らかさを覚えたのである。保健室は安全地帯だと本能がわかったからだろうか。
「体をあたためてゆっくりするといい」
瑞麗先生が戸棚から業務用のレモネードの缶を出してくる。紙コップにポットでお湯を注ぎ、私に差し出してきた。
「ありがとうございます」
レモネードはさらりとして熱かった。
初めて飲んだレモネードはしっかり酸味があり、甘さもほど良くてすっかりする。炭酸水で割ってレモンスカッシュ風にしたら美味しそうだ。
「しばらく処方を取りやめていた魂を肉体に安定させる漢方、また出しておくから飲むように。いいね」
「はい......わかりました」
「とりあえず、半日保健室にいなさい。様子を見ようじゃないか。調子がいいなら午後から授業に出るといい」
「そうですね」
「よし、それなら雛川先生に伝えておいてやるよ。嫌がらせを受けたせいで翔が体調不良になったってな」
「んな直球な......」
「そうでもしないと、翔の部屋のドアを壊した理由に説明が出来ないんでな。諦めてくれ」
「えっ、壊したの?」
「緊急事態だ、仕方ないだろ?」
「いや、そうじゃなくて......空き巣が入ったから寮長に許可とって錠を追加してたんだけど......マジで?」
「..................えーっとだな」
「............大和、お前さあ。どこが病弱なんだよ」
「ははッ、じゃあな」
「待って、マジで待って。ドア壊れてんのにどこで寝ろっていうんだよ!」