3

 


 広大なホールには同年齢の大学生や教授達を含め、多くの人が舞台の上に立つ二人の女子学生を見上げている。


 カナエは共奏者であり、親友でもあるヴァネッサをチラッと見た。ヴァネッサも自信ありげにウィンクをしてくる。


 バイオリンを構え、弓を弦の上にかざした。


 テーマ曲、「夢の後に」の最初の音符を奏でると同時にヴァネッサのピアノもそれを続く。


 聴衆は皆カナエが奏でる暗く、それでいて力強い音調に引き込まれて行った。そしてその表情は曲の悲しい背景を表すが如く、瞼に重い哀愁が込められている。



 カナエはこの時、ホールの中に一人の男が入ってきたのを全く気がつかなかった。


 男の身なりはどうも他の人と違っているが、誰もがカナエとヴァネッサの演奏に引き込まれているせいで、その姿に気を止めなかった。


 男自身も無感量な面持ちになり、演奏に身を浸した。



 ただ一心に意識を曲だけに集中させる。最後まで、バイオリンとピアノは音符一つ間違えず演奏を終えることができた。


 途端、ホールの中に拍手の嵐が巻き起こった。カナエとヴァネッサの二人は大成功を収めたみたいだ。

 
 普段厳めしい教授も微かに笑顔を浮かべているのを見て、カナエは思わずほっと胸を撫で下ろした。


 「やったね!」


 嬉しそうにカナエに抱きついたヴァネッサの柔らかい金髪が鼻をくすぐる。カナエも親友に抱き返した。



 「ヴァネッサのおかげよ、ありがとう」


 「なんのなんの、カナエこそ一番凄かったのよ」


 ヴァネッサは柔かに微笑んで、カナエの肩に手を回した。


 
 「もう正午だし、先に終わった連中とご飯でも行く?」



 「ああ、うん」


 このままヴァネッサと一緒に食堂に行こうとすると、何故かホール中女の子の黄色い声が響き渡った。


 「なんの騒ぎ?」


 「さあ?」


 目を凝らしてみると、女学生の大群をかき分けて一人の軍服を纏った男が困った笑みを浮かべている。その顔がとても整っているせいで女の子達の心を掴んだのだろう。



 「わあ、あの人凄いイケメン!!」


 隣のヴァネッサも惚れたようにうっとりして男を見た。しかし私はすぐその男は3日前の駅で見た兵士であることが分かった。


 今度は真正面からその端正で、温厚そうな顔を合わせる。カナエは一瞬ドキッと胸のときめきを覚えたが、動揺を悟られないようにすぐ視線を男の顔から剥がした。

 
 ここに来て何をするつもりかしら。音大なんて、親衛隊の兵士と関わりがあるように思えないし。




 「サクライさん!」


 次の瞬間、兵士はカナエの姿を見つけ、助かったと言わんばかりに大股でこちらに近づいて来た。同時にその周りにいる女の子達が恨めしい目つきで睨んでくる。


 何で私の名前を知ってるの?!


