「畏れる」は、自分よりはるかに力のあるものを尊い、怖いと思う気持ちを表わす言葉だ。特に神仏や自然などについて使い、「畏まる」「謹む」とは違い、具体的な言動に表われることは少ない。
神を畏れるとは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めること。自分が今存在し生きているのは自分の力だけに依らないことを認めることでもある。
肉体と精神の源と多様な生命体を支えているしくみの不思議さを、驚きと畏敬の思いをもって受けとめることである。
「正しく畏れよ......か」
「いい言葉じゃないか、いつもきみがしていることだ」
「そうか?」
不思議そうな顔をしている主に僕は笑った。
「自覚してなかったのかい?きみは新たな敵が出てきたら、真っ先に情報を得ようとするじゃないか。少しでも信ぴょう性のある情報を求めて奔走するだろう。それは闇雲に恐れず、正しく敵を観測することにほかならない」
「あたりまえだろ、適当な情報を鵜呑みにして被害を被るのは歌仙たちだ。そんな無責任なことできるわけがない」
「それをいっているんだ、正しく畏れよという言葉は」
「そうか?なんかニュアンスが違う気がするんだが」
「神々の末席に座するものとしてはね、やみくもに恐れられても、嬉しくないんだよ。ほかの神々は知らないけれど」
「ああ、なるほど。歌仙と俺はその目線の違いがあったな」
「そもそも憑依って言葉はあれだろう、人間の主観からして悪いことをする神霊をまとめて定義しているじゃないか。主に害をなす時点で、神格がなんであれ、憑依と形容していいと思うよ」
「歌仙がいうならそっちで調べた方がよさそうだな」
「物質世界たるこちら側に顕現する時点で、僕たちを含めた神霊は人間の定義から逃れることは出来ないからね。きみが正しく観測することで襲撃者は正体不明から弱体化を余儀なくされるだろう」
「あれ、俺ってそんな大切な作業してる覚えなかったんだが」
「きみが知らなかっただけさ」
「まじか」
襲撃者対策の新しい霊的な守護システム構築と憑依された存在が本丸内にないか確認するため、全てのシステムが停止。僕や刀剣男士の状況確認、健康診断、そして本丸全体の一斉点検が行われているため、ここ数日僕たちはなにも出来ないでいる。
今日は本殿の検査日だから私室と執務室が立ち入り禁止になり、追い出された主は他に行くところがなくて書庫にいた。近侍である僕もだ。
どうも主はメンテナンス開始前に必死で私物を片付けて貸金庫に全部放り込んだらしい。いつの間に契約したんだと聞いたら生き恥を晒したくはないの一点張りで教えてくれなかった。もうめんどくさいから生活に必要なもの以外は貸金庫に入れっぱなしでもいいかもしれんと。プライベートは守られなければならないと主張する主である。なにをしまったんだろう。
思考が脱線し始めたところで、僕は本を戻した。
「この棚はあらかた調べ尽くした感じがするね」
「さすがに憑依だけで特定は無理筋か......?」
憑依して審神者から情報を抜き取り、刀解という形で内側から崩壊を狙う新手の敵はまだ正体がわかっていない。正体不明のままではいけないだろうということで、主は主なりのやり方で対策を練ろうとしている。僕も朝から付き合っているんだが、さすがに無謀だっただろうか。
真っ先に調べたのは、憑き物という言葉の定義だった。
憑き物とは、人や動物や物に荒御魂の状態の神霊や位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時。もしくは悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時。相対的に良くない状態の神霊の憑依をさすらしい。
「なあ、歌仙」
「なんだい?」
「こんのすけが刀剣男士でも対処可能っていってたけどさ、お前らってどのくらいの格の神霊なら切り殺せるんだ?」
「きみに仇なす不埒者ならなんだって、といいたい所だが、実の所は個体差や練度もあるから一概にはいえないね」
「あー、本丸によっては大倶利伽羅が戦艦をぶった切ったこともあるらしいな」
「そこまで行くと主の霊力によるとしかいえないんじゃないか?」
「やっぱりそこに行き着くんだよなあ!」
「はいはい、拗ねない拗ねない」
「ないものねだりしても仕方ねえか......刀剣男士が切り殺せるなら下級霊?いや生霊や低俗霊の類なら神道に精通していた審神者がやられるわけがないか」
それらしい言葉のタイトル、もしくは昔読んだ記述を探りながら僕たちは本を片っ端から読んでいく。
「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念......ダメだな範囲が広すぎる」
宗教の本では概念しか理解できないと主は頭をかかえている。もっと具体的な記述がほしいのか、主は棚を移動した。
「昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった......?勘弁してくれ、風邪ひくじゃないか」
ふと扉が開く音がした。こないだ、襖の横に旅館みたいに札をかけることができるようにしたから、誰かしら用があれば来るだろうと思っていたが来たらしい。
僕たちはそちらをみた。
