引き戻される感覚があったことを彼は覚えている。どこか深いところからゆっくりと浮かび上がるような、わずかな浮遊感だった。彼は意識を取り戻そうとしたが、本能は意識の回復を頑なに嫌がった。何らかの意思の力により、無意識と意識の隔たりを埋める容赦ない時の流れを押しとどめようとしている。極限の消耗の苦痛とはいっさい縁のない存在になりさがろうとしていた。嫌がる本能を理性で押し上げた先で彼は強烈な痛みに襲われた。
脳天をハンマーがぶん殴り続けていると錯覚しかねない痛みだった。内側から弾け飛ぼうと暴れまわる心臓の鼓動が耳の奥から聞こえてくる。体中の毛穴から滝のように汗が流れ出た。手足は鉛のようにこわばっている。血の気が失せていて、ゾンビのような血色の悪い手があった。空気を求めて喘いでいる呼吸音はやけに大きく耳を打った。
ここはどこだ。そしてなんで俺はここにいる。ぐるぐる湧き上がる疑問になにひとつ答える術を彼は持たない。押しつぶされそうな不安が重くのしかかり始める。
「俺は、死んだ、はずじゃ、」
かろうじて浮かんできたのは見渡す限りの花園だ。もしかして、あの場所から引き摺り下ろされたのか?ほんとはあそこにずっと綺麗だったのに?
そして、断片的な映像が彼の脳裏に強烈な吐き気をつれてくる。あれはひどい事故だった。果たしてどれだけ多くの人々が自分のように死んでいったのか、想像したくないのに勝手に脳内補完をしようと頭の中が躍起になって空白を埋めようとしている。おかげで思い出したくないことまで思い出してしまう。
死者である自分は永遠にこの苦しみから解放されたはずだった。なのに今、彼には開放はなかった、いつまで持ちこたえられるだろうか?それもいったいなんのために?そもそもなんで自分は生きている?
ここまで考えて彼は血の気がひいた。この感覚が1度目ではないと気づいてしまったのだ。何度目だ?何度目の蘇生だ?可哀想に彼の自衛意識ももはや眼前の真実を遮ってはくれなかった。
彼はたまらずトイレにかけこんだ。
今いる場所が知りたくて力任せにブラインドをあげる。外は夜だった。何十億という星が瞬きもせず冷ややかに彼を見下ろしている。外に出るがふらついて躓いてしまう。身動きしようにも体が言うことを聞かなかった。月曜日の朝のようにぐずる体の比ではない。甘美な休息の一刻を最後のぎりぎりの瞬間まで引き延ばそうとしているぐうたらな自分ではない。彼の体は歩くことを一瞬忘れていた。
彼は大きく息を吸い、末端にまで瞬く間に広がりはじめた激しい痛みに歯を食いしばりながら、ベランダに這い蹲る。波のような吐き気が襲ってきた。さいわい吐きはしないが気分が悪い。
「あら、目が覚めたみたいね」
ぞわっと悪寒が走った。スピーカーから張りのある明るい声が聞こえてくる。
「まさかこんな時間になるまで寝てるとは思わなかったわ。今度は太陽が登る前に目覚めてくれないと困るわよ」
彼はゆっくりと顔を上げ、視線を這わせる。
「どこ…………」
声は咽喉につかえた。彼は唾をのみ、唇を舐めてからあらためて声をかけた。
「どこ、どこ……」
「ここよ」
彼は視線を転じ、ベランダから部屋のパソコンを見る。真っ黒なスクリーンを背景に強烈な赤の人影を認めた。輪郭はぼやけており、わざとカメラと距離がある状態で撮影している。彼は瞬きして、今一度相手の姿をとらえようと目を凝らした赤に焦点を結ぶとくっきりと視野にシルエットが浮かんだ。
「ここは?」
一呼吸して彼は言った。
「あなたの家よ」
「ほんとに?」
「ほんとよ。リビングに飾ってる家族写真を見たらどう?その右端の青年がきみでしょ」
彼はドアノブの両手を這わせて掴まりどころを探り、腕に力を込めて体を前に押し出すように立ちあがった。膝ががくがくした。彼は顔をゆがめながら僅かに残された体力を意のままならぬ両腿に集中した。早くも心臓は再び踊りだし、肺は激しく波打った。懸命の努力も空しく、彼はくずれおちた。
「もうだめだ……動けない……」
スピーカーが笑っている。
「何いってるの、しっかりしなさいよ」
「いや……だめだ……もう終わりだよ……」
「今そっちへ行きましょうか?」
「いや……いい」
返事がなかった。
「おい……?」
一、二分後、彼女はすぐ近くの部屋から姿を現し、軽々とフェンスを乗り越えてやって来た。うずくまっている彼のそばまでくるとわらう。
「しっかりしなさいよ。ほら、立ちなさい。そんなんじゃ仕事に障るわよ」
彼は脇の下を掴んで抱え上げられるのを感じながら抗う術もなかった。しばらくは首が座らなかった。彼は彼女に頭を預けた。
「わかったよ」
やっとのことで彼は言った。
「行こう」
それからは夢遊病者のように歩き続けた。痛みを覚えることもなく、疲労を感じることもなかった。いっさいの知覚は失われていた。どこまで行っても痛みは少しも変わらない。もう彼は彼女を見ようともしなくなっていた。その代わりに、彼は前方の目立った家具に狙いを定め、そこに行き着くまでの歩数を数えるようになった。彼はそれを何度も何度も繰り返した。ようやくリビングのソファーに腰掛けることができた。
「落ち着いたかしら」
「落ち着けるか」
「あら、いきなり死のうとしないだけマシだわ」
彼は顔を上げた。口には出さずとも、絶望の色はありありとうかんでいる。だが彼女は不安が彼の胸に根を下ろす隙を与えなかった。まくし立てるようにリハビリを組み上げ、参加するよう促す。彼はくらくらする頭のまま今の体に慣れるべくリハビリを強いられた。躓き、滑り、こけつ転びつしながらも、なんとか日常生活を送れる程度には回復した。
しかし、魂と体の適合はなかなか進まない。
「しっかりなさい、ほら立って」
しかし、彼はがっくりと膝を折って倒れたまま、もう動こうとはしなかった。彼の頭は弱弱しく左右に揺れていた。それを見て彼女は、すでに無意識のうちに理解していたことが今や避けがたい現実となったことを知った。深いため息をついてあたりを見渡す。
「すぐ救護隊を呼んであげるわ」
彼は弱弱しく片手を上げた。かろうじて聞き取ることのできる微かな声が伝わってきた。
「俺は……できるだけのことはしたんだ……もういいだろ……」
彼女は彼の手を握りしめた。
「投げたらだめよ、諦めたらもうおしまいなんだから。とにかく、もう少し頑張って」
彼女の頬は濡れていた。だが彼は拭う力がもうなかった。
生きることをやめてしまった彼を見て、彼女はベランダに出た。
頭上の星たちは瞬きもしなかった。彼女は唇をゆがめて悪態を吐く。
「また失敗したわ。まあいい、次こそは」
彼が見ることもなかった家族写真には、彼女の若かりし姿がうつっていた。