いつか、彼方 | ナノ
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優しくて残酷なきみ



西に向かえばすぐ左手に体育館の正面出入り口がある。
数段を降りて校舎と繋がる短い渡り廊下を左に外れると少し広いスペースになっている。その右手奥に生徒用昇降口があるが休日は施錠されている。そちらには向かわず更に南側のもう一棟の校舎の脇に添って進むと右手側が広く開けていて中央に植え込みのあるロータリーが現れた。
何かに急かされるように小走りになまえを捜しながら、じりじりと照りつける太陽の下、額に汗が滲んでくる。
ロータリーは全棟南に向かって建つこの学校の正面玄関の前にあり、教職員の出入りはここからであるが無論こちらも施錠がされていた。休日に校舎内に入る事は基本的に出来ない筈だ。更に先へ進めば校門へと続くなだらかな下り坂の右手は校庭であるが、ギャラリーとなっている部分も含め広いそこに人影は見えない。
つい先刻自分が歩いて来たばかりの道を逆戻りする形で俺はなまえの姿を探したが、彼女は何処にも見えなかった。
擦れ違いようもないこの道でなまえはいったいどこに消えたのか。それともあれはなまえではなかったのだろうか。俺は途方に暮れた。
時計を見ればもう正午になる。
ロータリーの前から坂を見下ろしながら諦めかけた時ふと思い当たることがあった。
言うまでもなく校門も施錠されている。それは当然今もだ。正直に言えば俺はあの鉄門を乗り越えて今日校内に侵入したのであるが、考えてみれば女性であるなまえが人の背丈ほどあるあの門を超えるのは些か無理があるように思えた。
だが平日ならばともかくこのような休日にわざわざ出向いてきて、猫に餌を与えようと考える人間がそう大勢いるとも考えられない。
俺はその時もう一つ別のことに気づく。
やはりなまえなのだ。あれはきっとなまえに違いないのだ。彼女しか考えられない。
確信した俺は踵を返し今来た道を急ぎ足で再び戻り先ほどの渡り廊下を通過した。入学して二年半近くになるがこの先に足を踏み入れるのは初めてのことである。
右側は現在体育館の裏手からずっとセイタカアワダチソウの群生地帯となっているが、それは歪んだネットフェンスで仕切られていた。少なくとも十年以上は前からそのままそこにあるのであろう、緑色が褪せて変色し中の錆びた鉄が剥き出しになったネットフェンスは割けて、あちこちに開いた穴はどう見ても猫の出入りに好都合である。フェンスのこちら側は辛うじて人が通れる程度の幅の小道となっていた。
小道を数歩進めばすぐその先に。
ああ、やはりそうだったのか。
俺は半袖シャツの袖でぐいと額を拭って吐息を漏らした。
腰ほどの高さの赤茶色に錆びた鉄製の古びた門がそこにある。そして今しもそれを超えようと手をかけている女性の姿があった。
陽に透けるような明るい色の髪を陽光に煌めかせて、シンプルな生成りのTシャツに鮮やかなブルーの踝丈のパンツ姿。左手首にコンビニの袋をかけている。
俺は何とも言えない不思議な安堵感と若干呆れた気持ちとの綯い交ぜになった溜息をつく。

「危ないだろう」
「え、え? わ、わ……っ」
「なまえっ」
「わわ、ちょ……落ちる……っ!」

バランスを崩して向こう側に落ちそうな身体に咄嗟に掛け寄り抱き留める。
彼女にしてみれば鉄の横棒を両手で掴み次に片足をかけようとしたところで、酷く唐突に背後から聞こえた声に心底驚いたのであろう。
俺の胸に背を預けた体勢のままおそるおそる振り向いたなまえは目を見開いた。

「斎藤……くん……?」
「あんたは人を驚かせる趣味でもあるのか」
「どうして……」

平日でも登校時間を過ぎれば表の正門は施錠がされる。俺は始業チャイムに遅れたことがこれまでになかった故失念していたが、遅刻する生徒の中には申告するのを嫌がる者がおり、彼らが目を盗んで稀に出入りする裏門があったということを知識としては知っていた。
なまえならかつてここを使ったことがあるのではないだろうかというのは単なる勘だったが、強ち外れてはいなかったようだ。やはりこの人は猫属性の人間なのだなと思う。
まるで猫がネットフェンスの穴を潜るのと同じようにここから侵入してきたとは。
だがこれが成人した女性のすることかと考えればかなり常軌を逸していると言える。俺は見返してくるなまえの琥珀色の大きな瞳を見つめているうちに、腹の底から何とも形容しがたい可笑しさが込み上げてくるのを感じた。目を丸くしていたなまえの瞳も柔らかく緩んでいく。

「……そういう顔もするんだね」
「え?」
「とりあえず、離してくれるかな」
「あ、ああ……」

彼女が状況を把握して落ち着きを取り戻せば直ぐ様立場は逆転し、頭に血を上らせるのは俺の方だった。無自覚になまえの肩に回したままであった両手と、あれ以来再び間近で見るなまえの顔に今更ながら動揺し、手を離して慌てて身体を引く。
俺に身を預けたままで急に手を離された為なまえが尻餅をついた。

