月光のさす場所

先程までむせ返るようなラベンダーの香りが立ちこめる温室だったというのに、幻覚から目覚めてみれば世界は腐敗に満ちていた。
 
足の踏み場もないほどのスライムたちであふれている。どのスライムも葉佩めがけて行進し続けている。巨大な水たまりのような、泥のような、強烈な刺激臭がする黒いものが蠢いていた。
 
蠢くのは死体の塊。不気味なうめき声が語りかけてきていた。
 
誘い込まれた場所が場所である。想定外の事態に動揺が隠しきれないが、最悪なことに正体不明の敵にとっては最高の戦場らしい。初戦から難敵をぶつけてくれる。
 
ため息を飲み込んだ瞬間、鼓膜を震わせる轟音が響いた。即座に距離を詰めると、なにかが破裂する音がした。一種の安堵と危機感がよぎる。膨大なエネルギー体はいかようにも姿を変える。体の自由を拘束する特性ばかりが目立つ。不快な匂いがただよっている。背後にあった気配が消えた。異変を悟った葉佩は視線を走らせる。どこにいった。
 
ぞわりと悪寒が走る。勢いよく振り返ると、そこには女がいた。一瞬腐敗した死体という本来の姿をさらしていたというのに、幻覚でみた名前も知らない誰かがいた。かなり距離をとっていたはずだが、女が葉佩の場所を看破するのははやかった。葉佩は銃弾を連射させるが、奇妙な文様が浮かび上がり強固にされた黄金色の輝きに防がれてしまう。被弾した形跡もない。

葉佩は追尾してくる雷撃をよける。ド派手な音を立てて砕け散る壁。貫通した衝撃は想像に難くない。期待はしていなかったが、生かして帰す気はないらしい。撤退が叶うなら今すぐにでもここから撤退したかったが、女は許してくれないだろう。
 
 
それでも葉佩は走るしかない。
 
 
進行方向に現れたのは謎の障壁だ。衝突する寸前で方向転換し、体を翻す。斬撃が炸裂したが、障壁の向こうの女を傷つけるには至らない。純粋なダメージしか与えられない。予想をはるかに超える速さで接近し、葉佩の武装の合間を縫って、切断しようとする。葉佩は伝家の宝刀を抜いた。

どうにかかわすことができた。倦怠感に襲われながら嫌な汗が伝っていく。連発は出来ない。他の仲間に連絡を取りたいが、その猶予すら女は与える気はないのだろう。連絡で来たところで無意味だ。展開する結界が重厚になっている。
 

 
葉佩は全速力で駆けた。大量の黄金色の閃光が舞う。それに追従する形で女は追いかけてきた。それを確認した葉佩は辺りに特別性の爆弾をばら撒いた。爆発音がして、閃光が走り、辺り一面が焦土と化す。

すぐに身を隠し、直下から太刀を振り下ろした。鈍い音が響く。葉佩に迫る女に一撃を叩き込む。産み落とされた風は障壁を前に散開した。着地し、体制を整えた葉佩は呪詛をばらまく女に向かい合う。そして抗うために引き金をひく。

爆発的に四散した光。障壁が解けた。不愉快で耳障りな音が舞い、鮮血が辺りに散る。できるならそのまま絶命させたかったが、そこまでぜいたくは言えない。これで葉佩の攻撃に全力で防衛してくれるはずだ、ここから距離をとって、形勢を立て直せばあるいは。
 
 
 
微かに聞こえた声は、何かを発動させる。生存本能が悲鳴をあげている。葉佩が避けられたのは、ほぼ反射的だった。周囲にあるものが粉みじんになる。

葉佩の考える以上に女は強大だった。殺意を滾らせた一撃が過ぎ去った周囲が瓦礫と化す。冷静さを失いながらも、精細さを欠きながらも、葉佩は太刀を振るう。物言わぬ骸になるのは、まだだ。許されざる蛮行だけは阻止しなければならない。ここで終わるわけにはいかない。
 

女は防御などしなかった。躊躇せず葉佩の目前まで踏み込み、その剣を受け止めた。じわりと血がにじむ。目が細められる。積み重なった瓦礫から現れた黄金色の閃光が葉佩を貫いた。葉佩は吹き飛ばされて滑落する。
 
 

女は愉快に口元を釣り上げる。
 

焦点が合わない。完全に感覚がやられている。嬉々としてこちらを見下ろす黄色は、葉佩が今まで一度も見たことががない狂気に満ちている。

身を焦がすほどの激情を滾らせながら女は葉佩に笑いかけた。四散したはずの部位が回復していくのを目撃する。そこまでの絶望をみせられて、葉佩は眉をよせた。
 
  
知らない区画だった。見上げるほどの岩が鎮座している。その上には影がおちて表情が見えない女の姿がある。荒れ狂っていた殺気など、想像すらできない穏やかさを纏っていた。
 
葉佩は剣を手にする。汗がつたう。震える手が太刀をにぎる。
 
 
あたりを静寂が支配した。葉佩は動揺のあまり顔がひきつる。恐怖が先立つ。あってはならない事態だった。手に力が入らない。女の高笑いが聞こえる。
 
それは久しぶりに感じる恐怖だった。

刹那の後悔は幾度もあったが、それ以上に覚悟は決めていたし、殉じる決意はたしかに本物だったはずだ。でも圧倒的な暴力に体が屈している事実が葉佩の心を侵食する。脳天からの雷撃が辺りを焼きそうになり、すんでのところでかわす。
 
「もうちょっと動けよ。思考停止は罪だ、誰も守れないまま死ぬ気か、お前は」

それは自分への叱責だ。少し感覚が戻ってきたことに安堵しながら注意をうながしつつも敵の軍勢との間合いを測る。その度に白羽が稲妻のように閃く。刃物が陽炎のようにきらめく。
 
