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 今日はよく他人に迷惑をかけるなぁ……。

 休日のショッピングモールにしてはひと気の少ない場所で識は体調と自己嫌悪からくる気持ち悪さに項垂れていた。識たちが入ってきたのが正面だとすればその裏に当たる位置にいる。
 夕飯のときに翌日の予定はもう決まっていた。休日は死ぬほど寝る識は、そうならば今夜はさっさと寝てしまおうと10時すぎにはベッドで寝息をたてていた。しかし夜中に一度目が覚めてしまった。再び寝付いたのは有梨が起こしに来る一時間ほど前だった。
 裏口からまばらに入ってくる客の足音が遠くなっていく中でひとつだけ彼女の方へ足早に向かってくる。下に固定されたままの視界にこげ茶のローファーが入ってきた。

「大丈夫?」

 真っ青な顔をあげると、さらさらと明るい茶が流れた。斜めに切り揃えられた髪はCMにも出れそうなほどさらさらと美しく、その髪に劣らず顔もスッとした鼻筋など整っている。まさに美少年な彼は滝萩之介と名乗った。真上から降り注ぐ照明のせいもあるが、頭がくらくらする識は刺激が強い。
 差し出されたペットボトルに、蚊の鳴くように「ありがとうございます」と一緒に受け取った。

「本当に大丈夫なの?」
「しばらく安静にしていれば大丈夫です」
「そうは見えないけど」

 自動販売機から産み落とされたばかりのペットボトルは冷たい。身体も冷えていたが澄んだ冷気に触れると虚ろだった頭が少し冴えてくる。自力で蓋を開けて口に含めば、急に流れ込んできた冷たいものに身体が驚くも気持ち悪さが和らぐ。そのままちびちびと三分の一ほど減ったところで気持ち悪さはほとんど消えてようやくしゃべれるようになる。

「ありがとうございました」飲料代を差し出すと、滝は「いいよ気にしないで。回復したようでよかったよ」とやんわり返される。

「そういうわけにはいきません。感謝の気持ちをお金で払う、というのは本当は気分がいいものではありませんが……それでも」

 これはただの貸し借りの問題ではない。それは誠実でありたいと識の目が語っていた。いかに顔が青白くとも言葉通り真っ直ぐ見つめるそれに滝は静かに息を呑む。しかし彼にもある事情があり、元はといえばそれが――

「まーまーいいじゃん」

 今度はゆるゆるとした声とふわふわとした金髪が視界に光った。
 そういえばともうひとりの存在を忘れていた識は驚き、滝は大元にため息をついた。

「慈郎……元はといえば、きみが彼女にぶつかったのが原因じゃなかったかい」
「うっ、それについてはホントに申し訳ないと思ってるC……ごめんなさい……」
「わたしのほうこそ注意不足で芥川さんだけが悪いわけじゃ――」

 本日二度目の衝突事故。
 途中、一時間前の出来事を思い出し、ほのかに気持ち悪さがせり上がってくる。言葉尻は自然とフェードアウトしていった。
 識にすっかり存在を忘れられていたのは芥川慈郎。滝と同じ部活で、今日はその関係でここに来ていた。最初はほかのメンバーといたらしいが、気が付くと芥川の姿が消えていた。普段から彼には放浪癖があり、猫のように少し丸まった背中は常に眠気がぴったりと張り付いている。芥川と幼稚園の頃から付き合いのある幼馴染たちは「今更」「いつものことだろ」といなくなった彼を好き勝手にさせておけばいいと言ったが、滝はそうもいられず探しに行くと別れた。

「でも芥川さんのおかげでショッピングモールのど真ん中で倒れる最悪の事態は免れたので」
「そうは言ってもねえ……」

 眠気で足元がおぼつかない芥川が識にうっかりぶつかった。と言っても軽く触れ合う程度で、関西弁の男性にぶつかったときに比べれば何ともない。しかしその時よりあきらかに憔悴していた識にはその程度でもがくんと全身の力が抜けた。彼女自身「嘘でしょ!?」と驚きの憔悴っぷりだった。
 彼女の異変に一気に覚醒した芥川が間一髪体を支え、しかしこのあとどうすればいいかおろおろしていたところ滝が現れたのだ。滝が芥川にあまり強く言わないのは、まず識を休ませることが第一で、識と同じぐらい真っ青な顔をして滝に助けを乞う芥川にそう接するのはあまりに可哀想だと思ったから。

