最低と最低の結末



※その他のリハビリネタ×2の三十路ネタの続きです。

 子猫丸の結婚十年目のドンチャン騒ぎは、最終的に勝呂、燐は嫁2人にそれはもうこってり絞られた。出雲は顔に、しえみは背後に般若を見せる2人を見ながら失態だらけの旦那たちは当分の間は嫁のご機嫌取りに忙しくなりそうだと奏は子猫丸と陰ながら見守りながらやっぱりどこか口の中が苦く感じた。
 東京への帰りは奏一人だった。
 志摩は実家に何か用事があるようで、一日遅れてこちらに戻るという。実家に顔を出すという志摩に最初は「じゃあ市内でどこか暇つぶしてるよ」と一緒に戻ることを提案したが、ぐっと何か堪えるように志摩はへらりと「先に帰っとってええよ」と断った。本当は志摩と一緒に彼の実家に顔を出したかったのだが、それを遠慮してのあの提案だったので結局奏がどう足掻いてもひとりで帰ることになっただろう。
京都駅内で同僚たちへのお土産を買い、途中に新大阪で東海道新幹線に乗り換えて東京へ戻った。廊下側の車窓からの風景は狂おしく走り過ぎ去っていくのをぼうっと目に映しながら奏は思う。
 昔の、高校生だった自分ならどうしていただろう。
 あの頃はたくさんの意味でがむしゃらだった。生きることに。戦うことに。守ることに。それはあたし自身のためであり、ほかの誰かのため、延いてはこの世界のため。でも本当はただひとり、志摩廉造というどうしようもない男の子のためにあたしは自分自身の命以外すべてを投げ出し戦い、守った。彼を救えた。
 でも本当にそうなのだろうか。歳を重ねるたびにそう思うことが増えた。彼はその特殊的な立場故に多方面からその責を問われた。いまは日本支部の祓魔師として働き、同棲しているが、彼にある自由は少ない。どんな制限や制約があるかは上層部と当の本人しか知らないし、それを誰かに口にすることは許されない。五体満足、日常生活も過酷な祓魔任務だってこなせるほど五体満足ではあるが、じゃあ心は?
 繰り返しになるが、あの頃はただ彼が生きているだけで嬉しくて嬉しくて、彼を救うことが出来たとあたしの心は満たされていた。でもこうして今になって本当の意味で彼を救えたのだろうか。完全に救うことなど出来ない。事実、かの戦いで亡くなった祓魔師の方々はもちろん一般人からも大勢出た。それでも彼だけは完全に救えたと思っていたのに。

「歳を取るって嫌だな」

 見て見ぬ気づかぬふりをして必死に誤魔化していた自分の心を巣食ってくる。
 物憂げな奏を乗せた新幹線はまもなく新横浜に到着するとアナウンスが流れた。



 その日はもう思い出せないほど久しぶりに志摩、奏ともにオフの日であった。深夜に帰宅した志摩を起こさないように奏は細心の注意を払ってベッドを抜け出して寝室の扉を閉めた。予めアラームはならないように設定してあったので、起きたのは10時過ぎと寝すぎたなあと奏はリビングのカーテンを開け放った。先に空に登った太陽の光が部屋を照らす。ぽかぽかというよりほあほあと気の抜けるゆるい光。彼女は植物が光合成をするようにしばらくそのお日様に当たっていた。

「あ、ご飯」

 自分の腹の虫が鳴いたことで我に返った彼女はキッチンに立つ。
 朝食には遅すぎ、昼食には早い。ブランチと誤魔化してホットケーキを焼こうとあれやこれやと材料や道具を用意する。
 慣れた手つきで生地を作っていくが、彼女の頭は全く違うことを考えていた。
 2人が同棲してもう随分と立つが、2人の関係に進展はなく、むしろ曖昧に溶けていくばかり。もしかしたらもう解ける一歩手前かも知れない。年齢的にももう身の振り方を真剣に考えなければいけないほどだ。
 ぐるぐるとお玉で生地を混ぜながら頭もぐるぐるといろんなことを考える。

