いつか、彼方 | ナノ
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初恋と言う名の困惑



右手に持っていた茶碗が空になっているのも気づかずに上の空でいた俺はふいに現実に戻される。
目の前に母親の手があった。テーブルの上に並んだ俺の分の皿の上は大半残ったままだ。

「どうしたの、一。ご飯お代わりは?」
「……もう、いい」
「あんまり食べてないじゃない。体調でも悪いの?」
「なんともない」

箸を置けば母親は意外そうな顔をした。本来俺はよく食べる方である。
思考の迷路をどれほど彷徨おうと一日生活すれば腹が減る。しかし無意識に腹に詰め込んだ茶碗の飯は食べた気がしなかった。腹が減っていることと食欲とは別物なのだなとぼんやり考える。
今も頭にあるのはなまえのことだ。
この一週間ずっとだった。正直に言えば勉強にもあまり身が入っていなかった。これから全統記述模試と駿台の記述を控えている。今更慌てたところでどうなるものでもないが、そうのんびり構えていられるわけもない。

「お風呂、入っちゃって。今夜、久子が帰ってくるのよ」
「久子が?」
「夏休みはあの子、彼氏と旅行だなんだってろくに寄り付かなかったでしょ」

言われてよく見るとテーブルに載っている皿数がいつもよりも多かった。
大学の近くで独り暮らしをしている姉は受験生のいる家は煙たいと、今年の夏は盆の間以外殆ど帰って来なかった。このような特に何もない週末にどういう風の吹き回しなのか。
母親は久しぶりの娘の帰宅で嬉し気にしている。俺はあのやかましい姉と顔を合わせることを考えると些か憂鬱な気持ちになった。
姉は大学の四年である。ということはなまえと同い年ということになるのか。押しが強く派手な性格の姉となまえとでは同じ学生でも随分違うと思った。縁故で既に就職も決まっている姉には社会人の恋人もいた。
ラバトリーに向かい浴室のパネルドアを開く。湯の張られた風呂から立ち昇る湯気で薄っすらと曇った縦に長い防湿鏡は、裸の俺のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせた。
忘れようとしても忘れられない光景がまざまざと頭に甦る。土方先生の研究室の前での事だ。
向かい合う二人からは親密な雰囲気を感じた。
だからと言って二人が特別な関係にあるとは限らぬではないか。考え過ぎるあまりに穿って見すぎているのだ。指導教員が教生を叱咤したり激励するのは当たり前のことだろう。
気休めが独り言となって小さく口を突いて出た。
鏡の表面を手のひらで拭ってみる。
学齢期に入って以来受験生となる今年の夏まで、ずっと剣道に打ち込んできた俺の身体に贅肉はない。しかしこれが包容力のある大人のものであるかといえばそうは言い難い。
なまえの頭を撫でた土方先生の手もなまえに掛けた声も余裕を持った大人の男のものだった。世間を知り安定した職業を持ち社会的基盤を確立した大人の男。土方先生はそういう男だ。
引き換え俺はまだ何者にもなれていない、何も成し遂げていない発展途上の人間でしかない。
なまえが振り向いて眼を留めてくれるような男であるとはとても言えない。そのようなことは解っている。
まただ。
彼女への想いをはっきりと自覚してまた俺は思考の無間地獄に落ちていきそうになる。





タオルを被り濡れた髪を拭いながらキッチンにミネラルウォーターを取りに行けば、姉は既に来ていてダイニングのテーブルで如何にも呑気そうにビールを飲んでいた。冷蔵庫から出したペットボトルの蓋をあけ喉に流し込んでいると、姉はここぞとばかり揶揄の混じった口調でうっとおしく話しかけてくる。この姉は喋り出すと機関銃のようで俺はいつも辟易する。

「一は相変わらず何考えてるんだか解らない小難しい顔してるのね。勉強頑張ってる?」
「余計な世話だ。あんたこそ遊んでばかりだな。将来を真面目に考えはしないのか」
「可愛げない。そっちこそ余計なお世話よ。もう結婚相手決まってるからいいんだもん。あ、お母さんビールもう一本飲んでもいい?」

母は娘の食事の世話をしながら「一の邪魔はしないでよ? 大事な時期なんだから」などと言いつつもいそいそと冷蔵庫に向かう。母の言葉など気にも留めず姉は、自室に戻ろうとリビングのドアに手をかけた俺を呼び止めた。

「あ、待ってよ、明日暇? 高校の時の友達と会うんだけど、その子高校の時から一に会いたいって言っててね」
「何の為に」
「イケメンな弟を見たいって。偶には気分転換に一緒に行かない?」
「あんたは馬鹿か。俺をなんだと思っている」
「わたしにとっては堅物でつまらないただの弟だけど?」
「受験生だ。つまらなくて結構だ」

