いつか、彼方 | ナノ
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色のない夢をみる



指に触れられただけで俺の身はビクリと震えた。
そこからじわりと広がっていく甘美な感覚が身体の芯を疼かせる。彼女はその細い指先だけで俺を幻惑する。
邪気のない琥珀の瞳は俺の心の底までを見透かし、俺の名を呼ぶ声は濡れていた。
目の前にあるのは焦がれる人の白い姿態。
再び俺を呼ぶ甘い声に箍が外れ、夢中で手を伸ばせば吐息は切なく、滑らかな肌の手触りに気が遠くなりそうだ。少し冷えた指先に反して熱い肌。
もう熱しか、感じない。
何もいらない。あんたさえいれば。
抱き締めて身の裡の灼熱に焼かれる心地を味わい、たまらずに彼女の名を呼ぶ。

なまえ――。

己の声に驚いてはっと目を開けば全身に汗をかいていた。
自室のベッドの上、ここに俺以外誰も居る筈などない。
ぼんやりと見えてくるのは見慣れた天井の白で、明け方の薄青い光がカーテンの隙間から忍び入ってくる。
俺は何という夢を見ていたのか。
なまえの裸身が目の裏にはっきりと焼き付いていた。実際に目にしたことなど一度もないというのに。すぐに異変に気づき身を起こせば、俺の一部が有り得ない現象を起こしている。不埒な夢に身体は正直に反応していた。
動揺した俺の顔面にますます血が上る。
だがこのような夢を見た理由はわかっていた。あの裏門でなまえの身体を抱き留めた感触が今もこの手に残っている所為だ。俺を見上げたあの瞳が離れない。
なまえに会いたくて話をしたくてけれどもそれが出来ずに抑えつけた感情が、僅か数日で彼女を求める欲へと変貌していたのか。
俺とて思春期の男である。健全な男であってみれば欲も人並みにあると自覚してはいた。しかし特定の女性を対象にしてこのようになったのは初めてのことだ。
己の浅ましさに泣きたい気持ちになるが、一度膨れ上がってしまったものはどうしても治まらない。ただ、身体が熱かった。もしもこのようなことを知ったらなまえはどれほど俺を軽蔑するだろう。
だがどうしようもないのだ。薄闇の中で独り息を荒げ、己を無理矢理に解放してやる以外は。

「ぅ……、なまえ……っ」

ぎゅっと目を閉じて頭の中が真っ白に弾けるその瞬間、掠れた声が唇から漏れた。羞恥と欲望の狭間にいる俺は夢の中だけでなく、覚醒してまでもこうして彼女を穢す。
息が凪ぎ身体が弛緩しても瞼の裏に残るなまえの姿だけは消えてくれず、再び眠る事も出来ないままに俺は、朝日が昇って行く気配をカーテンごしに感じていた。





体育の授業のない月曜日の朝、俺が持っていたスポーツバッグに早速総司が目を留めた。
校門の手前で駆け寄ってきた奴はまるで登校時のそれが挨拶と言わんばかりに、いつものように遠慮会釈なく背後から両腕を回してくる。

「暑苦しい。離せ」
「今朝は涼しいと思うけど。それどうしたの。今日も部活に出る気?」
「…………、」

通学鞄には入り切れぬ所為で大き目の鞄が必要だっただけだ。猫の餌を持参するなど校則に抵触する恐れがあり堂々と手に持つのが憚られたからだ。
しかし総司にそのような説明をしたくはなかった。このようなこともあろうかとカモフラージュの為バッグの中に一応剣道着も入れている。先日久しぶりに後輩の指導に当ってみてその実力を知った故我が校の剣道部の行く末が気になったのだ、などともっともらしく言い訳も用意してはいたがその必要はなかったようだ。