 本当に志摩くんはあたしのことが好きなんだろうか。
 同棲が決まってお互い同じ鍵をもらった時の嬉しそうな顔はまだ思い出せる。けれど、どんどん白い靄がかかるように彼との思い出が不明瞭になっていく。歳を重ねるにつれて彼から好意を示す言葉が減ったのは自分の思い込みか。
 ……もしかしたら志摩くんにはもういい人ができているんじゃないのかな。
 軽薄そうに見えて実は義理堅い、というよりは中途半端に優しいせいであたしのこと切り捨てられないのでは。日頃あまり顔を合わせないことが多いとは言え、同棲という形に縛られてなかなか言い出せないのかも。彼曰く、どんなことであれ女性を悲しませるのは主義に反すると付き合ってもいない頃によく聞いた。それは別れるあたしにも該当するのだろうか。

 ホットケーキの粉と牛乳、卵がしっかり混ざり合ってクリーム色の生地を丸いお玉で掬って、予め温めていたフッ素加工のフライパンに少しもったりとしたそれを乗せれば、自然とまあるく広がっていく。じゅう、と生地に染みる音。ひっくり返すタイミングの目安になる表面を観察しながら、奏はまたも志摩との関係を考える。

 いい人がいるというのは、ただの妄想ではない。つい最近、たまたま彼の部屋に物を取りに入ったとき、そこにはダンボールがいくつか開いたり、壁に立てかけたりしてあった。その数から鑑みるにただの整理ではない。それらのダンボールには引越し業者のロゴがしっかりと記されていて、中には日用品や彼の私物が無造作に投げ込まれていた。そして思い出すこの間の京都でのやり取り。
 本当に終わりはすぐそこまで来ていたんだ。

 クリーム色の生地からぽこぽこと生まれた泡がいくつか弾けたところですっとこれまた慣れた手つきでひっくり返す。まあるい形を保ったままひっくり返った表面は綺麗なきつね色。

 悲しむ顔を見たくないと言うのであれば、あたしから言わなければ。切り出すなら、そう今日だ。あと30分程もすれば、志摩くんも起きてくる。それから一緒に最後の食卓に着いて、終わらせよう。

 ぽんとフライパンを軽く振り上げてひっくり返ったもう片面も変わらず綺麗な形と色を保っていた。

 2人分のホットケーキを焼き終え、最後のトッピングにバターを切り分けている時に寝室の扉が開いた。

「おはよう志摩くん」
「おはよ〜奏ちゃん。なんやええ匂いするなあと思ったらえらい寝てたみたいやな」

 「起こしてくれればええのに」とまだ眠気が完全に抜けきってない不抜けた声で言う。「もう少ししたら起こすつもりだったよ」と包丁にくっついたバターを自分の体温で溶けないようにそっと剥がした。

「なんか、手伝うか?」
「じゃあ冷蔵庫から牛乳とヨーグルト2人分テーブルに持って行ってくれる?」
「わかったわぁ」

 志摩が言われたとおり冷蔵庫とテーブルを往復する間に奏はホットケーキの中央にバターを乗せ、適量のシロップをかけてメインデッシュの完成だ。それを持って志摩の待つテーブルへ。ブランチには量が少ない気もするが、またお腹が減ったらそのときはその時。
 奏は先に志摩の目の前にホットケーキのお皿を置き、そのあとに自分。席について向かい合い、「いただきます」と手と声を合わせた。
 要領よく切り分けては口に入れれば、ホットケーキ本来の甘さに加えてシロップの甘さとバターの塩加減が絶妙に絡み合う。

「ひっさしぶりに奏ちゃんの手作り食べたけど、やっぱり何作っても美味しいわぁ」
「ありがとう」

 志摩の言葉を信じていないわけではないが、奏はそれを正面から受け止めることなくホットケーキを切り分けながらお礼を返した。ただ今の彼女には、お世辞というより慰めのように聞こえ、そう感じてしまった自分に惨めだなと切り分けたそれを少し歪んだ口に放り込んだ。それでも不思議と予想していた苦味はなく、普通に美味しいと奏はそのまま食べる手を進めた。
 それからお互い当たり障りのない会話をしながらほぼ同じタイミングで食べ終わった。最中はお互い1人のときに起きた面白おかしい話に花を咲かせ、まるで昔に戻ったようだ、このまま優しい時間が続けばいいのに。奏は思わずにはいられなかった。
 いざ食べ終わると、その優しい魔法はあっさり解け、奏は自分から切り出さねばならない現実とまた向き合うことになる。自ら別れを切り出す腹は、席に座った時に決まっていたのに今更になって怖気づいていることに気づく。