帰りの遅い父親の食事を冷蔵庫に仕舞うと母は「久子、いい加減にしなさいよ」と苦笑いで窘めながら、珍しく自分の分のビールも取り出した。久子は軽く酔いの回った赤い顔で戯言を続ける。

「その友達失恋したばっかりなの。でも彼女も悪いんだ。待ってるだけの“わかってちゃん”じゃ駄目なんだよ、もっとさ、」
「俺の知った事ではない」
「冷たい子ね、一って!」

酔っぱらいの相手などしていられるか。俺は舌打ちをしてドアを閉じる。「後で夜食持ってくわね」と声を掛ける母に「いらぬ」と応えて階段を昇った。
この一週間の浮ついた自身の精神をリセットしたい。二階の自室に戻って机に向かう。
俺は書店で購入した物の他に有名予備校がウェブ転用した問題集もダウンロードして使っているが、ブックマークを開きながら数学のセンター過去問を解こうと考えていた。数学は没頭しさえすれば雑念から逃れられる。
ノートを広げ一定の速度でシャープペンを動かし暫く集中して解いていく。悪くない調子だと思った。
しかしふと息をついた時、至極唐突に一枚のプリントが目についた。重ねた参考書の下から角が少しだけはみ出していたそれは、先日なまえの手から配られた模試の案内だ。俺には必要ないと一度くしゃりと握ってダストボックスに入れかけ、捨てきれずに置きっ放していたものだ。
思い出して立ち上がり背後にあるベッドの隣、クローゼットにかけた制服のズボンに手をかけた。青い花がまだポケットに入っている。手にしたそれを長いこと見つめていた。
不意に控えめに響いたノックの音で全身がビクリと波打つ。遠慮がちに覗いた母の手には夜食の盆があった。振り返って「いらんと言っただろうっ」とつい尖った声の出た俺に驚く母を見て、自身でも驚きそして激しい自己嫌悪に襲われた。





昨夜も殆ど眠れなかった。だからその分勉強が捗ったのかといえばそうではない。このように御しがたい自分が未だに信じられぬ気持ちでいた。まるで熱に浮かされるとはこのことだ。俺は一体どうしてこのようになってしまったのか。
机の上にはしばらく前からノートや参考書の類が広げてある。椅子の背もたれに深く身を預けていた俺は、開いたパソコンの画面をただじっと眺めていた。
画面は一面に青い色をしていた。
その時何の予告もなく、向って右手側にあるドアが大きく開かれ、姉が遠慮もなくずかずかと入り込んできた。

「はじめー、悪いんだけどパソコン貸して」
「な、なにゆえ、勝手に入ってくる……っ」
「急いでるの。あ、何これ、何見てるの?」
「見るなっ!」

俺は凭れていた椅子から飛ぶように立ち上がり、乱暴にマウスを掴んでブラウザを閉じた。「は? なによ」と姉はたいして気に留めた風もなく「今日行く店の地図を見たいの。スマフォだと小さくて」などぶつぶつ言っている。
この家にはプライバシーというものはないのか。心臓は己のものではないように制御不能な動きをする。

「さっき何見てたの? エッチなサイト?」
「うるさい、違う」
「冗談よ。あんたって、花になんて興味あったの?」
「……かっ、関係ないだろう」

この姉が瞬時にして画面をしっかりと見ていたことを知り頭の天辺まで熱が上った。見られたところでどうということもないただの花の写真である。そもそも俺は成人向けサイトなどに然程興味はない。しかし今の場合はいっそのことそんなものでも見ていた方が余程ましだったと思うほどの羞恥を感じた。
机の横の通学鞄を取り上げ中から財布を掴み出して久子の横を通り過ぎれば、悩みのなさそうな姉は人の気も知らずシャツの袖を掴み「使っていーい?」と間延びした声で聞いてくる。腕を払い「勝手にしろ」と言い捨て乱暴にドアを閉じる。

「出かけるの?」
「ああ」

リビングから顔を出した母に短く答えて俺は財布と定期を尻ポケットに突っこんで家を出た。
目指したのは学校だった。
幾分涼しい土曜の午前の電車は空いていた。座席には老人や子供連れの母親がまばらに腰かけているだけでのんびりとした空気が漂い、朝帰りらしい勤め人がシートにだらしなく身体を預けている様が不似合いだ。
俺はドアに肩を預けるようにして見慣れた窓外の風景を眺める。空は今日も青いがいつもよりも高く見える。暑すぎた夏も流石にピークを越えたということなのだろうか。
休日のこのような時間に書店や図書館ではなくわざわざ学校へ向かおうという自分を不思議に感じた。
それにしても姉の態度は不愉快だった。昨夜から一体何なのだ。自分の友人くらい自分で面倒を見ろ。俺は見世物ではない。人の部屋に挨拶もなく踏み込んでくるあの非常識さは言語道断、マナー以前の問題だ。あのがさつさで俺と姉弟などと信じられぬ。ばつの悪さから俺は内心で悪態をついていた。
だいたい姉はいつでも人の都合にはお構いなしに手前勝手なことをペラペラと喋り……そこまで考えて姉の科白の一つを思い起こす。あることに思い当たり俺は手のひらで口元を覆う。

