ああ、これが終わりかと志摩は思った。額から流れる血は閉じた左目の山を上っては降り、血の涙のように頬を伝って落ちていく。残された右目の機能もろくに仕事をしない。焦点が合わないが、うすらぼんやりと全てが崩壊していくのはわかった。

 物質界の脅威は去った。

 そしてその舞台となったこの建物も轟音を響かせながら崩れていく。もっとも志摩に残された感覚は視覚ぐらいで、頭、四肢、土手っ腹に受けた傷なんて今更痛くも痒くもなかった。もちろん力が入ることも。瓦礫の音も遥か遠くから薄らぼんやりと聞こえるだけで、ほとんど何も感じないのと同じ。嗅覚はそれなりに機能してる。けれどもそれも土煙や流れる自身や悪魔の血だの混ざり合ってもう何が何だかと言う状況だ。
 そのまま瓦礫で押しつぶされるなり、それよりさきに失血死が来るか、志摩はもう自分のことなどどうでもいいと目を閉じた。
 すると、志摩の意志などお構いなしに図太く生き残っていた脳が勝手にこれまでの記憶を手繰り寄せる。

 ああそうだ、俺は最後に崩れ落ちそうな地面から坊を無理やり引っ張って、ぐるりと円を描くように入れ替わって、落ちたんや。子猫さんがいち早く気づいて、俺がいち早く動いた。間に合った。
んで、逃がさないと力を入れられる前に、振り返って見られる前に手を離した。
 例え坊がどんなに俺を助けたいとエゴを押し付けても、俺は絶対に助けなどいらんとその腕を暖簾のように躱したる。すたこらさっさ、都合の悪いことから逃げるは俺の十八番。
 人間なんてみぃんな遅かれ早かれいつかは死ぬ。せやけど、坊にはまだ早い。あん人は明陀の光や。こないなところで消えてる暇なんぞない。
 それに。最終的には物質界を救った一人やとしても、自分が大手を振って外を歩いていける人間じゃないことはよぉわかっとる。二重スパイやとかもう窮屈な世界は懲りた。そんならまだ地獄の巡りの方が気楽なもんや。

 もう死んだと思っていた表情筋が僅かに動いた。遅れてははっと笑おうとしたが、音の代わりに血が出た。そしてまだこんなことを考える余裕があることにまた笑って血を吐く。それならばそのまま思考にだけ身を委ねようと志摩は意識を深く深く裡へ向ける。誰も届かない底へ。

「志摩廉造!!」

 その声は瓦礫が砕ける音より轟く。とうに消えたはずの痛覚がその振動で全身がじりじりと焦がすようだ。もう一度、今度は「志摩ァ廉造!!」とやや間延びしているが、その呼び声は先程よりも凄まじい怒気と覇気に満ち溢れていた。
 えらい喧しい死神やなぁと思った瞬間、胸ぐらを掴まる。そして志摩の真っ赤に染まった唇に重ねられる柔らかい何かはただただ生臭い鉄の味がした。

「……あのまま死ねると思った?」

 志摩の赤みの強い茶色の瞳いっぱいに奏が映った。鼻先が触れそうな程の距離。歪んだ表情を浮かべる奏の口からは同じ赤い血が一筋落ちる
 突如現れた奏に志摩の思考はぴたりと止まり、頭が真っ白になった。
 奏は殺気にも似たものを含んだ視線で志摩を一瞥すると、その目とは正反対にゆっくりと志摩の体を解放する。そしてしえみから受け取った薬草や蔓で止血などてきぱきと応急処置を施していく。抵抗する力も言葉も出ない志摩はされるがまま。奏の背後ではやはり変わらず瓦礫が落ちては更に下へ穴を開けていく。
 本当に最低限の処置を終えた奏は志摩の懐に潜り込み、彼の肩に腕を回して無理やり立たせ、歩き始めた。

「ちょ」

 ようやく理解が追いついた志摩が奏の行動に言及しようとしたが、やはり血反吐に邪魔される。挙句、「喋るな」と酷く荒れた口調と声音で一蹴される。いつもの明るい物陰はどこにもなかった。ずるりずるりと志摩を引きずりながら奏は前へ、ここから脱出しようとする。

「そう簡単に、楽に死ねると思ってなかったわけじゃないでしょ」

 そのとおりだと志摩は思った。もう数え切れない程の罪を犯して、楽に死ねるとは思っていなかった。このまま瓦礫に押しつぶされて見るも耐えない死体、もしくは一生肉片すら見つからないような最期を迎えるものだと。