「ぐっ......!」
 
あまりの数に近づかせないのが精一杯で女が嬉々とした様子で迫り来る。しまっ、と口にしかけた言葉は飲み込まれた。

親の仇のように女を江見が突き刺したからだ。総毛立つような白刃の光がみえた。氷刃のような白い裸の刀がぎらぎら光る。会心の一撃だったのか緑色の煌めきを残して女の右腕は切り捨てられてしまった。月光の中に氷のようにきらめきつつ振り回される刀の光が、言いようもないほどおそろしい。葉佩は目を見開いた。
 
「翔チャン!」

「間に合ってよかったよ、九ちゃん。無事でよかった」

「あっははー、実はまじで焦ったよ」

「これ、使って」
 
江見が葉佩に渡したのは、先程女の腕を両断した刀だ。

「父さんの遺品らしいんだ。さっき、阿門から返してもらった」

「えっ、じゃあ、あの墓掘り返したのは阿門?」

「いや、たぶん遺品を取り返したかった昼間の父さんか、私達に渡ると困る夜の江見睡院のどちらかだよ。そもそもあの墓には誰も埋められてないと言質とったからな」

「じゃあ内側から出ようとしてたのは一体......」

「それは聞いた方が早いと思う」

「話してくれると思うか?」

「......無理そうだね」

葉佩の白刃が虹を曳いて陽光を切る。十文字に交錯する剣と剣にたがわぬ様子で、金属音が響き渡り、剣と剣が闇の中で火花を散らして交錯する。稲妻のような剣さばきだ。魂を吸い込むかのように研ぎ澄まされた剣が掛け声とともに打ち下ろされるたびに女の体は毬のように飛ぶ。

「そういえば、甲ちゃんは?」

「こいつ見るなり過呼吸に陥ってパニックになったからさ、《魂の井戸》に閉じ込めたよ、悪いけど。なんか、思い出せそうなのに、思い出せないんだってさ」

「思い出せない......」

「墓が荒らされて、遺体が行方不明で、《生徒会》に直訴するくらい取り乱すのに思い出せないんだってさ。そんくらい大事な人だったんだろっていったら、死に物狂いで否定するんだ。もう無茶苦茶で見てらんないよ」

葉佩は苦々しい顔をする。

「《生徒会執行委員》の騒動も数日たてば誰もが忘れたように過ごしてるけどさ、もしかして一般生徒にはそういう《黒い砂》がばらまかれてんのかな?俺の前の先輩たちについて聞こうとしてもろくな情報入ってこないんだよね」

「人間慣れたらどこでも都だからね」

「うーんどうしよう、否定できない」

「でも甲ちゃんが《遺跡》に潜りたいっていったんだろ?」

「うーん、どっちかっつーと、《生徒会》への不満が大爆発って感じだな〜。いや、わかるんだけどね、気持ちはさ。積み重なってきた不満がって感じだし。ただ、學園祭が終わってからバディ外したじゃん?まさかそのタイミングで墓荒らしが出るとはな〜......タイミング最悪だよ。甲太郎可哀想すぎる。俺に頼ってくれなかったのがショックすぎてさ〜、つい手荒に扱っちゃった」
 
「謝ったら許してくれるさ」

「今回ばかりは謝る気はないけどね〜」

江見は葉佩が今までみたこともない銃を手にしている。

「それも江見睡院さんの遺品?」

「うん、そう」

二人はそのびりびりとした濃厚な殺意を嫌というほど感じる。女の四肢からはスライムの軍勢が溢れ出てきている。やはり、遺体はスライムで満たされているようだ。

「スライム焼いた方が早いかな、もしかして」

「もしかしなくてもそうだね」

「なあなあ、翔チャン、目があの女と同じだけど大丈夫?」

「大丈夫だよ、今のところはね。この区画の情報と敵の解析してるだけ」

「ちょっち遅い気がするけどありがとう」

「間に合わなかったら死んでるからね」

「わかってるよ」

「で、どうする?」

「あいつは俺の敵だからさ、翔チャンはスライム焼いてくれる?仕切り直しといきましょう」

「わかった」

江見は小さく笑うと葉佩に背中を預ける。葉佩は女の方を見た。

「甲太郎とお前に何があったのか、なんてさ。俺は微塵も興味無いんだよね、正直なところさ。ただ気に入らないんだ。だから邪魔させてもらうよ、悪いけど」

いつものように葉佩は巫山戯た調子で笑っていた。ただ、目が微塵も笑ってはいなかった。

「何事も最後まで諦めるな。決して諦めなければ、いつか希望が見える。そして、希望は決して人を見捨てない。これが俺の座右の銘なんだ。甲太郎は俺の同行者(バディ)だ、《遺跡》に1歩でも入った段階で俺は無傷で返す義務が生じる。よって、ここで死ねって言葉は却下だ、受け付けられない」
 
1歩でも近づこうとした女に葉佩はなんの躊躇もなく剣を向けた。
 
「オレは諦めが悪いんだよ、そして物分りもよくない。少なくても、お前の手を取った奴よりはずっとな」

ちら、と遠くなってしまった扉を見る。重厚な扉の向こうでは、さっきまで開けろと散々喚いていた皆守が聞いているだろうかと葉佩はふと思う。

過呼吸の治療に必要なのは誰も視界に入らない安全な空間だから、1歩も動くなと《魂の井戸》に突き飛ばして扉を閉めた。深呼吸をひたすらしていろと言い残し、無理やり扉をしめて開けられないように爆弾をふっ飛ばして柱で重しやつっかえ棒を作ったから出してやるのが大変だろうなとぼんやり思う。

「だからここで死ね」

まあ言い訳はいくらでも用意できるのだ、生きてさえいれば。
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