「じゃさ、この間のリベンジさせてよ、放課後」
「…………、」
「打ち負けたままじゃ気分が悪い」
「……わかった」

強く拒否をする理由も見つけられず話を長引かせるのも気が進まずに、結局総司と再び竹刀を合わせることがその場で決まってしまった。
一日の終わりのHRの後、俺は例の場所へと足を運ぶ。「一君、帰らないでよ」と声を掛けてきた総司は未だ支度を済ませてはおらず友人と笑い興じている。「先に行く」とだけ告げ俺は一足先に教室を出て来たのだ。
朝は総司にへばりつかれ昼休みにも時間が取れず抜け出せなかった。昨夜半に雨が降った所為もあり猫のことに加えて餌の皿の状態も気になっていた。
だが実際に気になっていたのは猫だけではない。
この一日、なまえのことがいつも以上に頭を離れなかった。だが彼女を正面から見ることなど出来るわけがない。校内で幾度もなまえの姿を見かけはしたが俺は近づかない様腐心し、目を合わせることを徹底して避けた。
教室を移動する際に二階への階段を上りきったところで鉢合わせた時は、思わず赤面し不自然に踵を返した。不思議そうに目を見開いた彼女に「斎藤君」と名を呼ばれても答えることが出来なかった。なまえの声が耳に届くと同時に身の裡に湧き上がる思慕と羞恥と、そして渇望を悟られるなど耐えがたかった。
部活に顔を出した後にあの場所に行っては時間が遅くなってしまい、なまえと会ってしまうも知れぬ。それは絶対に困る。初めて知った己の中のなまえに対する新たな感覚をどう処理してよいか如何してもわからなかった。
セイタカアワダチソウは先週よりも幾分涼しい風に柔らかく撫でられて揺れていた。日曜を挟んだだけなのに空気が違って見える。さわさわと鳴る音に薄っすらと秋の気配を感じた。
この場所で。
俺の唇に近づけられたコンビニの握り飯。共犯者だと笑って、そうしておいてまるで手に掴めないこの風の様にするりと身を躱す彼女。
藪に向かいいつもと同じように「いるか」と声を掛けたが猫は今日も姿を見せない。そばにいる時はあれ程に懐いて見せるのに呼ぶ声に応えない猫とやはりなまえは同じだと思う。
あんたの気分一つで翻弄される方の身にもなれ。
土曜日に置いて帰った皿には想像した通り雨水が溜まり、残ったフードが流れ出て無残な状態になっていた。猫が顔を出すのを待たずに新しい紙皿にドライフードを入れ新たに水の皿も置く。
それだけを済ませゴミになったものを持参したレジ袋で厳重に梱包し、人目を避けるつもりで購買部のゴミ箱に捨てに行った。あまり遅くなるのは都合が悪い。見咎められぬように処理をしようとしたがその場所の掃除当番らしい後輩女子に見つかってしまった。
刹那強ばる俺の手の内容物を疑うことなく受け取った女生徒は満面の笑みで「斎藤先輩、頑張ってくださいね」と言う。若干当惑しつつ背を向けかけて、知り合いであったろうか? と考えたが「試合。応援してます」と言った興奮気味の口ぶりから総司と打ち合いをすることが知れ渡っているのだと悟る。
曖昧に頷きつつ、総司のやつどういうつもりだと困惑しながら部室に向かえば、そこでも思った以上の騒ぎになっている。
着替えて体育館に入った俺を待ち受けていたのは多くのギャラリーと、既に防具を着け面を前に置いてニコニコしながら着座した総司だった。こいつの考えは全くよくわからない。
体育館の入口に暫し立ち尽くせば「一君、遅いよ」と笑う総司と、それよりも驚いたのはそこに土方先生がいたことだ。

「試合時間は5分。延長3分。公式ルールに則って三本勝負とする。主審は俺だ。いいな、斎藤」
「……は、」
「この間は見逃したからな。今日は楽しませてもらうぜ」

このような大袈裟な事になっているなどと俺は聞いていない。
練習はおろかウォームアップもしていないのにどういうことだと思いつつ、だが煩悩に惑い続けている精神を叩き直すにはやはりこれはいい機会だろうとも思い直す。
心を清浄な状態に保つ為に心頭を滅却し迷いを捨て己を律する。俺にとって剣道とはそういうものだ。今一度初心に立ち返り……。

「一君、何してるのさ。早く始めようよ」

俺の思考を断ち切った総司は試合場を挟んだ向こう側ですましている。
ひとつ溜息をついて俺は用意された防具を前に正座をした。着座のまま垂れの紐を手に取り腰に回して大垂の下で固く結ぶ。胴紐を襷掛けし胸で結び腰紐も結んでしまうと顔を上げた先で総司が不敵に笑った。
彼が面を手に取るのを一睨みしてから手拭いを着け、自身も面を被る。左手から順番に小手を着け目を閉じて暫し精神統一をしてからゆっくりと立ち上がった。先日のような無様な勝ち方はしたくない。今度こそ綺麗に勝つ。
そう、思ったのだ。
本気でそう思っていたのだが。
土方先生の鋭く発した開始宣告から5分という短い時間は直ぐに過ぎた。
あの日と殆ど同じ試合の運び。競り合いながらどちらも有効打突を入れられずに延長が告げられる。ここからは先に一本を先取した者の勝ちとなる。
気勢を上げながら勝機を伺い合う。互いに狙っては間合いを詰めていく。どちらが先にタイミングを掴むかだ。図らずも長い鍔迫り合いとなった。
あの日の様に気を逸らせた総司に打ち込むのではなく鮮やかな一本を決めたい。面の隙間から俺の目を見据える総司もどうやら同じことを考えているようだ。こうして剣を交えながら目だけで互いの考えが解る。総司と俺はそういう意味では互いをよく知る好敵手だと思う。
俺の調子が特に悪かったという事は決してなかった。総司もとうに引退しているのだから条件は同じだった。
勝敗は間合いに掛かっている。左の足で踏切って後退し着地と同時に前身して踏み切るのだ。素早く力強く飛ばねば一本を取る引き技とはならない。タイミングを計る俺の耳に囁かれた声。

