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「ただいま...」


 おぼつかない足取りで家の玄関に入ると、既にメイドのマリアが待っていた。


 「お帰りなさいませ、カナエお嬢様。朝食は召し上がられますか?」


 確かに朝から何も食べてなかったが、かと言って食べる気力は自分に残っていなかった。



 「ええ、もらうわ」


 いつもみたいに朗らかにマリアと挨拶を交わすことがなく、カナエの表情が沈んでいることを心配したマリアはその後をついて行った。


 朝の食卓にはすでに家族が集まっていた。父は相変わらず難しい顔で新聞を読んでいるし、母はラジオの放送に耳を傾けている。そして姉は一刻も早く外に出たいように、不機嫌そうに顔をしかめている。



 最初カナエに気づいたのは母のアルマだった。


 「あら、カナエ、お帰り」


 父のトシユキも新聞から顔を上げ、カナエに暖かく微笑みかけた。


 「ウィーンでの研修はどうだった?」


 姉が目もくれないのはいつものこと。


 しかし、二人ともカナエが項垂れていることに気付いて言葉を噤んだ。


 「どうしたの?」


 言葉の代わりにカナエはテーブルの上に、壊れたバイオリンを見せた。見るのも辛いみたいにカナエはそれから顔を背けた。


 「...まあ、これは一体」


 「先駅で考え事をしながら歩いてたら、兵士とぶつかってケースから落ちたわ...ごめんなさい、私、あの場で泣いてしまったわ」


 またもや瞼に涙をにじませた娘の肩をアルマが優しく摩った。


 「あなたがあれほど大事にしていたバイオリンが壊れて、泣くのも仕方ないわ」


 トシユキもカナエを元気付けようとその髪を撫でた。


 「父さんがもう一つ買ってやるから、もう悲しむなよ」


 父からパンを受け取ってカナエは一口かじった。口の中でほんわり広がるバターの甘い味は、いくらか心を落ち着かせてくれた。



 「向こうもあんたが小さすぎて見えてなかったでしょ」


 不意に姉が悪意を込めた口調で割って入った。


 「ラン!また妹にそんな口を聞いて!」


 トシユキは思わず眉を歪めた。


 「家族への憂慮が足りないようだな」


 
 「はん、音楽なんて子供がやるものだわ」


 ランはこちらをあざ笑うかのように鼻を鳴らして、乱暴に椅子を蹴って立ち上がった。


  
 「ラン!」


 「夜まで帰らないから、じゃっ」


 そう言い残してランは外に出た。



 「まったく、あの子ったら昔からちっとも変わってないわ」


 アルマが悩ましげにため息をついた。この頃になって姉はよく外に出かけるようになった。翌日になっても帰ってこない時もあり、そのことがいつも両親の精神を削っていた。


 帰ったとしてもどこに行ってたんだと聞いても、姉は決して口を割ろうとしたなかった。それで家の中が頻繁に口論が生じたのだ。



 姉には多くの友人に恵まれていると聞いたけど、自分と違いもっとドイツ人らしい顔立ちで周りに馴染めやすかった。


 そして心のどこかにいる自分が、それを羨ましがっている。




 「3日後に大学で行われるウィーン研究の発表会のことだけど、父さんのを使っても良い?」


 「ああ、勿論良いよ。日本製だけど構わないね?」


 愛用のバイオリンとともに臨むはずがこうなってしまったため、カナエは臨機応変な対応を取った。


 「ありがとう」


 カナエは小さく微笑んだ。相棒を失ってしまったのは辛いけど、ここで立ち止まるわけには行かない。そう思ったカナエは父からバイオリンを貸してもらうことにした。




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