いつか、彼方 | ナノ
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不器用なこの手の中に



「久々で楽しかったな。一君の腕、全然落ちてない」
「…………、」
「でもこの次は僕が取る」
「…………、」
「ちょっと?」
「…………、」
「人の話聞いてるの、一君」

下校時をはるか過ぎた時刻、校門までアスファルトの敷かれた緩い下り坂には西日が照りつけ、影が長く伸びていた。
俯きながら歩く俺はつい先程までの高揚感とは打って変わった心持ちでいる。左手はポケットの中にあるパウチをかけた小さな紙片に触れていた。総司の声は聞こえていながら聞いてはいなかった。
昨日彼女に「俺から逃げたのか」と問いかけた俺の言葉はあまりにも不適切だった。自意識過剰な自惚れもいいところだ。思い出せば消え入りたい気持ちになる。彼女にとって俺は問題にもならないただの生徒の一人であり、それ以上でも以下でもない。
何かがあるとしたらそれは、偶々彼女の見られたくない場面を目撃してしまった事で、むしろ疎ましい人間の部類に入るのだ。
あの場所は彼女自身も気に入りだと言った。ならば僅かばかりの時間を猫を挟んで共有するだけでもいい。己の理解を超えて時折跳ねる心臓には戸惑いを覚えたが、それでも俺はあの時間を確かに心地よいと感じていた。
猫のような気まぐれでも気が向いた時だけでも構わない。彼女が笑った顔を見せてくれるのならばそれでもいいと思った。
だが、彼女の方は。

ここで斎藤君とこんなふうに話すのも、ほんとはあんまり、ね……。

胸に刺さった棘が疼く。
僅かな言葉の断片から彼女の本心など読めるわけもなかった。しかし彼女にとっては恐らく俺の存在は不都合なのだ。ならばこれ以上近づかないほうがいいのだろう。
俺は放課後に猫に会いに行くのを暫く止めようと決めた。期間は後たったの一週間余りだ。なるべく顔を合わせさえしなければこの訳の分からぬおかしな感情も一時的な気の迷いとして霧散していくに違いなく、俺自身の為にもその方がいいに決まっているのだ。
しかしそううまく事は運ばなかった。
後ろから「歩くの早いよ」と笑いながら総司がついてくる。一体この男の脚は何故その長さが活かされないのか。
俺の背に被さって総司が言い募る。

「ちょっと一君てば、何考えてるのさ」
「……俺は別に、何も邪なことなど、」
「ヨコシマって何? 僕、そこまで言ってないけど」
「…………、」
「あ、ヨコシマなこと考えてたんだ?」
「うるさい、違う」

俺は片腕で総司の長い腕を振り払う。

「まさか、恋してるとか」
「……は?」
「なーんてね、堅物を絵に描いたみたいな一君に限って、まさかね」

ふざけているのかと思えば飄々として、時に驚くようなことを言い放つこいつが俺は苦手だ。この男は一見こんなふうだが敏いところがあると前々から思っていた。
再び口を噤み「だから、ちょっと待ってってば」と追いかけてくるのを振り向いて睨み付ける。呑気な様子で相変わらずニヤニヤと笑った顔から目を逸らし再び前を向いた。
ズボンの左のポケットに入れた指は、プリント写真のL版を半分にした程の大きさのそれを握り締める。つい手にしたまま持ってきてしまったこの品を、どうすればよいのかと俺は考えあぐねていた。
また微かに何かを期待しようとする想いが頭を巡り心をかき乱す。





この日の2限が終わった時に剣道部の顧問をしている土方先生に呼ばれた。今日だけ部活に顔を出してもらえないかとの申し入れだった。
俺達三年は既に部活を引退したが二年生には力のある者がなく、正副主将を決めることさえかなり難儀をしたのだ。

「お前なら一日くらい時間くれても受験勉強に差支えないだろ」
「は……、しかし、何故」
「みょうじ先生の部活実習が剣道部ってことになったんだが、今日は会議があって俺は付き添ってやれねえんだ」
「…………、」
「まだ二年も纏まってねえしな。そこでだな、俺の剣道部のいいところをお前から見せてやってもらえたら助かる。稽古着は俺のを使え」

土方先生の言い方は俺が拒否する事等端から念頭にないようであり、否やを申し立てようにもそれは完全なる決定事項を告げる口調だった。
些か重い気持ちで放課後部室へと赴く。
土方先生から預かったクリーニング済みの胴着と袴を身に着け体育館へと足を運んだ。
一礼をして中へ入れば「斎藤副主将、お疲れ様です」と口々に後輩達が駆け寄ってきた。「俺はもう副主将ではない」と言いながらも久しぶりの空気に包まれる。
やはりこの形をしてこの場へ来れば背筋が伸び気が引き締まった。
既に来ていて少し離れたところに立っていたなまえはジャージ姿で、マネージャーの女子に何やら説明を受けている。見るともなく目をやってから顔を逸らし新主将と話をしていれば、後ろから「はじめくーん」と間延びのした声が聞こえ、驚いたことに総司が顔を出した。

