2週目極歌仙と延享攻略2
僕は小夜左文字。復讐の逸話と向き合い、それを受け入れてきた。僕を形作るのは淀んだ黒い感情。きっと、それが僕の、僕だけの本質……あるじさまはこんな僕を抱えて、それでも進もうと言うんだ。だったら……僕もこの黒い澱みと共に生きるしかない……。

短刀極で生存が一番高いのは、僕だ。それに生存の高い短刀たちの中で特徴としては、何といっても打撃力だろう。刀装を1つ増やすだけでなく、生存を伸ばして1撃で敵を倒すことを目的とするなら、主の索敵という目的も同時に果たすことが出来る。

極短刀の中では索敵の数値は低いんだけど、うちの本丸で極に到達しているのは生存が高い代わりに索敵が低い刀剣男士ばかりだから、練度が高い僕が自動的に高くなる。それに1番隊は極の歌仙と次郎太刀、太郎太刀、石切丸、ソハヤノツルキだから、隊長に指名されても索敵が高い男士はいなかったので、異論を表立って唱える人はいなかった。

あえていうなら同室の歌仙が昨日から機嫌が悪いんだけどあれは拗ねてるだけだから放っておいていいと思う。

「小夜は江戸に来たことはあんのか?」

「うん、池田屋ばかりだけど、極について知るためにいったことはあるよ」

「そうか、なら他の連中にはすでに話したんだけどよ。小夜に時間遡行軍のいる場所の索敵のコツを教えてやるよ」

「霊的な守護を司っていたあなたがいうんだ、間違いないんだよね」

「昔の話だけどな」

ソハヤノツルキはそういって僕の頭を撫でた。

「まず江戸の街はな、四神相応でできてるんだ」

「?」

四神相応とは、古代中国の陰陽五行説に基づく考え方で、いわゆる風水における大吉の地相を指す。東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に「玄武の宿る山」がある土地は栄えると考えられてきた。

中国の長安はこれに基づいて選定され、日本でも平安京(京都)がまさにそうだ。陰陽道を修めた天海は、江戸もこの「四神相応」に適っており、幕府の本拠地として相応しいと考えた。

江戸は東に平川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったからだ。

実際のところ、富士山は真北から112度もずれているが、当時の江戸人たちはこれを北と見立てて、半ば強引に当てはめた。江戸城のつくりを見ると、大手門の向きなどもそれに合わせてずれた向きになっているが、これは意図的に富士山を北に見立てた手法だと思われ、江戸は「四神」によって護られた土地と考えられた。

地形について言えば、さらにもう1つ、城が置かれた本丸台地は江戸の中でも特に地相がいい場所だったことが挙げられる。

江戸には上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金に台地があり、本丸台地はこの7つの台地に囲まれており、各台地それぞれの突端の延長線が本丸台地で交わっている。陰陽道ではこうした地形の中心にはまわりの地の気が集まり、文明が栄えるとされる。

実際に、江戸城があった現在の皇居の地面の磁気を測定してみると、通常の倍の数値があることがわかっている。
場所が定まった後には掘割が進められた。

通常、堀は城を円で囲むように掘られるが、江戸の場合は螺旋状の「の」の字型に掘り進められていった。実は江戸城の内部も渦郭式という「の」の字型になっており、城を中心に時計回りで町が拡大していった。面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例しており、外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えている。

つまり、町がどんどん外縁へと広がり、無限に成長していくように設計されていた。

この「の」の字型の町割は、他にもいろいろな利点があった。敵が容易に城に近づけないので攻められにくい、火災の類焼を防げる、物資を船で内陸まで運搬できる、開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる。

江戸では平城京や平安京のような方形の条坊制を採らず、螺旋状に発展する機能性に富んだ町づくりを行なったのだ。

こうした江戸城と堀の設計の実務面では、築城の名手であった藤堂高虎らが中心となり、天海は思想・宗教的な面で「陰の設計者」として関わっていた。

工事が完成するのは寛永17年(1640)の家光時代で、その時すでに家康も藤堂高虎も他界していたが天海はなお存命しており、50年近い江戸の都市計画の初期から完成まで関わった。

「天海さまはこっからがすごかったんだよ」

ソハヤノツルキは嬉しそうに教えてくれた。

天海はさらに周辺の要所に発展の礎を築いていく。陰陽道では、北東は「鬼門」といって邪気が入ってくる、忌まわしき方角にあたる。また、その正反対にあたる南西は邪気の通り道の「裏鬼門」として要所とみなされた。

