さよならのかわりに15
青年は目を覚ました。


「なんか飲むか?コーヒーか水しかないけど」

「……誰?」

「俺か?俺は草薙。アンタのご主人様に興味があってな、早い話が誘拐だ」

「誘拐……」

「喉乾いてるだろ?」

「じゃあ、水」

「あいよ」


きょろりと青年はあたりを見渡した。草薙はロゴ入りのマグカップを渡した。


「ここは現実世界なのか?ネットの世界ではなく?」

「ああ」

「……現実世界」


突然立ち上がった青年は躓いてふらついてしまう。


「おいおい大丈夫か?急にどうした?」

「……外、外に出たい」

「外ねえ」


草薙は手を引いてトレーラーの外に出た。


「これが現実世界」


ほのかに白んでゆく明け方の凍てついた空気の底が、にじむように東の空に広がり始めている。ぴちち、と小鳥たちが横切る公園はジョギングや犬の散歩に勤しむ人々以外みかけない静かなものだ。口笛でも吹きたくなるようなさわやかな朝である。


外の闇は少しずつ薄れ、粒子の粗い景色が広がっていく。暗くて形しか分からなかった家の細部――窓や屋根についているアンテナの輪郭なんかが、徐々に姿を現わし始めていた。


街路樹の向こう側では、ベランダの窓を開ける住人がいて目が合う。こんにちは、と挨拶を交わした。フロントガラスにはシャワーの飛沫そっくりの埃が流れ出ていく。朝の町は眩しくて濁って見えた。


朝焼けを見つめた草薙は、今日は雨かもしれないなと思った。明りは四方に拡がることなく、焼け落ちるいずこかの城に上る焔のように、ただ真っ直ぐ上に向ってますます無意味に広がる。朝の明るみが果てしない遠方からにじむように広がってくる。黒く眠っていた山々がひとつひとつ眼をさましはじめていた。


朝の明るさが加速度を増して広がりはじめ、木漏れ日が屋根に映って穏やかな朝が始まった。風が動き始め、明るさが訪れる。朝が潮のように夜を追い出して、切れ切れの眠りにまみれていた街を起こしにかかる。


路上では朝の通勤ラッシュがスタートしつつある。街がいやいやながらけだろうそうに目覚める。



まだ人の息の混じっていない、清澄な朝の空気は太陽は静かに音もなくのぼり、東京タワーはまぶしく光っている
。まともな人々が会社や学校に向かっている時間帯がはじまる。


「せっかくだ、手伝ってくれ」


エプロンをつきつけられ、もたもたしながら青年はうなずいた。草薙は朝の支度をはじめる。暖められていく空気の匂いを嗅ぎながらコーヒーを入れる。


ようやく外気を取り込むことができたプランタの葉は、冷たい汗をかいたように朝露にびっしりと濡れている。


静かな朝がだんだん遠ざかり、出勤途中の人々が行き交い始める。草薙は注文されたコーヒーをサラリーマンに渡す。青年はひとり言われたとおりにテーブルと椅子を並べ始めていた。ありがとう、と受け取るサラリーマンのコーヒーが光って、まるで白刃のように新しい朝日に輝いていた。


東の空はさっきまでうれたトマトがつぶれたように赤かったのに、ただ真っ直ぐ上に向ってますます無意味に濃く変っていった。


朝の淡い光が窓のカーテンを染め、タフな都会の鳥たちが目を覚まして一日の労働を始めている。カーテンの隙間から光がくさびのように差し込んでくるのに観念して、向かいの家々はカーテンを開け始めていた。


寝巻き姿の老人が家の下の道路を歩いていき、電信柱の下にゴミ袋を置いていった。通勤ラッシュが一息つくころ、聴こえるものといえば時折の電車のレールのきしみと、微かなラジオ体操のメロディーといったところだ。