「何故、」
「うっかり土方先生に捕まっちゃってさ、一君が行ってるから僕にも行けって。あの人ほんと強引だよね。でもまあ、折角だから一本やらない?」

元主将の総司が現れて部員達はますます興奮して見せた。「ぜひ、見学させてください」と彼らは目を輝かせ、この時ばかりは総司の言葉に俺も同意を示す気になった。
暫く竹刀を握っていない。
考えてみれば雑念を振り払うのにこれほどふさわしい場はないかも知れぬ。試合稽古ならば見学する者にも審判者にとっても勉強になるだろう。

「……そうだな。良い機会だから、やるか」
「そう来なくっちゃ。誰か、竹刀と防具貸して」
「では五分一本勝負とする。主将、副将に審判を頼む。皆、打突をよく見ていろ」

新主将の指示で直ちにそれらが用意され後輩達は見学の姿勢に入り、俺と総司は着座して防具をつけ面を被る。
瞬く間に決まったこの流れになまえが目を瞠っている姿が目の端に映った。誰かが興奮したように捲し立てるのが聞こえる。

「先生、すごいものが見られますよ。部室にあるたくさんの優勝杯、見たでしょう? ほとんどあのお二人がさらってきたんですから」

過去の経験上俺達のどちらかが相手から一本を取るには時間がかかる。
しんと静まる中を「始めっ!」と開始の号令がかかり、俺達は間合いを詰め競り合い互いの隙を伺い、五分は直ぐに経った。副審を務めた者の「あ、時間過ぎてます」の声が聞こえるまで、誰も何も言わなかった。
刹那僅かに気を逸らした総司の面に全身で気勢を上げ有効打突を入れた後、振り返って竹刀を構え直せば「一本!」と後輩の上擦った声が響いた。

「あ、ひど……、」
「慢心したのはあんただ」
「相変わらず見事な残心の構え。わかったよ、僕の負け」

総司と共に面を外し手ぬぐいを取って汗を拭う。なまえがじっと俺を見ていたのには気づかなかった。
時間まで後輩の指導を行い本日の稽古終了の声がかかる頃、既にかなり前から気を散らして女子マネージャーと戯れ始めた総司を見遣る。総司の剣道の腕は並外れていて格段に実力があることは俺も文句なく認めるところだが、ああして直ぐに集中力を途切れさせふざけるところが玉に瑕だ。
俺はずっとなまえに視線をやりはしなかった。意識をしないに限ると己に言い聞かせながら、その実それ自体がしっかりと意識していることになるなどとは考えもせず、結局頭のどこかで意識を続けながら。
総司を見ていた俺の背後から遠慮がちに声を掛けられたのはその時だった。

「あの、少し、いいかな」

ビクリと肩を跳ねさせて振り返れば彼女は、その手に部活ノートを何冊か挟んだファイルを持っている。それには剣道部内のルールを初め、練習メニューや試合記録、または剣道の理念など様々な事が記されていた。
剣道では一般では使わないような専門用語が多用される為、素人のなまえには理解できない部分があったのだろうか「少し聞きたいことがあって」とノートに目を落とす。
マネージャーに聞けと言いたくとも練習時間も終わり、すっかり気を緩めた後輩達は今も総司と何やら話しては笑っている。そばには誰もいなかった。
なまえが小首を傾げ白い指をノートに当てて俺を見上げた。
自身の戒めに背いた俺の心臓はまたしても鼓動を速める。試合の高揚感とは違った熱が這い上る。

「あの、さっき沖田君が言ってた残心っていうのは?」

そんなものは剣道のルールブックでも一冊買って読めばいい。本来ならばそう言いたいところだった。
しかし俺は彼女に問われるまま一つ一つの質問に答えた。広げられたファイルを持つ手に、彼女の持ち物であるらしいB5程の真新しいシンプルなノートがあった。彼女は何やら生真面目にメモを取り、やがてパタとノートを閉じると微笑する。

「ありがとう。助かりました」
「いや、」
「さっきの試合、本当に凄かった。目が離せなかった。流石に斎藤君だと思ったよ」
「……そうか」

彼女の賞賛をどう受け止めてよいか解らずに、しかし“流石に斎藤君”という言葉に引っ掛かりを覚えた。あんたが俺の何を知っていると言うのだ。理由の解らないモヤモヤとした感情に苛まれる。
「ほんとにありがとう。それじゃ、」と頭を下げ踵を返しかけた彼女の手からノートが滑り落ちた。
咄嗟に拾って手渡せばそこにまた浮かぶ綺麗な笑顔。また心臓を掴まれた気がした。
その時ふいに体育館の入り口から顔を出した土方先生が「みょうじ」と彼女を呼ぶ大声が聞こえた。

「あ、土方先生。いけない、わたし日報を出さないと」

聞いてもいない一言を残しなまえが小走りに俺の前から去ろうとする。
教生の一日は多忙なのだと彼女を見ていればよく解る。昼休みの時間も削って授業内容の確認をしているのも実習記録を書いているのも俺は知っていた。
余分なことを考える暇など彼女にあるわけがないのだ。俺と彼女の立場は全く違う。俺を顧みないからと言って恨みに思うなど筋違いである事は言われずとも解っている。
引き留めることなど出来るわけもなくぼんやりとその背を見てからふと視線を落とす。足もとに何かが落ちていた。恐らく先程のノートと一緒に落ちたものだろう。彼女を呼び止めようとしたが、声が出なかった。