よく知られているのは、天海が住職を務めた上野の寛永寺。寛永寺は寺号を「東叡山」といい、東の比叡山の意味で、平安京に倣って江戸の鬼門鎮護を担った。

堂塔伽藍も延暦寺に倣い、近江の琵琶湖に見立てて不忍池が設けられ、琵琶湖の竹生島と同じく中之島に弁財天を祀るというように延暦寺に模したつくりになっている。

さらに寛永4年(1627)には寛永寺の隣に家康を祀った上野東照宮を建立し、江戸の護りとした。

他にも、天海が行なった鬼門封じはいくつもある。

豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町付近)にあった神田神社(神田明神)を、現在の湯島の地に移し、浅草寺を幕府の祈願所とし、ここにも家康を東照大権現として祀った。

裏鬼門も寺社によって護り固める。2代将軍秀忠を増上寺に葬って徳川家の菩提寺とし、さらに、日吉大社から分祀して日枝神社を移している。

江戸の三大祭といえば、神田神社の神田祭と浅草寺の三社祭と日枝神社の山王祭だがこれらの祭は江戸城の鬼門と裏鬼門を祀り浄める意味合いが秘められていた。

そして興味深いことに、徳川家の菩提寺となった寛永寺と増上寺、それに神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる点には、江戸城が位置していることがわかる。

天海はこれほどまでに、徹底して鬼門・裏鬼門封じを仕組んでいたのだ。

さらに天海は、陰陽道の力のみならず、実はもう1つ、大きな力を用いた。それは、遥か昔の平安時代に関東一円を席巻し、「新皇」と称した平将門公の力だ。

将門公は桓武天皇の子孫の血筋でありながら、天慶3年(940)に叛乱者として討ち取られ、京都の七条河原で晒し首となった。その首は関東にいた愛人を慕って飛び去り、今の東京都千代田区大手町一丁目にある首塚の場所に落ちた後、津波や洪水などの災いをもたらすという伝説を生んで人々から恐れられた。


天海は江戸の町づくりを進めるにあたって、この将門公の力を借りる。首塚の地の近隣には神田神社があり、将門公の胴体を祀っていたが、天海は首塚はそのまま残して、先ほど述べた通り神田神社を湯島の地に移した。

実はここに、江戸の町を守護する仕組みが隠されている。いうのも、将門公の身体の一部や身につけていたものを祀った神社や塚は他にも江戸の各所に存在するが、それらは全て主要街道と「の」の字型の堀の交点に鎮座している。

首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門に置かれた。

これら主要街道と堀の交点には橋が架けられ、城門と見張所が設置されて「見附」という要所になった。

天海はその出入口に将門公の地霊を祀ることによって、江戸の町に街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったのだ。民衆が奉じる地鎮の信仰と機能的な町づくりを上手く融合させた、まさに設計の妙手と言える。

このように、江戸の町は街道や掘割といった機能面での仕組みに加え、天海の真骨頂である陰陽道の地相と鬼門封じ、そしてさらに地鎮信仰まで用いてデザインされた。これらソフトとハードの両面での発展の仕組みがあったからこそ、江戸は世界で有数の百万人都市となりえた。

「なあ、小夜。アンタに黒い怨念がわかるんなら、この江戸の街に蠢く災禍の芽はどこにあると思う」

「ええと......」

僕は江戸の街を見渡した。

「......あれ?」

「どうした、小夜」

「ソハヤのいうことが本当なら......あれ......?四神相応は機能しているけれど、将門公が江戸の守護神としてそれだけ厳重に祀られているなら、......??」

「すごいな、そこまでわかるのか」

「いいの?」

「よくねえ。断じて良くねえ。なにかが起ころうとしてるのはたしかだ。でも、俺達の任務はそうじゃない」

「細川家の危機を救うこと」

「そう、それが俺達の仕事だ」

「......」

「どのみち明治に入ればこの結界はいよいよズタズタになっちまう。そして大正地震に繋がるんだ。俺たちに出来ることはない」

「わかった」

「さすがは1番隊長サマ。しっかり索敵頼むぜ」

「うん、まかせて。行こう。この戦いの果てに、この黒い淀みが晴れると願って……」


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