地獄は善意の道で舗装されているA
オフィスエリアの地下鉄に無許可で生成された入り口階段を下っていくと、地上の騒がしさが徐々に遠ざかっていく。ネットワークの中にあるというのにじめじめした感覚を肌で感じるのは、湿気や熱気がこもる地下空間だからだろうか。この地階はいったい地下何階にあたるのだろうか。少なくとも四階や五階ではない。もっと深い谷底を連想するほど深い深い階段である。
いい知れぬ静寂に満たされている空間に潜っていく。



突然、視野が開けた。そこにあるのは広い部屋だ。広く、静かで、古い納屋のような匂いがする。子供の頃かいだことのある匂いだ。古い家具や見すてられた敷物のかもしだす古い時間の匂い。すべてバーチャルがもたらす視覚の錯覚だ。


最小限の家具しかなく、がらんとして薄暗い。広い方の部屋にはツイン・ベッドとドレッサーがあり、ベッドは枠だけの裸だった。死んでしまった時間の匂いがする。少なくても、このエリアを作り上げた人間は、この死んだ時間に縋っていきている。



このエリアの中ではなにもかもが奇妙で、特に時間は奇妙な流れ方をしていた。一世代前の時計と同じだ。ネジを巻かないと動かない。しかも巻いた分だけしか動かない。エリアに主人がいる時はすべてがコツコツと音を立てて流れる。しかし主がいなくなるとすべてはそこで止まる。そして巻き戻る。失敗した数だけ床の上に色あせた生活の名残が残される。かつては過ぎ去った過去の断片を追体験するために作り上げ、今はAIに自分の息子の記憶をトレースさせるためだけのエリアだ。はっきり言ってなかなかの狂気である。


(あいかわらず狂気に満ち満ちた部屋ですね)


ゲノムは思うのだ。ドアを開ける度、ぞっとする。しんと静まりかえり、ゲノムの尋ね人であるはずのサクスさえだんまりを決め込み、なにも息づいていない異様な静けさに満たされたエリア。見慣れていたはずのすべてのものが、まるでそっぽを向いているではないか。その原因は、サクス最愛の息子がいないからだとすぐにわかった。また壊れたのか、飽きないことで。そう思ったがサクスがへたり込んでいる先には、後から生成されたと思しき抜け穴がある。


(やはりというべきか、そういうことですか)


ゲノムは口元が歪む。部屋は、秒を刻む時間を感じさせないほどに静かだ。生きていることを申しわけなく思うような静止した雰囲気をかもしだしていた。まるで人が死んだ後の部屋のようである。


薄暗い部屋で時計の針だけが緑色に光っている。黒い置物は暗闇の中で逆に白く、どろりとした光を放っていた。まるで幽霊屋敷を思わせるほどの暗さである。真っ暗な店内から、白い椅子やテーブルがぼうっと浮かび上がっていた。



高い天井の真ん中に小さな明かり取りの窓のようなものが幾つか見えた。しかし月がないこのエリアには永遠に月は上がってこないので、明かりと呼べそうなものはそこから入ってこない。仄かな街灯の明かりが屈折に屈折を重ねた末にほんの少しだけその天窓から忍びこんでいたが、殆ど何の助けにもならなかった。やがて何かの加減で、部屋にさしこむ光がほんの少しだけ明るさを増した。


それなのに部屋の大部分は真っ暗だった。窓の重厚なカーテンが引かれ、室内の明かりはすべて消されている。カーテンの隙間から僅かに光の筋が漏れていたが、それもかえって暗闇を際だたせる役目しか果たしていなかった。


ゲノムの立つ廊下の扉の先に光はなく、密度のある暗がりが重なり合うようにさらに奥へ続いていく。扉は音もなく開き、そしてゲノムの前にはまったく別の種類の闇が広がった。


その影に気づいて女が顔をあげる。泣きはらした女の顔だった。


妙に煮詰まったような沈黙が両者の前に横たわる。サクスはなにかを恐れるように目を伏せ、耐えるように唇を噛む。じっと身を沈めるように縮こまった。叱られるのを恐れる子供のような幼稚さが目立つ。息を潜め、静寂が響くように部屋はシーンとしている。ゲノムとサクスの体を静寂と寒気が包みこむ。時間も空気も圧縮したような重くるしさがあった。静寂というには恐ろしすぎる底なしの無音の世界だった。辺りの音をすべて持ち去られたように、死んだような静けさである。


ゲノムは土足でその静寂を踏み荒す。びくっとサクスの肩が震えた。鴻上博士の仲間であり、リーダーたるリボルバーが敬語を使う時点でハノイの騎士における彼の地位はサクスよりはるかに上なのだ。わざわざ赴くこと自体異例中の異例なのである。サクスはかつて部下だったフランキスカと違い、グレイ・コードにおいても新人だった。