 切り替えよう。

 そう思ってもう一度心の準備をしようと、お皿を下げることで時間稼ぎを試みた。ところが、意外にも志摩が「なぁ、ちょぉっと話せぇへん?」と言い出した。虚を突かれた奏は少し腰を浮かせたまま止まってしまった。驚きのあまり小さく開いた口から音が漏れることはなかった。

「俺らの今後について」

 なあ、奏ちゃん? と呼ぶことで志摩はこの場に彼女を縫い止めた。「いいよ」とするりと出てきた自分の答えに奏自身少し驚く。中途半端に浮いていた腰を静かに下ろし、再び志摩と向き合う。
 向き合った志摩は笑っている。もう十何年も見てきた表情。でもいつもその裏にあるものに何があるのかわからなかった。気づいたところで既に遅いことばかり。それでも奏は人懐っこいような、或いは胡散臭いような笑みが好きだった。

 でももう終わるんだ。

 結局志摩に言わせてしまうことに最後の最後まで意気地なしだった自分に奏は自己嫌悪する。その一方で、志摩のその笑みには高校のときにはうっすらとしか見えなかった目尻の皺が深くなってることに気づく。それだけ志摩も奏も歳を取り、それに気づくほど奏は志摩の近くにいたんだなと彼女は心の中で小さく笑った。彼女は、彼が本当に笑ってる時にだけできる目尻の皺が特別好きだった。

 ところが再び同じ席について向き合うも志摩はなかなかその口を開こうとしなかった。いつもはすらすらと嘘か真かわからない話を黙れと言っても止まらないお喋りな口が一文字に結ばれたまま。
 志摩が話そうと言った手前、奏は彼からの言葉を待つつもりだった。志摩の口は薄く開いてもすぐに閉じたりを繰り返し、やはり自分から言うべきだと思った奏はこれで最後になるだろう彼の名前を口にした。

「え?」

 きょとんという擬音語がそのテーブルに落ちてきた。
 お互いがお互いの名前を呼ぶタイミングがぴたりと重なり、さらにそのことに驚きの一文字すら綺麗に揃った。二人してぱちくりと目を瞬かせる。今までこんなことがあると、決まって志摩が「お先どぉぞ」と譲る。
 またタイミングを逃すか。

「奏ちゃん」

 この時ばかりは志摩は譲らなかった。

「ごめんな、悪いけど今回だけは俺に言わさして」

 言い方は弱々しいのに表情はいつになく堅くて、柔和な印象を与える垂れた目は真正面から奏を捉える。その目に奏はじりっと後ろに退きたくなるのをこらえ、覚悟を決めて彼の目を見つめ返す。どうせ言うこと言われることに差異はないのだからと思いながら。
 すると志摩はどこに用意していたのか、大きな茶封筒を黙って取り出した。そして壊れ物を扱うように茶封筒から何か書類を取り出す。見やすいように書面を彼女に向かせてテーブルの中央にそれを置いた。
 ちらりとその紙を流し見して志摩を見る。彼はやはり柔和な笑みを浮かべながら無言を貫く。その代わり目は、奏に早くその書類見て欲しいと語っていた。
 別れ話かと思えば違うようで、心の中で首を傾げつつ、奏はようやくその紙に意識して見た。

「……はっ!? えっ、なにこ──」

 その続きは驚きのあまりきゅうりを見た猫のように仰け反った奏がバランスを崩し、ガタガタッと背もたれから倒れる音で途切れた。

「奏ちゃん!?」

 幸い、仕事柄これぐらいなら受身を取ることは容易だったので怪我はしなかった。しかし奏が椅子ごと倒れたことにこの時初めて志摩の曖昧な笑みだったり、堅い表情が崩れた。
同じく椅子を倒しながら志摩が奏に「大丈夫か!? 怪我とかあらへん?」と駆け寄る。