「でもでもっ! 滝の気持ちもわかるけど、やっぱり識ちゃんの気持ちも大事にするべきだと思う」

 突然の名前+ちゃん付けにぎょっとするもせっかくの追い風を無駄にするわけにはいかない。
 滝は静かに手を挙げ、「わかったよ」と折れた。



「いやホントすみませんでしたァ!!」

 向日の仲介もあって有梨の失言騒動は何とか収まった。悪意のあった言葉ではなく、きっちり頭を下げて謝る姿に宍戸の青筋も鎮まった。真摯な謝罪を受けて怒りを収めないほど器の小さい男ではない。彼の言葉で言うなら「激ダサ」。とりあえずこの件は一件落着と相成った。

「ほらよ」
「え?」

 宍戸が有梨に向かってひょいっと投げ、反射的に受け取った。

「お前も欲しかったんだろ?」

 恐る恐る開いた両手の中にはあのグリップテープ。「お前も欲しかったんだろ?」と宍戸が白い歯を見せて健康的に笑った。
 まったくの善意だった。けれど有梨には悪夢の素にしか見えず、また先ほどの幻聴がより濃く、さらに脳裏には先ほどの宍戸の笑顔に映像が重なった。

「う、あ」

 急に足元がぐらつく。駆け抜けるように泡立つ肌。脳が揺さぶられる感覚。そしてだんだん焦点がぶれ始め、漏れた音が叫びに繋がりそうになるのを有梨は歯が砕け散るほど強く噛み締めることでなんとか堪えた。

「どうかしたか?」と心配そうに向日が覗き込んでくる。
「いや何でもないっすよ?」
「なんでもあらへんってやつがそないな青い顔するもんなんか?」

 手のひらのグリップテープに影が落ち、恐怖に巻き付かれていた有梨の身体が今度はまったく違う驚きにびくりと反応した。有梨の顔があがるよりも先に向日がその声に「遅い!」と尖る。

「侑士、いま何時だと思ってんだよ!」
「すまんなぁ。ちょっと迷ってしもて」
「集合時間守れねえとは激ダサだぜ」
「ちょっ、堪忍してや」

 向日たちは、独特な柔らかさを持つ大阪弁の新顔に小突いたりしながら彼ら本来の会話をかわしていた。
 有梨は、この大阪弁も向日たちと同じ部活なんだろうと思うのと同時に、ようやく『本当に男子テニスなんだな』と数秒前までうなされていたのが嘘のようにそう実感した。

「で、ほんま大丈夫なんか」
「おかげさまで。まあ、大丈夫っすよ」

 若干胡散臭さを感じる容貌に警戒心が残るも、異変に気づき、悪夢から戻してくれたことに感謝する。彼は彼で有梨の顔色が戻ったのを見ると、「ならよかったわ」と。

「しっかしよ、ジロー探しに行った滝はまだ帰ってこねえのかよ」
「ん? 先に滝も来とったんか?」
「おう、宍戸と合流する前に。ジローも一緒だったんだけど、そのジローがどっか行っちまったからそれ探しに」
「そうなん? トイレにでも行ってるもんやと思ったわ」
「くそくそっ」
「ってことは、もしかして岳人が一番だったのか!?」
「へへっ、まあな!」
「へ〜迷子だったくせによく胸張って言えますね〜」
「ちょっ、有梨余計なこというんじゃねえよ!!」
「わ〜すんません〜」

 今まで『つい口がすべって』だったが、今回はわざとすべらせた。かっこよく決めたかったもちろん向日は怒るし、真相を知った宍戸は「激ダサだな」と鼻で笑う。恐らく向日が迷子のままだったなら一番乗りは宍戸だっただろう。

「噂をすれば滝からメッセージが来たで」
「どうだって?」

 向日が忍足の携帯を覗き込もうとする。身長からしてまず見えないのを忍足は見やすいようにやや向日のほうに画面を傾けた。それに対して向日はむっと少し眉を寄せ、無言で彼を小突いた。
 識に似たようなことをされたことのある有梨はその気持ちはよくわかると言わんばかりにしみじみ首を振った。

「なんか具合悪そうな子がおるらしいんやけど、友人とフードコートで待ち合わせしとるから送ってから来るんやて」

 そういえば、と有梨も識とフードコートでの約束を思い出す。時間を確認すれば、ちょうどいい。

「んじゃ、オレも一緒に来てるやつとフードコートで待ち合わせしてるんでこれで失礼しやすね〜」

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