いつしか初秋の黄昏は幕の下りるように早く夜に変わっていた。本殿や棟から漏れる灯がうすい靄につつまれて、山と山に狭ばめられた初秋の空も、しょうさつとした墨いろの中に鬼気をもって、なんともいい難い静寂に包まれていた。
こっちだと必死で手を引く小夜に連れられて中庭に走った僕たちを待っていたのは、白露に濡れるコスモス畑の真ん中で膝を折る大倶利伽羅の姿だった。
傍らには交戦状態になったことを伺わせる刀だったものが落ちていた。原型はほとんど無い。どうやら襲撃者は誰かしらに憑依して霊力を蓄えながら潜伏したのち、顕現したはいいが主の霊力を探知できず放浪していたところを大倶利伽羅に見つかったらしい。襲撃者は今実体がないのだ。
「大倶利伽羅ッ!」
僕は主を制した。
「チッ……読み違えたか」
「大丈夫かい!?なにをやっているんだ、きみはッ!!足を潰すなんて!そんなの敵の思う壷だろうッ!」
「わかってる......わかってるが、くそッ!」
「主、大倶利伽羅に近づくな。彼には襲撃者が取り憑いている。彼が足を潰したのはきみのところに行かないためだ。彼の意志を汲んでくれ」
「......ッ、石切丸たちは!?」
「今呼びにいってるそうだ。襲撃者の狙いはきみだ、いいね」
「わかってる......わかってるが......ああくそッ!!」
主はなにもできない自分に絶望している。僕は念の為本体を大倶利伽羅に向けながら問いかける。まだ彼に体の主導権はあるようだ。
「大倶利伽羅、襲撃者はどんなやつだ」
「時間遡行軍の連中によく似ていた」
「なるほど、じゃあ何故刀剣じゃなく実体を攻撃しなかった?きみなら始末できたはずだ。刀剣を執拗に狙ったのは何故だ?相手は実体を形成するのに霊力が欲しいんだ、きみに憑依しようとするのはわかってたはずだ」
「戦ってるんだ……こうなるのは当然だろ」
「話をそらすな。きみは何を見た。なんで襲撃者を庇う真似をする?うちにいる大倶利伽羅はあっさり襲撃者に思考を乗っ取られるほど雑魚ではないはずだが?」
「......くそっ」
「検非違使放免か、大倶利伽羅」
「主?」
「......」
「骨喰の姿だったか」
「......ちッ」
「主はどこだとでも聞いてきたのか?」
長い長い沈黙が続いた。
「大倶利伽羅。お前が見たのは、俺の霊力を持った練度が高く極に到達した骨喰藤四郎だな?」
主が言った。穏やかな物言いだったが、奇妙な威圧感が空気を震わせた。周囲に立ち並ぶ杉の木から、声が発せられたのかと思うほどだ。
見上げれば四十メートルはある杉が、空を覆い隠している。数メートルの間隔で、幾本も立っている。赤褐色の樹皮は、縦に筋があって、裂こうと思えば綺麗に裂けそうだった。
圧縮された空気を前から浴びせられたような、異様な威圧感がある。
穏やかな顔、鋭い視線、大倶利伽羅を見透かすような発言、あれらは主が持つ独特の迫力だ。向かい合って話をしているだけで、刃先で切られる気分になっているはずだ。
あのただならぬ、静かな圧迫感は、尋常ではない。
僕は大倶利伽羅に心の底から同情した。僕にかつてたったひとりで内番を命じた時の主と同じ雰囲気だったのだ。
折れたのは大倶利伽羅だった。観念したようにうなずいたのだ。
「おかしいことにはすぐ気づいたがな。骨喰はあんたに相談にいったんだ、書庫で本の虫になってることくらいすぐに思い至るはず。なのにいかない。頑なに行こうとしない。なのに主がいないと探し回っていた」
「いかないんじゃなく、行けなかったんだろうね。今、本丸全体の護りが強化されている。いずれは霊力が枯渇して自我が崩壊する」
「骨喰が万が一検非違使放免で前の骨喰藤四郎の本体を持ち帰れたらどうするか不安がってるのを聞いてたんだな」
僕は弾かれたように顔を上げた。主は神妙な顔をしてうなずいている。大倶利伽羅はばつ悪そうにしている。
「なんだって?まさか、だから先に破壊しようとしたのか、大倶利伽羅」
「戦ってたんだ、こうなるのは当然だろう」
「いつものきみなら真っ先に実体を破壊するはずだろう」
「......ちッ」
「大倶利伽羅」
「..................みたかったんだ」
「なんだい?」
「この本丸で一番強いお前ですら勝てないと断言するようなやつだ、戦ってみたかった」
「なにをいっ......まさか、き、きみってやつは......馬鹿じゃないのかッ!!」
「うるさい」
「大倶利伽羅ッ!」
「あんたがかつて率いた本丸がどれだけ強かったか、あんたのいるこの本丸がどれだけ強くなれるのか、知りたかったんだ」
「は、はあっ!?な、なんだよそれ......どんだけ強さに貪欲なんだよ、お前さあ......」
「......ふん、所詮は無銘刀だといった俺に、はやく強くなってもらわないと困るといったのは、他ならぬあんた達だろう」
「いや、たしかにいったけど、いったけどなあ、だからってお前」
大倶利伽羅は小さく笑った。その肩を掴む影がある。
「笑える余裕があるなら多少手荒にしても大丈夫そうだね。僕たちの本体は刀剣だ。物を大事にしないと、そのうち痛い目見るということをこの際教えてあげようじゃないか、大倶利伽羅」
「い゛」
石切丸が笑顔ながら殺気立っているのがわかる。どうやら除霊の準備が整ったようだ。大倶利伽羅は悶絶しているが石切丸は気にせず本殿へ連れていく。僕たちはその後に続いたのだった。
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