「どこか捻ったとかぶつけたはないんだけど……腰が、抜けちゃったみたいで」

 立ち上がろうにも自力では全く動けない。
 あはっと彼女自身でもよくわからない短い笑いは恐らく心配する志摩への配慮だったのかもしれない。

「ふっ、」

 短く切れた息から志摩のくつくつと体を震わせて笑い始めた。片手でお腹を抑えながら必死に笑い声を堪える。それでも漏れてくる笑いに呆然としていた奏の羞恥心に火がつく。

「ちょっと何笑ってるの!?」
「いや、だってまさか腰抜けるなんてねぇ。そんなん笑うに決まっとるわ」
「誰のせいだと思って!!」

 もう堪えることをやめた志摩の笑い声に奏の恥ずかしさと怒りを含んだ声が部屋を埋め尽くす。
 奏がなんてことだと思ったのと同時に志摩の笑いはようやく止まった。腰が抜けて動けない彼女の目線を合わせるようにしゃがみこむと「で?」とあざとく首をかしげた。三十路前の男性とは思えないほど純粋な目で答えをせがむ。

「で? って言われてもさ、毎度のことだけど今度は何企んでるの?」
「いややわぁ。別になんも謀ってへんで」
「それにしてもこれは随分笑えない冗談だね」
「そう思うやろ? ところがどっこい、ほんまに本気の本物なんやなぁ」

 すっかりテーブルの放置されているのは無色で飾り気もない婚姻届。志摩に関するの記入欄はもちろん、彼女が物心つく前に死別した両親の名前まできっちりと書かれていた。
驚くのはこれだけではない。その婚姻届の証人欄には既に志摩と奏とは長い付き合いの2人の署名。奥村雪男。最條綴の印鑑までくっきりと朱色が捺されていた。

「いつの間に……」

 いくらか落ち着いたものの動揺を隠せない奏に志摩はいつものようにお喋りな口を開いた。

「いやな、書類自体はそこそこ前に出来とってん。奏ちゃんのご両親の名前についてはまあ勝手に調べさしてもろたけど……。
肝心の俺がな、ええっと、そう、恥ずかしながらなかなか言い出せへんままでな。そないぐずぐずしとったら金兄ぃに呼び出されて──あ、こないだ小猫さんの祝いで京都行ったやろ? あの帰りに実家に呼び出されたと思たら一家総出で詰られてん。
 よってたかって家族みぃーんなで俺のこと苛めるんや。『意気地なし』だの『腑抜け』だの『ヘタレ』だのもう言いたい放題。んで、これの何が質が悪いかって、うちのおかんや蝮姉さんや盾姉ぇ、弓の女性陣の“お小言”がほんま容赦なくて、そりゃあもう恐ろしゅうて恐ろしゅうて。最後は流石に哀れに思ったそれぞれ旦那はんたちが何とか引き上げてくれたわぁ。もしあのとき誰も止めてくれへんかったら正直いまここにおらへんやろうなぁ」

 本当によく回る口だ。話はさらに続いて、実はあの飲み会の時も酔っ払った勝呂や燐に散々言われたらしい。その翌日の出来事なのだからそれは誰だって参るものだ。

「喧しいわ!! 俺には俺の思うタイミングがあるんや!! ってちょっと言い返したけど、さすがの俺もあの人数の女性を相手にするには無理や。自分で火ぃに油どころかガソリンぶち巻く羽目になったけど、おかげで俺の腹も決まった。しょぉーじき気に食わない決まり方やけど、しゃーないわ」