「一君…………来てるよ」
「……っ」

眼前に居た総司が一息に俺との距離を離した。同時に「一本!」と土方先生の力強い声が響きわたる。水を打ったように静かだった体育館の中に歓声が沸く。
脳天に感じた衝撃と打突音は総司に見事な引き面を取られたことを意味した。
中央に戻って剣先を合わせ後退して礼をする。しかし俺の頭の中は先程総司が口にした言葉に完全にかき乱されていた。





試合の敗北を気に病むわけではない。どのような場面であれ真剣勝負の最中に刹那でも気を逸らせた者が負ける。俺は己に負けたのだと思っている。
あの後通常に戻った剣道部の練習を途中で抜けた俺は紺藍色の剣道着のままで、グラウンドのギャラリーの端に腰掛けてサッカー部の部員が黙々とボールを追う姿を眺めていた。
ふいに頭の上から能天気な声が降ってきて、それが見なくとも誰だか解った俺は前を向いたまま自身の眉が寄るのを感じた。

「隣いい?」
「…………、」
「さっき、ごめん。もしかして怒ってる?」
「いや」
「嘘、怒ってるじゃない。怖い顔しちゃってさ」

総司は隣にすとんと腰を下ろすと足を投げ出す。先程よりも少し強く吹く風に総司の袴の裾が靡くのを無言で見ていた。
俺の顔を横から覗き込むようにして総司が紙パックのコーヒーを目線に掲げる。それを膝に置いていた俺の手に掴ませ、もう片手に持っていた自分の苺牛乳にストローを差し込む。ちゅうとわざとらしい音を立てながらストローを吸い上げ総司も黙って暫く校庭を見ていた。
飲み干した紙パックを振りながら「ねえ」と俺に向き直る。

さきほどあんたは何と言った。

総司の顔を一度も見ずにいた俺の頭の中は、幾度も打ち消した考えが未だに巡っている。手に持たされたものに視線を落したままあれは空耳だったのだと思い直し、みすみす聞き返して墓穴を掘ることになるなどは絶対に御免蒙りたいと口を閉ざしていた。
無表情と言われ慣れている俺はこの時に己がどのような表情をしていたかなど確かめるすべもなかった。

「ねえってば、」
「…………、」
「好きなんだ? 一君」
「違うっ、お、俺はなまえのことなど何も……」
「やっぱりね」
「…………!」

総司はくすりと笑って紙パックをくしゃりと握り潰した。
唐突に放たれるこの男の口撃には心底閉口する。まんまと嵌められた俺の顔面が今回ばかりは隠しきれずに火を噴いた。
総司の方に体を向けた俺の膝からコーヒーのパックが落ちて転がった。

「あ、あんたのそれは……っ、ゆ、誘導尋問と言うのだっ! 俺は……っ、」
「何も誘導してないけど」
「さ、先ほど、し、神聖な試合の途中であんたが、あのような、」
「僕はなまえ先生が来てるって言っただけだよ?」
「な、何故そのようなことを、俺に敢えて……っ」
「あのね一君。それを敢えてって感じるのは君が彼女を好きだからでしょ」
「ち、違……」
「違うの?」
「ち、……違……わぬ、」
「素直だね。中学から長い付き合いだけどさ、今日みたいな君って僕初めて見た」

そういって総司はふっと笑った。
畳み掛ける口調は正しく誘導尋問だろう。それ故俺はこの男が苦手なのだ。
こうして己の心で認めることを憚る間に、指摘されることで俺は愈々恋情に捉われていく。
総司という男を以前より敏いとは思っていた。しかしこうまで簡単に心の裡を読まれているとは、俺はどれほど感情を表に出していたのだろうか。
空恐ろしい気さえしてくる。
口調は揶揄っているように聞こえて、しかし総司の瞳は特に嘲笑を浮かべてはいなかった。
袴の裾を捲り上げてギャラリーの石段を一つ降り、先刻転がり落ちた紙パックのコーヒーを拾い上げ、それを俺の膝に載せ直し「せっかく僕がおごってあげたんだから飲みなよ」とだけ言って黙った。


This story is to be continued.

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MATERIAL: web*citron

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