「ふふふ、荒れていますねえ」

「も、申し訳ありません、Dr.ゲノム」

「まあ、気持ちはわかりますよ。大切な我が子を誘拐されたんですからね」

「…………!!」


サクスは懸命に涙をこらえる。ゲノムは悪魔のささやきを笑いながら演出した。


「犯人が誰か、知りたくはありませんか?」

「!!」


弾かれたようにサクスは顔をあげる。


「これをご覧なさい」


展開されるマテリアルは、ホログラムを映し出した。


「playmakerにゴースト……!」

「ゴーストがイグニスの複製の奪還に来るとは思っていましたが、どうやらplaymakerのところにいるようですね。なるほど、だからどれだけ探しても見当たらないわけです。よかった、まだイグニスに捕食されてはいないようです」


見入るサクスの顔は般若となる。かつて愛する男が我が子を瀕死になるまで虐待しても無視を決め込むどころか率先していた鬼畜のくせになにをしているんだろうと、滑稽さに笑いすら込み上げてくるがゲノムは堪えた。


「時は一刻の猶予もありませんよ、サクス。我々の悲願がようやく叶うかもしれないのですからね」

「……まさか、あの?私のような末端にそんな極秘情報を教えてくださるのですか!?」


サクスは動揺した。ゲノムは当然だとばかりに笑うのだ。


「ええ、最終段階に入っています。サイバース、ロスト事件、ネットワークもろとも消え去り、誰の記憶にも残らなくなるのはもうすぐそこです。それではplaymakerが誰か永遠にわからなくなる。彼は現実世界に連れ出されたようですから無事は無事ですが二度と戻らなくなります」


声にならない悲鳴が上がった。


「嫌です!絶対にいや!やっとここまできたのに!」

「母親から子供を取り上げるなんてとんだ鬼畜の所業ですね。私としても放っておけはしません。ですから、ささやかながら力になりますよ、サクス」

「ほんとうですか、Dr.ゲノム!?ありがとうございます、ありがとうございます、私はいったい何をすればいいのでしょうか!」

「貴女ならそういってくれると思っていましたよ、サクス。どうやらplaymakerはゴーストがフェッチ事件の被害者だと気づいたようですからね。ゴーストを誘い出せば、きっと釣れてくれるはずです。いっそのこと、どちらも誘い込みましょうか。偶然にもリボルバー様がplaymakerとの再戦をお望みですからね、そのお膳立てとして利用させていただきましょうか」


ゲノムは笑う。

何度聞いてもステキな名前ではないだろうか、フェッチ(そっくりさん)事件だなんて。取り替えっこ事件はなかなか可愛らしいがフェッチの方が実に意味深だ。聞くだけで想像がかきたてられる。新聞記者たちは時に詩人になった方がいいんじゃないかという文才の持ち主がいるから困る。


取り替えっ子。このあたりの伝承で、人間の子どもがひそかに連れ去られたとき、その子のかわりに置き去りにされるフェアリー・エルフ・トロールなどの子のことだ。あるいは連れ去られた子どものこともいう。魔法をかけられた木のかけらが残され、それはたちまち弱って死んでしまうこともあったと言う。このようなことをする動機は、人間の子を召使いにしたい、人間の子を可愛がりたいという望み、また悪意であるとされたらしいが、グレイ・コードの事件以後は悪意しか意味をなさなくなっている。


本家の取り替えっこは、しなびた外観、旺盛な食欲、手のつけられないかんしゃく、歩行障害、不愉快な性格、と擬態できるほど賢くないため、ゲノムとしては少々不満ではあるのだ。でも、取り替えっこは人間の子供より知能がはるかに優れていたらしい。それを考えれば、本家の完全なる上位互換である。まず見破ることは不可能。見破られても、その子供を両親が奪還するのは不可能。ゴーストのような前例こそ唯一にして想定外なのである


ゲノムの手にはフェッチ事件、ゴーストの国ではカッコウ事件の被害者たちのリストがある。


彼らはゲノムたちが集めた選りすぐりのサイコデュエリストの卵だった。ゴースト以外は絶望に耐えきれず精神を病み、工作員に堕ちて、洗脳状態にある。ゴーストが有能なデュエリストとたたかいたくて私的に作っている生体情報のリストの一部となるはずだったデータはイグニスの複製から取得した。あのイグニスの複製はなかなか優秀なデュエリストたちの生体情報を集めていた。利用しない手はない。


「まずはこのリストをあたりましょう。あとはリボルバー様が密かに同期させはじめた後に入手した生体情報から。私たちは旧型デュエルディスクの使用者に絞り、ブルーエンジェルで以前実験したウィルスに感染させるのです。それ以外の最新デュエルディスクの使用者は貴女に任せますよ、サクス。人々はどう思うでしょうね、ゴーストに生体情報を抜かれた者たちが次々に昏睡状態になるとしたら」


サクスは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます、Dr.ゲノム!!」

「フランキスカもよくやってくれました、貴女の働きも期待していますよ」

「はい!」


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