「ちょ……っ、だからって急に離さないで」
「す、すまないっ」
「そんな顔も初めて見たな」

一日で一番高い所にある太陽が容赦なく照りつけている。だがこれは気温のせいなどではない。俺はとんでもなく熱を持った身体と火を噴いたような顔面をどうしてよいか解らない。
なまえは俺の足元に座り込んだまま悪戯な笑みを浮かべると「可愛い」と笑った。「か、可愛いとは……っ」と反論しかけるもますます全身に回る熱に俺は口ごもり顔を叛ける。

「ごめん、また怒らせた?」
「……別に」
「ごめんね。もう一度手を貸して、お願い」

彼女に目を戻せば伸ばされるその手をその表情を、そしてこの瞬間をやはりたまらなく愛おしく感じる。
そうだ、その笑顔を俺は見たかったのだ。
乞われるままに差し伸べた手で彼女の手首を掴めば彼女が俺の手首を掴みかえす。
勢いよく起き上がった彼女は「ありがとう」と言って、また花が咲き開くような綺麗な笑顔を見せた。

「無表情だと思ってたけどそんなことないんだ?」
「あんたの方こそ最初は真面目そうに見えたが」
「わたし、基本的には真面目なんだけどね……」
「学校はあんたにとって無法地帯か」
「面目ないです、ほんとに」

先日のことと言い今日のことと言い、凡人の俺にしてみれば意表を突いた行動ばかりを取るなまえは、小さく舌を出して悪びれなく笑った。
初めて見たのは朝の登校時、颯爽と歩く後姿。
そして次に体育館の檀上で少しハスキーなよく通る声で自己紹介をした時の凛とした姿。
だが素顔のなまえは教師然としてはおらず、気まぐれな猫のように自由で何物にも縛られないように見えた。そして俺自身もそのような彼女に対しては恐らく、他の人間にあまり見せたことのない顔をしているのだろう。
先程彼女が言ったそういう顔とは実際にはどういう顔のことだろうか。俺はなまえの前でどのような顔をしているのだろうか。

「だが、」
「うん」
「そういうあんたを見るのは、その……、」
「うん?」
「嫌いでは、ない。故にこの事も……その、誰にも言わぬ」

なまえはまた少しだけ目を見開いてそれから小さく笑った。俺が本当に望む言葉など一つも返っては来なかったが今はそれでも構わなかった。
やっと巡ってきた機会である。今日こそジーンズのポケットの中の物を彼女に返さねばならぬと思うが、何と言って切り出したらいいのかと逡巡する。
今となって考えてみれば返す機会などいくらでもあったのだ。なんとなれば女子に頼むのでもよかったであろうし、平助でも総司に託けることだって出来たのだ。
そうしなかったのは恐らく俺自身がこの青い花を手放したくなかったのだと、今更そう自覚して不意に羞恥を覚えた。
言葉を発することが出来ずにいる俺の先に立ち、なまえが再び校舎に向かって歩き出す。

「平日の休み時間はやっぱり時間が取れなくて。まさか斎藤君が同じことを考えてたなんて思わなかった」

振り向くなまえの笑顔は嬉しげに見えた。二人で取って返した体育館の裏に、満腹になったのであろう猫はもう現れなかった。

「斎藤君のは明日の分のご飯てことでいいかな」

先ほどの食べ残しの皿を回収し持参したらしい小さな袋を取り出して纏めてしまうと「ここは涼しいね」と言いながらなまえはまだ帰ろうとはせずにコンクリートの狭い段差に腰掛けた。
藪を覗き中腰になっていた俺が振り返れば目の前に伸ばされた、ブルーのパンツから伸びる白いサンダル履きの足首が眩しかった。目のやり場に困り立ち上がればなまえが俺を見上げる。

「もう帰る?」
「あ、あんたはどうするのだ」
「斎藤君、忘れてるでしょう? わたしはあんたじゃなくて、ね?」
「……なまえ、先生は、」

満足げににっこりと微笑んだなまえが持っていたコンビニ袋の持ち手を広げ、中身を俺の方に向けた。覗き見れば握り飯が二つほど入っている。

「猫ちゃんのと一緒に自分のも買ってきたけど、忍び込んでるから何となく心細くなっちゃって。やっぱり帰ろうと思ってたとこで斎藤君と会ったの」
「そうか」
「よかったら食べない?」
「こ、ここでか? 心細くなったのではないのか」
「だって二人なら、ね。共犯者」
「……言っていることの辻褄が合わん」

俺はふと思い出して眉を寄せた。生徒に近づいてはいけないと、俺と共に居るのはよくないのだと、あんたは言ったではないか。今日のことも共犯と言えばそうだが、生徒である俺と教育実習生である彼女とでは事が公になった場合の処遇は違うものになるだろう。
そして嫌でも思い出されてくるのはあの日のなまえの姿だ。土方先生に頭を撫でられていたあの時のことだ。僅かの間忘れていた胸の棘がちくりと疼いた。

「土方先生に……知れたら」
「うん、バレたらクビになっちゃうかな、やっぱり」

考えてみれば結局俺はなまえにとって好ましくない場面にばかり居合わせている気がする。
どうしたの? とでも言うように小首を傾げた彼女が、俺に差し出した三角形のコンビニおにぎりは表面に“鮭”と書かれていた。無意識に受け取りながら俺の口から己でも思いがけない言葉が漏れる。

「……土方先生を、好いているのだろうか、なまえ、先生は」
「え……?」
「あ、いや……、」
「土方先生のことはもちろん好きだよ。担任だったんだもの。随分お世話になったし」
「担任?」

一瞬だけ訳の分からない顔をしたがなまえは事もなげに答えた。細い指先でフィルムを器用に剥がして、パリパリとした海苔を正三角形の米の塊に巻き付けながらくすりと笑う。

「三年の時ね、土方先生は新任だったんだ。怒ると怖いけど面倒見がいいよね、あの先生。斎藤君は苦手?」
「……そういうわけでは、」

担任だったという事には少し驚いたが、今の場合俺はそういう意味で聞いているのではない。
絶妙に論点をずらされ肩すかしを食ったような気がするが、これ以上追求することもできず彼女の手をじっと見つめていた。ふと顔を上げ俺の顔を見たなまえは「あれ、こっちの方がよかった?」と小さく首を傾げて、手にある出来上がった方の握り飯を差し出す。

「は?」
「こっちはタラコだよ」
「タラコ……?」

口許に近づけられたそれを見て面食らう。俺は持っていた鮭を彼女の足元のコンビニ袋の上に置き、再三発火する顔を叛けた。
彼女のする全てが意図したものなのかそうでないのか俺には全く掴めないのだ。距離を置かれていたかと思えばこうして無邪気に笑って意表を突いた行動に出る。まるで気まぐれな猫のように。

「い、いらん」
「そう? タラコも鮭も嫌い?」

あんたが俺の存在を迷惑だと思ったとしても、それでも俺は。
あんたが俺を、もしも……

「……嫌いだとしても、」
「ごめん、おにぎりは嫌いかぁ」
「違う。あんたが俺を……」
「え? 斎藤君を? わたし、嫌いなんて言ってないよ、一度も」
「…………、」
「ただ大人になるとね、そう簡単になんでも口には出せないものなんだよ」
「なんの話をしている?」
「斎藤君のことだよ」

手に持ったタラコの握り飯を見つめながら、なまえはまるで天気の話でもするかのようにのんびりした口調で言った。限りなく澄んだ遠くを見るような瞳で見上げると悲しいほどに綺麗に笑う。
あんたが何を感じ何を思っているのか俺には全く解らない。

「言わないんじゃなくて、言えない事がたくさんあるの。大人には」

そうしてまた同じことの繰り返しだ。遠まわしなわかりにくい言い方で俺を煙に巻く。
嫌いとは確かに言っていないが好きだとも言っていないだろう? 共に居ることを楽しいとも迷惑だとも、つまりなまえは本心を何も言ってくれないのだ。そして俺も未だに何一つ彼女に告げていない。
やはり彼女には何もかもを見通されているのか?
その上で“大人”という単語を選ぶのは俺を拒む為なのだろうか。
引き寄せたいのかそれとも遠ざけたいのか。絶妙に距離のある話し方が俺の心を挫けさせる。
彼女の遠回しの言葉では真の意味は一向に解らない。彼女はいつも優しく笑ってはいるが、その本心を欠片も俺に見せてはくれない。
俺は想いを告げることすら許されないのだろうか。
だがこのまま抑えていけるのだろうか。すぐに忘れることが出来るのだろうか。
全てが偶然なのだとしても、こうして過ごす短い時間が少しずつ積み重なり降り積もってゆく毎に、心の底からせり上がって今にも堰を切りそうな想いを、俺はどこまで押し込めておけるのだろうか。
立場が違いすぎる。それ故彼女の負担になってはいけないなど、それは俺にも嫌と言うほど解っている。 感情が真っ二つに割れ、俺の中で苦しいほどにせめぎ合う。

「斎藤君は純粋だから、このまま変わらずに真っ直ぐに進んでくれたらいいなって、思うよ」
「そんな言葉は聞きたくない」

不意に立ち上がれば微かに表情を動かしなまえが俺を見上げた。その瞳に浮かぶものをやはり読み取る事など出来ぬのだ。
取ってつけた様に大人ぶった教師の顔をして残酷な事を言うな。
それだから。
あんたがそんなふうだから俺はこれ以上何も言えなくなってしまうのだ。
ジーンズにある青い花に触れるのは最早癖のようになっている。これをあんたの手に返すただそれだけのことも、もう俺には出来ない。


This story is to be continued.

優しくて残酷なきみ



MATERIAL: web*citron

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