いつか、彼方 | ナノ
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風に消えないで



最初から解っていた事ではあるがやはり、俺達のクラスで“みょうじ先生”の授業を受ける機会はなかった。
しかし担任の土方先生が指導教員であった関係で彼女は日に一度はHRの方に顔を出した。授業見学で教室の後ろに立っている場合もある。俺は彼女の姿を目にする度に心臓の跳ねるような心地を味わう。
その日、コース別の講座から教室に戻ると程なくして彼女が前の扉を開いて入ってきた。土方先生が出張だった為HRを代行することになったらしい。早々に帰り支度をした生徒達がガヤガヤと喧しい中、彼女の少しハスキーなよく通る声が響く。

「皆さん席に着いてください。大学別模擬試験の案内を配りますから」

平助が張り切って真っ先に彼女の元へと駆けつける。奴には模試の案内など興味もないのだろう。わざとらしく政治経済の教科書を広げて持っていく平助に彼女は苦笑を返した。

「みょうじせんせー、俺このへん全然解んねえんだよな。資本主義経済と社会主義経済ってさ、つまり何が違うの? 要点教えて」
「藤堂君。わたし日本史専門なんですけど」
「でもさ、今度の中間テストのヤマくらいわかんだろ? 社会の先生なんだし」
「範囲がまだ出てないんです。あ、だったら問題集を貸しましょうか。一問一答のクイズみたいに楽しんで覚えられるのがあるから」
「マジか、やった! それ先生の私物?」
「そうだけど」

俺は身じろぎもせずに着席したままで、困った顔をして笑う彼女をただ遠くから見つめた。
彼女はこちらを見ることをしない。俺には何ほどの興味も持っていないのだろう。俺は所詮多数の生徒の中の一人でしかない。
試験間際でもないのに平助があのような事を言い出すのが、政経を真面目に勉強したいからではない事などわかっている。
それは文系講座の総司が得意げに語るいかにみょうじ先生が可愛らしい人かとか、みょうじ先生の実習授業中に起きた愛らしい逸話をたびたび聞かされている所為だ。
この学校には女子生徒もいるし女性教師だとていないわけではない。だが彼女の様に若い教生は男子生徒から注目されやすい。当然の帰結として皆が彼女の注意を引こうと狙い、平助のようなことをするようになる。
俺の中に微かな不快感が過る。このような感覚がお門違いであることなど百も承知の上でだ。
俺はじっと教壇の方を見つめたままあの日のことを思い返していた。あの日以来あの場所に“なまえ先生”は現れなかった。
後ろの席の男が無駄に長い足を延ばし俺の椅子の脚を軽く蹴った。その行動にはあからさまな揶揄がこもっていた。俺は前を向いたまま振り向かず、努めて低い声を出す。

「やめろ、総司」
「何、怖い顔してんの?」
「見てもいないあんたに俺の顔つきが何故わかる」
「見なくてもわかるよ、一君。眉間に青筋立ってるでしょ。男の背中って思った以上に語るんだから」
「馬鹿馬鹿しい」

俺にとっても然程必要ないが、配られた案内プリントを鞄に突っ込み席を立った。個人的なスケジュールを疾うに立てている。くだらないことを考えている場合ではない。一日たりとも無駄には出来ない筈だ。
俺は一度も総司の顔を直視しなかったが、ニヤニヤと笑っている事は簡単に想像がつく。彼の言った通りの今の顔を見られるのは御免だった。





体育館の裏は昼頃にはちょうど良く影が出来るが15時を回った今は西からの日が差している。
俺は額に薄く滲んだ汗を腕で拭い擦り寄ってきた猫の背を撫でた。
運動部の活動が行われている体育館の中からは熱気に満ちた声が頻りに聞こえている。つい少し前まで俺は剣道部に所属していたが、夏期休暇に入ってすぐの大会を最後に引退した。
体育館裏手の出入り口のすぐ外は幅2メートル程のコンクリート敷きになっている。副主将だった俺は以前この場所に部員をズラリと並べ共に素振りなどをしたものだが、気合いの大声を張り上げる為近隣住民の苦情を慮った学校側から、ある時使用の禁止を言い渡された。今ではここに人影はない。夏期休暇の間に伸びるだけ伸びた夏草が、旺盛な生命力を見せているだけだ。