 目を丸くするカナエをヴァネッサが興奮してその身を揺らした。


 「カナエ!あんたにあんないい男ができたなんて聞いてないわよ!」


 「いや、付き合ってないし。そもそも3日前が初対面だわ」


 「え!!どこで出会ったの」


 「ベルリン駅で。でもあの人の名前を全く知らないよ」



 ここに馴染もうと頑張ってるのに、この人が現れたおかげでもっと要らぬ敵が増えてしまった。


 どうしようもなく、胸が高鳴る一方でカナエは男に少しムッとした。



 
 「え、近づいてくる近づいてくる」


 まるで男が神々しい光を帯びているように、ヴァネッサはカナエの後ろに隠れた。


 「これ以上見ていたら浮気しちゃうかも」


 ヴァネッサには付き合っている一つ上の先輩がいるのだ。気持ちは分からなくもない。この男を見た女の子達は今、自分の彼氏と比べているに違いない。


 大体彼氏ってのは大学の合コンとかで作るけど、カナエはそういうのに参加するのが嫌いだ。ヴァネッサもそれを嫌っていたが、美人だったため告白する人が絶えないという。




 やがて男はカナエの1メートル先という所で立ち止まり、真摯な目でカナエを見つめた。



 「こないだは本当にすみませんでした」


 男は頭を下げ、背負っていたバイオリンのケースをカナエに渡した。




 「今日はこれを渡すためにここに来ました」



 ケースから現れたのは、真新しい、表面が光っているバイオリンだった。


 しかも普通のバイオリンではなく、壊れた自分の相棒と同じ形式だった。




 「え」


 父が色んな楽器製造社に問い合わせても、これと同じようなバイオリンは既に発注中止になったと聞いたはずだ。


 
 歓喜による涙が出そうになるのを必死に堪える。ここは礼を述べるべきなのに、どういう訳か喉が詰まって言葉が出ない。



 「部署の上司の家に聞いたら、新品のまま残ってたみたいなので譲ってもらえました」


 
 滑らかな表面を指でなぞり、自分が愛用していたバイオリンそのものであることを確かめた。




 「あ、ありがとうございます」


 
 やっとのことで喉に空気が通るようになり、カナエは慌てて男に感謝を述べた。



 「いいえ、あなたが使っていたのと同じで良かったです」


 対して男は満足そうに顔を綻ばせた。




 「あー、先に食堂に行っとくね」



 ヴァネッサが頑張れというように軽くカナエの肩を叩き、逃げるようにその場から立ち去った。話好きなヴァネッサの事だから、あれは絶対食堂で皆に言うだろうな。


 いつまでもここに居たら、騒ぎで次の学生達が発表できないとカナエは思った。その考えを読んで男はこう提案した。



 「どこか、二人きりで話せる場所がありますか」





 二人きりになれる場所が思いつかないカナエは、とりあえず男を連れてグランドに行った。


 屋外に出るまで、後ろに大人しくついてくる男とカナエの姿は、廊下を行き交う学生達の目を引いた。


 明日から、いや、今日にも大学中この話題で持ちきりだろうな。「全校唯一のアジア人女学生と花のように麗しい親衛隊の男」という。

 

 グランドの外は少し寒かったが、立って話せる気温ではあった。学生は皆教室で授業してるか、食堂にいるから外は人気がなかった。



 「先程のあなたの演奏、とても素晴らしかったです。あなたより上手なバイオリン奏者は見たことがありません」


 褒められてカナエは思わず口角を吊り上げた。自分は見えなかったけど、どこかで見てくれたのか。



 「そんな、ありがとうございます!」


 カナエの輝くような笑顔を見て、パイパーは本心から愛嬌を感じた。



 「そのバイオリンはヤマハのですか?」


 「そうです、父から借りました」



 この人、素人ではなさそうだ。少なくとも日本製のバイオリンに見識があるぐらい、その立ち振る舞いからも教養の良さも分かる。



 「実のことを言うと、俺も音楽が大好きです。好きな楽器はピアノですが、たまたまバイオリンについてある程度知識があったので」




 ああー、だからか。カナエは心の中で納得した。


 戦場で血を流す軍人のイメージとは裏腹に、こんなにも上品な趣味があるとはカナエも驚いて目を見開いた。





 しかし、男に聞きたいことがまだ山ほどあった。


 「どうして私の名前を知っているのですか?」


 いつしかカナエは男と並んで柔らかい草の上に座っていた。



 「ああ、あなたを探すのは簡単でしたよ。色々聞き回っていたら、逆に何で知らないのって言われました」


 
 まあ、自分の顔立ちを含めて、家族がここベルリンで有名なのは知っている。


 日本の三菱商社のベルリン支店を営む父と、昔の大戦で活躍したエルンスト家の美しい母の結婚は、当時はかなり話題を呼んだものだ。




 「でも、不公平ですね」


 カナエは悪戯っぽく口を尖らせてみせた。



 「何がですか?」


 キョトンとして男が聞いてくる。カナエを怒らせたのかと心配してるようだ。



 「私、まだあなたの名前が分からないのに」


 「ああ」


 成る程と、形の良い眉を吊り上げた男は済ました態度を取って自己紹介を始めた。



 「俺はヨアヒム・パイパーです。1915年生まれで、今は武装親衛隊に所属しています」


 「へえ...パイパーさんは私より二つ年上か」

 「え!」


 カナエの実際の歳を聞いて、パイパーは驚いて目を見開いた。

 「すみません、とても幼く見えてしまったもので」


 「それはよく言われます」

 カナエは柔らかく笑って、不意にパイパーとの視線がぶつかった。緩やかな風が吹くと共に、カナエの黒い髪がふわっと揺れた。


 一つの漣もなく、カナエの静かな湖を連想させる青い目にパイパーは吸い込まれていく錯覚を覚えた。


 カナエ自身もどこかパイパーに惹かれているように、この世の物とは思えないほど清々しくて、ひょっとすれば映画の俳優よりも顔立ちが整っている。


 思えば私は3日前の駅で私は何という態度を取ってしまったのかしらと、カナエは胸の中で後悔を感じた。


 恋愛をしたことがなくて分からないが、この胸が締め付けられてきゅんと痛くなる感覚は、恋なのだろうか。


 

 しばらく時間をも忘れて、言葉もなく見つめあっていた二人だが、ふとパイパーが時計を見て慌てて立ち上がった。



 「ごめんなさい、もう行かないと上司に怒られます」


 「はい、行ってらしゃい」


 そろそろお腹も空いてきたので、カナエもパイパーがくれたバイオリンを持って移動しようと立った。



 「これ、ありがとうございます。大切に使いますね!」


 カナエはパイパーの背中に向かって言うと、パイパーも振り返って優しい笑みを返した。



 「いつかあなたがそれで演奏している所を見たいです!」



 これは、また会えるという予言なのか。


 カナエは思わずギュッとバイオリンのケースを抱きしめて、パイパーの姿が大学の門に消えるまで手を振り続けた。


 
 


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