“わかってちゃん”じゃ駄目なんだよ。

それは、俺のことではないか。
学校のある駅が近づくにつれ窓の外をゆったりとした緑が流れていく。景色はもう目に入らなかった。
ここ暫くずっと続いた落ち着かない感覚。揺さぶられる心。制御を欠いた感情は僅かなことにも反応して不快感を覚えた。
昨夜からも。
しかしこれは恐らく姉にだけ向けられたものではないのだろう。何処へも進めぬ出口のない想いに捉われて困惑し、そのくせ人のせいにしている己にこそ感じていたのではないだろうか。
元より俺は何一つ言葉にしていないのだ。
伸ばした手を取ってもらえなかったなどと考えたが、そもそもすべては俺の独り相撲だ。
初めて出逢った体育館の裏でなまえを見つけたあの日から。
俺は彼女と交わした短い会話の中で自身の言葉を一つも告げてなどいない。
己でも解っていない感情を解ってくれなどと虫の良すぎる話だ。勝手に独りで思い惑ったとて伝わるわけなどない。それこそ子供のやることだ。
あんたの名を呼びたい。
あんたの笑顔をもっと見ていたい。
そしてただの夢でもいい。いつかあんたの好きだと言ったあの花を、共に見たいと。
そう言えたならば。
俺はブルージーンズのポケットにあるそれにそっと手を触れた。
駅を出ると真っ直ぐに斜向かいのコンビニに向かう。それは家を出た時に決めていた予定の行動だ。
500ミリリットルのクリスタルガイザーと小さな器状の紙皿、小袋のキャットフードをレジに持って行けば、会計をしたコンビニの店員がふと顔を上げて俺を見た。
今日は彼女と顔を合わせることは無いだろう。だがあの場所で少し考えてみたかった。
駅から高台の学校へと長く緩い傾斜の続く道を歩いて行けば、昼に近い太陽はまた徐々にその力を強め始める。俺は着ていた白いシャツのボタンを三つまで外した。
一部が程よく日陰になったその場所にセイタカアワダチソウはいつも通り精力的に茂っていた。
買ってきた紙皿を二枚取り出し一つにドライフードをざらざらと開け、もう一つに硬度の低い天然水を注ぐ。食べ残した皿は明日の朝また回収に来ればいいと思った。

「いるか?」

小さく呼んでみるが猫はなかなか姿を見せなかった。腹が空いてはいないのだろうか。
猫は元々人馴れしている様子であったし特に痩せていると言うわけでもなく、これまでは近所の住民に何かをもらって飢えを凌いできたのかも知れない。野良猫であっても通い処のある半野良というのもいることである。
そう考えながらも昨日の夕方から姿を見てはいない俺は俄かに心配になり、ドライフードを入れた皿を手に持ってなるべく音をたてないよう静かに藪に踏み入れた。その足元にあったものを目にして俺は息を飲む。
彼女があの日座っていた場所。
俺が寝込んでしまった場所。
彼女が俺の服から花粉を払い髪に触れてきた場所。
セイタカアワダチソウが風を遮る狭いその場所の一隅に、今俺が手にしていると同じ紙皿が置かれていた。
暫く動けずにそれを見つめる。中にはドライフードが僅かに残って居た。
腰を屈め指で一粒を摘まみ上げればそれはまだ新しく、続いて目に着いたのは並々と水を入れたもう一つの皿。
駅前のコンビニの店員が俺を見上げたのはこの所為だったのかと得心がいった気持になる。
恐らくなまえは俺と同じことを考え、あの店で俺と全く同じものを買って、こうして此処に来たのだろう。
まだそう時間は経っていない筈だ。
立ち上がって辺りを見渡すが、弱い風にセイタカアワダチソウが揺れているだけだ。
彼女はもう帰ってしまっただろうか。それともまだ近くにいるだろうか。
もしもいるのならば――。
俺は手にした皿をその場に置いて踵を返す。
急速にせり上がってくる想いに抗えない。
宛てなどあるわけではないが逸る心が思慮分別を超える。
俺の足は意思を離れ走り出した。


This story is to be continued.

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MATERIAL: web*citron

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