「バッカじゃないの」

 そういう奏ちゃんも大概やでと志摩は思った。さきの死闘で奏も重傷を負っていた。境界の主(ドミナスリミニス)に乗り込んで離脱するために外へ逃げる奏は綴に担がれていた。そして回された腕から伝わる体温が死人のように冷たかった。ぼやける視界でも奏の顔も生気を感じさせないほど青白い。そのせいで額から流れる血が余計に際立ち、見るに堪えない。血が足りない志摩よりも奏は冷え切っていた。
 そして志摩は気づく。奏の異常な低温の原因、志摩と同じ失血ではなく、彼女の体の一部が凍っているせいだった。傷口を薄い氷で凍らすことで出血を止め、折れて歩けなくなった足首はふくらはぎまで凍らすことで固定し、義足として無理やり機能させていた。
 何がそこまで奏を突き動かすのか。

「いま死なれたら困るんだよ」

 それは志摩の贖罪か、神の下による裁きか。否。

「首根っこ引っつかんで、引きずってでも生きて志摩家に連れてくって、八百造さんにお願いして契約したんだ」

 契約、とは。
そのとき志摩の内側にいる夜魔徳(ヤマンタカ)が急に息を吹き返す。夜魔徳は物質を一切傷つけることなく憑依した悪魔を滅し、また生きてるものならその魂だけを焼き尽くすことができる。しかしいま志摩の中に満たされていくのは圧倒的な生気。
 契約者の身体能力の強化。生傷の治癒でなくとも、今まで指一本自力では動かせなかった志摩の手足が少しずつ動く。
 契約者が瀕死寸前だと悟った夜魔徳は、てっきり次の契約者を探すために志摩を捨てたものだと思っていたが、まだ志摩の中にいた。そして自分の体だけでなく、彼の漆黒の霧が青白い奏にも現れていた。同時に奏の歩くスピードがあがった。
所詮は仮。正規の契約者を通さず勝手に契約できるものではない。ましてや志摩家の本尊であり、本家とは全く血縁もない奏が何故。

「ま、さか、」

 非正規契約には相応以上の対価が絶対。最悪奏の命なんて、そんな小さいものではない。悪魔が要求するものに際限はない。
 夜魔徳の恩恵もあり、声が出せるようになった志摩が口を開くも奏はまたぴしゃりと、氷の槍を突き刺すようにその口を閉じるように言った。

「あたしは楔だ。志摩くんがどこまでも逃げようと決して逃れられない、逃がさない。志摩くんはあたしと一緒に一生志摩の家に縛られるんだ」

 ざまあないね、とこのとき初めて志摩のよく知っている奏の笑顔が見えた。
 最初の口づけ、契約者の血を取り込むことで一時的に志摩と血縁を持ち、無理やり仮契約を結ばせたのだ。しかしあの夜魔徳がそんなことを許すのだろうか。

――次の契約者がいなければ、暴れるに暴れられないからな

 本来長男であった矛造が受け継いでいたが、志摩や勝呂を庇って死んだ。そのとき、夜魔徳が次の契約者として選んだのは次男の柔造ではなく、五男である志摩廉造だった。この時点で夜魔徳に他の兄弟にはその資格、素質がないと見限っていた。

――おなごとはいえ、なかなか胆力がある。お前がここから脱出するまでは持つだろう。

 すると、はっと奏が嘲笑う。

「脱出までじゃない。そのあとも図太く、地を這ってでも生きてやる。それにあたしがここで死ねばそれこそ次はないぞ、大威徳明王」

 上級悪魔に対して全く引けを取らないどころか、せせら笑う。脆弱な人間に決して敵う相手ではないというのに夜魔徳を射抜く目は、殺気と狂気と恐ろしいまでの生への執着心が渦巻いていた。手負いとは思えぬほどのその目に夜魔徳は一種の快感のようなしびれが全身を走った。その痺れは契約者でもある志摩にも伝染する。ぞくぞくと鳥肌が立ち、慄く。しかしそれ以上に奏の言葉は志摩の心に形容しがたいあたたかくやわらかいものが染み渡った。満たされた心は、ともすると涙となって溢れるだろう。
 そんな悪魔を愚弄する言葉に対して、一切憤りを見せることはなかった。恐ろしく貪欲なおなごだと夜徳魔は愉快愉快と笑った。

「……ほんま、えげつないお人やんなぁ」
「ははっ、そうだね。こんな面倒な女に目付けられるなんて。でも呪うなら志摩くんの女運のなさを呪ってね」
「ほやなぁ、まさかこんなにずるくて我が儘で人一倍諦めが悪い上にバカ正直に一途で可愛い子にベタ惚れされるなんて、一生おかめさんに足向けて寝れへんわ」

 自然とこぼれ落ちた笑い声は、遠い昔に捨てたはずの想いの塊そのものだった。


※おかめ(阿亀)さん→京都、千本釈迦堂大報恩寺の『おかめ塚』。“縁結び”“夫婦円満”“子授け”にご利益があると言われています。

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