 ふぅと一息つくと、これまたどこに隠していたのか、黒の天鵞絨が慎ましくも綺麗な艶のある小箱を取り出す。一目見ればその中身は開けなくても誰もがわかる。

「……待って」

 静かに志摩に言う。その小箱から目を見まいと下を向く。志摩は言われたとおり開けようとした手を止めて「どないした?」と優しい声で聞く。

「最近、『任務や!』とか言ってここには戻らずあっちこっち行ってたのは何で?」
「奏ちゃんのご両親のお名前やったり、一緒に眠ってはるところ。それから奏ちゃんが育った施設を調べたりしてたんや。それでひと足お先にご挨拶しに行っとったんや」
「そ、それだったらあの時あたしも行ったほうが都合よかったのに」
「確かに俺が先に奏ちゃんのご両親にご挨拶したけど、もし一緒やったら野次馬どもの餌になってまうさかいなぁ。周りにはやし立てられて、なんて嫌やろ?」
「……他にも控えの方がいるのに率先して危険な祓魔任務に就いてたのは?」
「んーと、そのお人よりかは俺のほうが適任やと思って別の任務に就いてもらっただけや。ほら、詠唱騎士は攻め込まれるときついやろ? ほんなら一応騎士の称号もある俺がおったら周りも安心するし。まあ本音を言うと、偵察とかよりもそっちのほうが稼ぎええしな」
「……部屋の、ダンボール」
「い、今さっきの話にも通じるんやけど、どうせならこないなちぃさいマンションじゃなくてちょっと中心部から離れるけど、ゆっくりできる一軒家が欲しくて……。それに向けて早う準備しとこ思ってな」

 繰り返される質疑応答はどんどん小さくなっていく。
 志摩は自分でも先走りすぎているという自覚はあった。しかしそれは奏が自分と同じ気持ちであると思っていたから。出来る限りのことは自分がしようと志摩が色々と手を回したのは、まだ馬鹿の青二才だった昔の自分にあれこれと奏が世話を焼きてくれたこと。その馬鹿の所業に対してまだ彼女に対して少し引け目を感じていることもある。でもそれを口にすれば最後、禁句だとこの歳になればそのぐらいの分別はつくようになった。
 でもやっぱり先走りすぎたかなぁと背中から嫌な汗がにじみ始めるのと同時にぽたっとフローリングに水が落ちた。俯いた奏の下に涙の跡がひとつ、ふたつと増えていく。

「本当はあたしになんか愛想つかして、他にいい人が出来たからその人のところに行こうとしてるなんて考えて。でも志摩くん、根は優しい人だって知ってるから、自分から別れ話を切り出すのが心苦しいのかなって思ってさっきあたしから切り出そうとしてたんだ。
 ごめんね、志摩くんはあたしのこと信じてくれたのに。信じてここまでしてくれたのに。肝心のあたしは昔のように君のこと信じれなかった。信じきれなくて、疑ってばっかりで、最低だ」

 必死に嗚咽を殺しながらもこぼれ落ち続ける涙は、点と点が繋がり小さな水たまりとなる。そして繋がり広がって小さな海へ至る。
 志摩は色々準備を進める一方で、何故肝心の奏のことを気にしてやれなかったのだろうと心臓がねじ切れそうなほど苦しみ、後悔した。しかしそれと同じぐらい志摩の心は幸せで満ち足りていた。そうして「最低やなぁ」と淡々と広がる海を見つめた。

「そんなん最低やん。俺ばっか先走ってさ、信じてるから、なんて言葉で自己中な自分を正当化して、一番大切な本人を蚊帳の外に放して。最低やんなぁ。ほんま最低やわ」

 そう言って志摩は両手でそっと奏の右手を包む。冷え性な指は年頃の女性と思えないほど荒れている。本来ならその手にふさわしい色で染まるはずの爪はひびがあれば、欠けてるものもあり、負傷と回復を何度も繰り返したせいで爪そのものの形が変わってる歪なものまである。手のひらは乾燥している。手騎士で悪魔を使役しながら鍵のような変わった鈍器を振り回す騎士には避けられない肉刺が重なって分厚く凸凹しているそれは女性よりも男性に近い。

「目には目をって言うやろ?」

 綺麗なネイルにしっかりと手入れされた柔らかい手が女性の理想だが、志摩は何よりもこのちぐはぐな彼女の手を選んだ。
 だったら、

「最低には最低が一番お似合いやと思わへん?」

 ようやく顔を上げた奏は、志摩が自分と同じ酷い顔をしていることに気づく。彼女は行き場を失っていた左手を自分の右手を覆っている志摩の手に添える。志摩の大きな手がぎゅうと力を込めれば、奏も黙って握り返した。
 彼女は何か口にしようとしたが、嗚咽のせいで言葉にはならなかった。でも志摩は彼女が何を言おうとしたか、なんとなく察して「ええんや。俺も大概や」と答えた。

「奏ちゃん、好きです。お慕いしてます」

 俺と、結婚してください。

 涙で震える情けないプロポーズは、不意に伸びて抱きついてきた彼女の両腕が答えを強く返した。

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