「すまんな。今あんたにやれるものを持っていない」

俺の気配を察し草むらからおずおずと出てきた猫に小さく呟く。言葉を理解するわけもなく猫は乞う様な目をした。丸い大きな目が見上げてくる。近くにコンビニでもあれば何か買って来てやりたいが生憎そんなものもない。
あれから3日ほど経つが、俺は朝と昼と夕方の日に三度ここへと足を運んでいた。
彼女とは最初の一度きりで、以来会うことはなかった。
元より彼女と俺との間に個人的な繋がりなど何もない。彼女はこの学校に一時的に来ている教育実習生であり、俺は単に生徒の一人でしかない。あの日ここで出逢ったのはただの偶然に過ぎず、心ひそかに浮かれていたのは己だけだった。
高度を下げた太陽がシャツ越しに背中をじわりと熱した。
俺は一体どうなっているのだ。このようなところで何をしている。頭を冷やすべきだ。さっさと帰宅して勉強をした方が有意義なのは言うまでもない。
自身に問いその明らかな答えも知りながら、立ち去ることが出来ず夏草に足を踏み入れて高い草の陰に座り込んだ。
そこは一人分程の空間になっている。ちょうどあの日彼女が蹲っていたと同じ場所だった。昇降口から一度外へ出て此方に向かってきたとしても姿を確認するのが困難な位置に当たる。
背の高い草が花粉を散らし白いシャツや制服のズボンを黄色く汚した。
汗ばむほどの西日は午後遅くなっても容赦なく強い。にもかかわらずここのところ続いた睡眠不足で、俺は不覚にも一瞬意識を途切れさせた。
ふと気づいて腕時計を覗けば短針が先程見た時より30度近くも下に動いている。傍に居た筈の猫はとっくに居ない。辺りは夕方の色を纏い始め、体育館から響いていた筈の部活動の音はもう聞こえていなかった。俺は食い入るように再び腕時計を見る。

「……慌てないで。大丈夫、まだ沢山あるから」

声が聞こえた。猫が何かを貪る様な物音と、僅かに疲れを滲ませたような仄かに掠れる声。この声は彼女の。
身じろいだ俺の足が枯れた草を鳴らした。

「……っ、」
「誰?」
「…………、」
「誰か、いるの?」

怪訝そうな声が問う。しかし俺はそれ以上動けなかった。草の上に腰を落としたまま半身を起こした体勢で、身を固くする俺の方を恐る恐る伺う気配がする。

「…………っ、」
「斎藤……くん?」

いきなり俺の方に飛び込んできた猫に反応し、聞き咎めた彼女が微かに衣擦れの音をさせゆっくりと立ち上がった。それでも俺は動くことが出来なかった。
草の壁から覗き込んだ彼女は少しだけ驚いた顔をした後、その頬にゆっくりと笑顔を浮かべた。

「花粉がいっぱいついてる」
「…………、」
「斎藤君の髪は紫紺色だけどふわふわしてて、ヒヨコみたい。うん、ヒヨコのイメージ」
「……馬鹿にしているのか」
「してないよ、全然」

彼女は楽しげに笑った。
仕方なくのろのろと立ち上がった俺の肩や腰を柔らかくパンパンと手で払い、大きな瞳で下から覗き込む。
並んで立ってみると彼女の額が俺の唇のあたりにあった。綺麗な髪の生え際を目にして俺の心臓がドキリと脈を打つ。
彼女は再びクスリと笑い小さく伸びあがるようにして、俺の髪に着いた花粉も指先で払おうとした。その仕草がまるで歳の離れた姉が弟にするそれのように思え、些か気に入らなかった。しかし反面どこかでまた浮かれ始める己がいる。
気恥ずかしさに耐えきれず「自分で」と言って顔を横に向け彼女の手を避けた。黄色い花粉の色素はシャツに残ったままなかなか取れない。髪に手をやり乱暴に掻き回してから、ムキになって力を入れ己の肩を叩く。彼女は可笑しそうに笑いながら俺を見ていた。

「セイタカアワダチソウって気の毒な草だよね」
「セイタカアワダチソウ?」
「その黄色い花粉の。虫媒介だから花粉症の原因じゃないのに誤解されて嫌われやすいけど、人に悪影響なんてないの」
「そう、なのか」
「繁殖力が強くてしぶといから、そこがまた嫌われたりもするんだけどね」
「なまえ……先生は植物に詳しいのか」
「ここ昔からこれが沢山生えてたの。実はこの場所わたしもお気に入りだったんだ」

なまえが俺の背後の草むらを見渡す。俺は手を止めてその視線の先を見た。
「あの頃はこんな可愛いお仲間はいなかったけど」と言って一度逃げた草の陰から再び顔を覗かせた猫に屈み込む。「まだ残ってるよ」と先程からずっと足元に置きっぱなしだった弁当箱の蓋を取って猫を手招いた。
猫はにