《ロゼッタ協会》のスポンサーが運営している大学病院の精神科。入院している江見睡院の世話をやくために私は毎週土日祝には訪れていた。
面会時間は午前10時から午後5時まで。面会は、必ず事務室で受付を済ませてから、面会票を持って病棟へいかなくてはならない。面会・電話・手紙等は自由に行うことができるが、主治医が治療上必要と判断した際は、一時制限することもあるという。さいわい江見睡院はそこまで制限はされていなかった。
日常生活を送るくらいなら支障をきたさないが、肝心の精神が瀕死の状態だったのだから仕方ない。
「こんにちは、父さん」
「翔か、来てくれてありがとう」
私はさっそく新しい着替えを渡して、使用済みの衣類を回収する。あとは欲しいと言われていた雑誌や新聞、本。スマホもあるのだが18年も経つとまだついていけないらしい。
世間話をしながら私は座った。
「前にも話したと思うんだけど、夕薙が《宝探し屋》をやりたいらしいんだ」
「ああ、バディとして経験を積みながらって話していた彼か......」
「うん、そう」
「いいと思うよ。俺が推薦状を書いてやろうか」
「ありがとう」
「今の私はこれくらいしか出来ないからな」
「またそういうこという。病は氣からっていうでしょ、父さん。程々にしなよ」
「ああ、すまない。ついな」
「仕方ないなあ......」
私は笑って椅子に座った。
「また見舞いが来たんだ。食べきれないから持って帰ってくれないか?」
「わかったよ。慕われてるね、父さん」
私は果物やらお菓子やらが並んでいるテーブルをみた。江見睡院は照れたように笑っている。機嫌が良さそうでなによりだ。
「翔は......」
「なに?」
「今は、たしか......女性よりの感性をしているんだったか?」
「うん、そうだね。それがどうかした?」
「いや......成り行きとはいえ他人のおっさんの洗濯物をやらせてしまって悪いな」
「あはは、ほんとに今更だよ、父さん。病院は父さんの事情を深く知らないんだから仕方ないじゃないか。郷においては郷に従えっていうからね、気にしてないよ」
「そうか......ならいいんだ。でもな......」
睡院はどこか気まずそうだ。
「翔だって父親と同じ洗濯物は嫌だっただろう?」
私は思わず吹き出してしまった。
「なにいってるのさ、父さん。俺は父さんのこと、まだなにも知らないんだよ?反抗期もなにもないよ」
「そうか......ならいいんだけどな......」
「いきなりどうしたんだよ」
「いや......ちょっと我に返ってな......。赤の他人である君になにをさせているんだと」
「一般の病院だからね、仕方ないよ。エジプトのカイロまでは遠すぎるし、ここまで充実した設備、かつ安全な場所はなかなか確保できないよ?」
「すまないな......」
「俺のことなら気にしないで。ほっといたら男になるんだから」
江見睡院はやはりどこか申し訳なさそうだった。
「父さんはさ、今どんな感じなの?」
「そうだな......」
江見睡院は口を開いた。
直接の原因がないのに、脳のさまざまな考えや気持ちや行動がまとまりにくくなっているという。知覚・思考・感情・意欲・認知機能など、多くの精神機能領域の症状がでているという。
幻聴や体感幻覚などの幻覚や被害妄想に代表される妄想体験など、精神の不調が外にはっきり現れるものらしい。
今は薬物療法、心理社会的治療を組み合わせて治療をしている。
今は、現実検討がもどってくると同時に心身共に疲れやすい時期で、自分の身に起きたことが、実は精神症状であったと気づき、治療の必要性を了解している。一方で精神疾患になってしまったことへのショックや、これからの不安などが現れている。
回復期の治療では、そのような病いに対する複雑な気持ちを理解し支え、的確な情報をもとに心理教育を導入し、病気の知識や、対応力を高めていく。
周囲の理解や対応力を高める支援も引き続き必要。薬物療法としては、薬による副作用の出現をモニターし、身体的な変調に対応することが求められる。
薬物療法としては、引き続き副作用をモニタリングしつつ、できるだけシンプルで安全性の高い服薬量や服用内容に調整し、安心して継続できる処方をめざす。
「未だに私の中では江見翔は生きているんだ。悲しいことにな......」
江見睡院は自分が統合失調症の回復期であるためか、冷静な自分と狂気に満ちた自分が常に同居しているようだった。
「やだなあ、どこが悲しいんだよ」
「え?」
「それがたとえ俺だとしても、俺じゃない幻覚なのだとしても、今の父さんに必要だからいるんだよ。そんなこと言われたら悲しいよ」
「......翔......」
私は笑った。
「俺なんか、母さんに拒否されたんだよ?手を振り払われちゃった。ずっと一緒にいたいって言ったのに、《タカミムスビ》になってしまった翔をひとり南極に置き去りにする訳にはいかないって。眠りにつくって。ほんとに荒療治だよね。俺のこと考えてくれたんだろうけどさ。幻覚や幻視には苦しめられたけど、本当は母さんじゃないんだって理解しながら見せつけられたんだ。地獄以外のなにものでもなかったよ。幻視は俺に多幸感すらもたらしてはくれなかった」
「翔......まさか、君がずっと冷静だったのは、そういう......」
「母さんには生きろっていわれたよ。だから死ぬわけにはいかないしね。やっと解放されたんだ。でも父さんのところにはちゃんといるんでしょ?母さんも江見翔も。父さんに生きて欲しくてさ。それを否定しちゃったら可哀想だよ」
「......翔......」
江見睡院は手を握りしめた。
「すまない、気を遣わせてしまったね。ありがとう。でも嬉しいよ、翔が翔であることを強要しているのは私なのにそこまでいってくれるとは」
私は笑った。
「だから、そんな事言わないでってば。私ね、父さんに嫉妬してるんだよ。母さんは私の名前をこの世界で最初に呼んでくれた人だったんだ。最初から最後まで私を守り通してくれた。そして門の向こう側に消えたんだ。父さんを今こうして支えてるのは、母さんがそれだけ愛した人だったからでもあるんだから。おかげで父さんに対する感情フィルターに母さんが混じっちゃってるところ今でもあるから困っちゃうよね」
私が冗談めかしていうものだから、本気かどうかあいまいなラインだったようで江見睡院は固まっている。
「ええと、それは......」
「名前をつけるのはとても難しいから、今すぐは無理だよ。父さんだって統合失調症の病名がついているんだから、今の感情が妄想からくるのかどうかわからないんでしょう?」
「......そう、だが......」
「ならいいじゃないか、親子のままで。治ってから考えたらいいんじゃない?」
「翔は時々意地悪だな」
「そりゃ俺だって反抗期もくるよ、もう18なんだから。だからさ、父さん。しばらくは江見翔でいさせてよ。父さんや母さんとの繋がりがふつりと切れるのは今の俺には耐えられそうにないからさ」
「翔......」
嫉妬だとか憎みだとかいうものは、生活に暇があって感情を反芻する贅沢者たちの取付いている感情だ。私のように途方もなく忙しい人間は感情は一渦紋で、収支決算をつけて、決して掛勘定にしとかない。感情さえ現金キャッシュ払いだ。現実から現実へ飛び移って行くんだ。嫉妬だとか、憎みだとかいうものは、感情に前後の関係を考える歴史趣味でしかない。
そうであらねばならない。そうであれたらどんなに楽だっただろうか。
それは本来私にとってはつかの間の幻覚で、違った時代の違った世界から切りとられてきた断片的な情景にすぎなかった。私はあのとき既に情緒的な感性を失っていたし、何を思いどれだけ手をつくしたところで、それをもとの状態に復することはできなかったのだ。
私の混乱は致命的な種類の混乱じゃない。いつか自身もそのことに気づくだろう。それでもそれがなくなるのは惜しいのだ。
私が何を思ったところで、江見睡院に何かを伝えることなんてできない。いつか江見睡院は遠い時代の遠い世界の存在と成り果てる時がくる。浮遊する大陸のように、知らない暗い宇宙をいずこヘともなく彷徨う淡い恋に消える。
なら少しくらい困らせてもいいじゃないか、と魔が差したのがホントのところだった。
「なら、養子縁組でも結んでみるか?」
「え」
「お互いの意思があるなら、問題ないだろう?」
嫉妬というのは自分のものであると思っている何か重要なものを、ある競争者の存在によって失う恐れがある、あるいは失ってしまったという確信が強く、他人からの合理的な説明によっても訂正することができない、事実に相違する観念だ。
その対象からいきなり自分以上に狂気じみた熱気をぶつけられてしまった私は固まる。
「名実共に親子になってしまうか?話を聞けば君は身寄りがないんだろう?なあ、天野愛君」
「それは......えっと、どういう......」
「おや?私が未だに狂気に侵されてると知りながら話したんだ、そういうつもりでいたんじゃないのかい?」
「ええと......」
「それとも別の届がいいか?冗談はともかく少し話をしようか。親子だというのに、私たちはあまりお互いのことを知らない。それが行き違いの原因だと思うからね」