なまえ先生。

声を出すのが躊躇われた。彼女は無論何も気づかずに遠ざかっていく。遠すぎる心の距離は測るすべもない。

「何してんの、一君」
「ああ、いや、」

傍寄ってきた総司に曖昧な返事を返し、拾い上げたものを握った手を袴の脇あきに突っ込んだ。「先にいくぞ」とそのまま俺は部室に向かって歩き出す。
現役部員達は反省会と道具の手入れで体育館に残っており更衣室は無人だった。
俺は脇あきから出した手を広げてみる。それは白い紙に貼り付けられパウチを施された青い花。押し花というのか、本に挟む栞様のものに見えた。
暫し見つめてから通学鞄の外ポケットに入れ、着替えの為に制服をつかみ掛けて、ふとまた青い花を取り出して再び見つめた。
これはなまえが言っていたあの花、セントーレアと言う名の花だろうか。
押し花になって少しくすんだ色をしているが、これが草原に咲いていたら恐らく、晴れ渡った夏空のように鮮やかな青色をしているのだろう。
彼女は何故このようなものをわざわざ持っていたのか。常にノートに挟んで持ち歩いているのであろうか。
……それとも。
この花を見てみたいと言った俺の言葉をもしや憶えていてくれたのではないのだろうか。
思い巡らせればそのような大概目出度いことまで考えてしまう。俺はまた埒もない思考に雁字搦めになっていく。

「何見てるの?」
「…………っ!」

この時こそ俺は地面から10センチほど足が離れたのではないかと思うほどに驚愕した。
部室に入ってきた総司は大して興味もなさそうに俺を一瞥し着替えを始める。
「何でもない」と手のものを鞄に戻し努めて平静を装い袴の紐を解けば「ふうん? 一君にしては随分ゆっくりだね」と総司はニヤニヤと笑った。





昨夜のうちに洗濯を済ませアイロンがけをした剣道着を返却する為に、土方先生の研究室に向かった。俺の目が廊下の先の研究室の扉の前にいた二人の人物を捉えた。足が止まる。
土方先生がこちら向きに立ち珍しく笑みを浮かべていた。そしてその向かい合わせに立つ女性はなまえだった。背を向けていても見間違いようのない姿。二人の会話が聞こえた。

「そう落ち込むんじゃねえよ」
「……はい」

聞こえたのはそれだけだった。だが次の瞬間俺は息を飲む。
彼女の表情を伺うことは出来なかったが、確かに落ち込んだ様子に見えていた。しかし俺の胸を締め付けたのはそこではない。
おもむろに大きな手が彼女の華奢な肩に当てられ、もう片方の手が柔らかそうな髪をくしゃりと大きく撫でたのだ。それをしたのは土方先生だ。

「茶でも入れてやるから、な?」
「……いえ、でも、」

躊躇う様子の彼女を見下ろしていた土方先生の視線が上がった。彼を凝視していた俺の視線と絡む。彼の声には余裕があり、些かの気まずさもなかった。

「おう、斎藤じゃねえか。昨日はありがとな」
「稽古着、洗ってきました」
「ああ、わざわざ悪かっ……、おい、斎藤?」

切り口上に言い捨てて視線を外し土方先生に大股で近寄った俺は、手の物を彼に押し付けて踵を返した。一度もなまえを視界に入れなかった。
土方先生がいつにない俺の態度に驚いて戸惑ったような声を上げた。
俺は振り向かなかった。なまえがどのような表情だったかなど解らない。
だが。
項垂れて見せて猫のように頭を撫でられて。
きっと俺の知ることの出来ない顔を見せて。
あんたは誰にでもそうなのか?
それとも相手が土方先生だからなのか?
心が乱れる。
もう何も考えたくなかった。なまえのことなどもう何も。
だが結局は頭を離れない
俺は以前から疑問に思っていたことがあった。 それは女子生徒に手紙をもらったり想いを告げられた時などだ。ろくに話をしたこともなく俺の事を何も知らぬのに何故好きだなどと思うのかと。
そのようなものは上っ面だ。非常に馬鹿げた感情だと不快感すら持った。
だが今の俺はなまえのことを無意識に考えている。初めて出会ったあの日からずっと無意識に目で追い、己で信じられないと思ったその馬鹿げた感情に陥っている。
考えたくないからと考えずに済むのならば何も苦労はしない。そこからどれほど逃れようと思っても逃れられない想いがあるということを俺は初めて知った。

まさか、恋してるとか。

総司の言葉が今更に思い出される。彼女の事を俺は何ひとつ知らぬと言うのに。
だからと言ってどうしてよいかなどわからない。 生まれて初めて抱いた恋心を胸に持て余し途方に暮れるばかりで、どうすればよいかなど俺には皆目見当がつかない。
ポケットに入れた手に触れる青い花をまた握り締める。


This story is to be continued.

不器用なこの手の中に



MATERIAL: web*citron

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