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1938年 ウィーンからベルリンへの列車の中で



 ガタンゴトンと、列車が揺れるたびにカナエはその数を数えた。寝台の下段に寝転がったまま、心地よく軽快な揺れを体全身で感じる。深夜となればいつも人で賑わっている駅も、静かだった。


 カナエ・サクライは日本人の父とドイツ人の母を持ち、3歳上の姉もいて四人家族だ。


 ハーフと言っても、カナエは姉と比べたらもっと父の遺伝子を多く受け継いでいる。まっすぐな黒髪に丸く小さな顔。自分が生まれ育ったドイツでは、その東洋の顔立ちは誰よりも目立っていた。幸いドイツ人は優しく、こんなにも違う自分を受け入れてくれた。


 カナエの一番人の目を引いているのは、母親から受け継いだ透き通った蒼い目。時には青空のように暖かく、時には氷のように冷たく、光の射し具合で輝き方が違う。それは人それぞれに違う印象を与えるのだ。


 いずれにせよ、カナエは明るく聡明な女子音大生で、小さい頃から両親に「悪い人には気をつけなさい」と耳にタコができるほど言われてきたせいで、思慮深い人でもあるのだ。


 ドイツ語はもちろん、英語やフランス語に堪能である。しかし自分は一度も日本に行ったことがなく、まして日本語が全く話せなかった。

 日本人らしい顔立ちで日本語が話せないと聞いて、蔑む目を向けてくる人がいるのも仕方がない。自分はあの訳がわからない、漢字だらけの言語が苦手だった。


 あの遠く離れた島国には自分と同じような顔立ちの人々がいるのか、父から「日本の桜は綺麗だぞ、いつかお前を連れて行ってやるからな」と言われて、その時からずっと胸の中で期待が高まっているのだ。


 カナエは体を起こし、テーブルの上に置かれている新聞に目をやった。イギリスのチェンバレン首相とドイツの総統ヒトラーが笑顔で握手を交わしている写真の下に、平和を讃える文字が綴られている。


 そう、今の欧州の緊張が収まれば私も日本に行けるはずだわ。


 特に政治に興味はないが、目まぐるしく変わっていく世界を知るべきだと言う父の言葉で、カナエも自然と新聞に目を通すようになった。


 オーストリアでも至る所にハーケンクロイツの派手な旗が翻っている。現に指導権を握る総統の思う次第、自分たちの立場が変わるかもしれないのだ。


 

 淡い朝日が、重厚そうな欧風の建築を照らす。車掌がコンパートメントにやってきた。


 「間も無くベルリンに到着します」

 
 部屋の女たちが目を覚まし、それぞれ着替えを始めた。


 カナエはスカートの裾を直し、肩に愛用のバイオリンをかけて列車から出た。途端刺すような冷気に襲われ、マフラーに顔を埋める。


 ベルリンはオーストリアよりも人の熱気にあふれていた。あちこちに総統の肖像画が掲げられていて、鮮やかな旗がはためいている。

 大勢な人たちの中には、談笑しているSS隊員やヒトラーユーゲントの少年たちの姿も少なからずいた。でもやはり皆好奇心に満ちた視線を送ってくる。もう慣れていることだから、カナエは恥ずかしがらず歩みを進めた。

 家はここから近いので、徒歩で帰るつもりだ。


 私は時代の波に左右されず、今のままで生きていけるのだろうかと、カナエはしばしそんなことを考えながら歩いた。


 母方の祖父母は熱狂的なナチ信仰者であり、総統が何を言おうと否定しない風にカナエは見える。


 元々日本人である父の元に娘を嫁がせるのが嫌だったみたいだが、父の立派な人柄と二人の愛が打ち勝って、渋々結婚を認めた母から聞いた。別にそれでいて、全然姉とカナエに優しく接してくれている。