気づけば朝焼けはすっかり空の青に溶けて、かすかな輝きが残るのみとなっかいた。


初めて見る景色に青年は目を輝かせる。お客さんの出入りがようやく落ち着いて、草薙は昼に向けた仕込みを始めることにした。青年を呼ぶ。


「始めてか?」

「ああ」


いい笑顔を浮かべる青年をみて、もしかしたら息子のこの笑顔が取り戻したくて死者蘇生という禁忌に手を染めたのかもしれないと思った。


「お疲れさん。というわけでコーヒーでも飲んでくれ」

「ありがとう」

「悪いな、起きたばかりで働かせて」

「いい、はじめてのことばかりで楽しかった」

「そっか、なら良かった」


トレーラーに入れ、と促された青年は素直な頷いて階段を上がる。コーヒーを飲んで適当な椅子に座る青年は、端末でぱしゃりとしてきた草薙を不思議そうに見上げた。


「これが誘拐」

「そ、誘拐。アンタはご主人様について話してくれさえすればいい。いくつか質問させてくれ。アンタは人間か?AIか?」

「俺は……俺は、人間じゃない。俺はなんど蘇ればいい?」

「それはどういう?」


外に出してくれたことでテンションが上がったのか、青年はわりとあっさり話してくれた。


天国から引き摺り下ろされ、二度目の人生を強要された絶望感が強烈に焼き付いているらしい。繰り返し魂をサイバースで再構築されたアバターに入れられ、魂を固着させる実験をしたがうまく行かなければ天国にいく。また呼び出され、を繰り返した。魂は疲弊し記憶だけのこされた。もはや魂は応じようとすらしない。だから青年はサイバースの体に魂の記憶を固着させたAIでしかないという。


「次の質問はこれだ。アンタのご主人様の名前はなんだ」

「教えたら俺はどうなる?」

「アンタはどうしたい?」

「ただのデータになりたい」

「まだだめだ、早すぎる」

「早すぎる?だめじゃない?」

「ああ、アンタをデータにしてくれそうな奴らには心当たりがあるが、アンタには色々、話してもらわないといけない人がいるんだ。アンタはいわば生きた証拠だからな」

「そいつらに会ったら、いい?」

「ああ、俺は正直アンタがどうなろうが興味はないからどっちでもいいぜ。好きにすればいい。ただ、アンタが希望通りにデータになれるか保証はできない。さっきみたいに生きて欲しいってやつもいる」

「そう、か」


草薙は笑いながら返した。青年は肩をすくめる。データになりたいならなんの問題もないじゃねーかってHALやアイは言いそうだ。これは遊作や和波のところには置いておけないなと草薙は思う。すきあらば勝手に食べてしまうかもしれない。


「で、ご主人様の名前は?」

「……サクス」

「サクス?」


こくん、と青年は頷いた。聞きなれない言葉に草薙は端末で検索をかける。


「武器の名前か?」

「ああ、たしか由来はそんな感じだった気がする」

「サクス、か。また物騒な名前だな」


草薙はぼやいた。検索にかけた画像を見る限りヨーロッパの片刃の直刀で、肉切り包丁や鉈に似た外見のようだ。フランキスカと同じように紀元前には既に原型が出来ており、4世紀-11世紀にかけて使われた古代武器のようだ。


「スクラマサクスは長いから、サクスでいいって」

「へえ」


説明文によればスクラマサクスはサクスの中でも特に長い物を示す名前で、戦争用武器として用いられたようだ。スクラマは「深い切り傷を負わせる」、サクスはナイフか刃を示す古いドイツ語から来ているらしい。


「戦争用の武器、か。これまた物騒な」


さっそく草薙は和波と遊作にメールを送る。


「さて、アンタには今日行ってもらいたい場所があるんだ」

「どこにいけばいい?身代金は期待できるけど、たぶん命の保証はできないぞ」

「あはは、たしかにあんだけガチガチなセキュリティ突破してアンタを誘拐したんだ。サクスは今頃怒り狂って報復に出るだろうな。身代金並みに大切なことを知るためにも、アンタには行ってもらいたいところがあるんだよ」

「どこだ?」

「ま、夕方まで待ってくれ。案内人は夕方にくるからな」



和波に財前晃に会えないか連絡を入れてくれと指示を出しながら、草薙はそれまではアルバイトしてくれとちゃっかり笑いかけたのだった。


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bkm






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