 そうやって考えに更けていると、目の前から来た兵士に気がつかずぶつかってしまった。思いがけない男の頑丈な肉体の衝撃を受けて、カナエは地面に尻餅をついた。


 「いった...!」


 倒れた時に地面に掌を擦って、じりじり焼きつくように痛い。


 
 「大丈夫ですか?」


 兵士が慌てて屈み込み、心配そうにカナエの顔を覗き込んでくる。兵士は驚くほど顔が端麗であるが、今のカナエにはそれがどうでもよかった。


 何故なら、入学祝いに両親からプレゼントされた大切なバイオリンが、ケースから落ちて壊れてしまったのが見えたからだ。


 相棒の無様な残骸だけ呆然と見つめて、カナエは地面にへたり込んだままだ。


 「ごめんなさい!俺のせいであなたのバイオリンが...!」


 兵士が本当に申し訳なさそうに何度も謝った。カナエはぐっと涙を堪え、兵士の手を押し除けてよろよろと立ち上がった。



 「私こそごめんなさい、ちゃんと前を見て歩かなかったものですから」



 しかしあまりのショックに、やはり涙を止めることができなかった。地面に涙がポツポツと滴り落ち、砕けた残骸を少しずつケースに戻して行った。



 兵士も手伝おうとしたが、カナエは軽く頭を横に振ってそれを制した。そして反射的に兵士の顔を見てしまった。


 兵士は涙に濡れたカナエの顔を見て、思わず動きを止めた。ちょうど、淡い光を受けてダイヤモンドの如く煌く大粒の涙が、澄んだ湖を思わせる目を伝って頬に流れるのを見た。


 知らない男の人に、泣いてるところを見られてしまった。私はなんて不謹慎な行為をしたのだ。恥ずかしく思ってカナエは顔を再び背けた。


 それを見て、なんと兵士は胸ポケットからハンカチを取り出し、ゆっくりそれをカナエに差し出した。


 兵士も同時に、自分はとんでもないことをしてしまったという自責な念が激しく迫ってくる感じがした。


 この日本系の女性にとって、先ほど壊れてしまったバイオリンは物凄く大切なものだと分かった。



 「弁償します、本当に申し訳ない」


 本心からそう提案したが、それでもカナエは表情を変えることがなかった。



 「...ううん、もう大丈夫です。自分でなんとかします」


 カナエは兵士のハンカチを硬く突き返し、残骸を拾ってそそくさとその場から立ち去った。



 「あの!」


 背後から兵士の声が聞こえても、カナエは振り向かなかった。


 ああ、帰ったら両親になんて言おう。あの兵士のせいじゃない、自分の不注意で自分の音大生活で最も大事な物を失ってしまった。


 
 
 やがてカナエの小さな背中が人混みに消えて見えなくなり、兵士は観念したように肩を落とした。


 「マックス」


 1人の恰幅の良い兵士がパイパーと呼ばれた兵士の肩を叩く。兵士の友達である、マックス・ヴュンシェだ。


 「どうしたんだ?パイパー。そんな悲しい顔をして」



 「取り返しの付かないことをしてしまった」



 「え、なになに?あの慎重者のヨッヘン君が何をやらかしたのか是非聞きたいな」


 パイパーはカナエが拾い損ねたバイオリンのかけらを見つめたまま続けた。


 「俺はたった今、一人の女性の大切なバイオリンを壊してしまった」


 「おやそれは大変だな...で、美人だった?」


 パイパーは頭の中で先ほど見たカナエを思い描いてみた。とても可愛らしい顔立ちだったが、一際目立っていたのは...



 「綺麗な蒼い目が凄く印象的だった...っておい、俺はそう言うことを聞いてほしいわけじゃない」


 「おー珍しい、いつものお前なら大していい反応示してくれないのにな」



 揶揄うような仲間の口調にパイパーも苦笑いを浮かべた。


 
 自分の性格のせいか、パイパーはどうしてもあの女性にもう一度会いに行きたいと願った。泣いていた彼女を、笑顔にしたい。そして自分はその笑顔が見たいのだ。
 

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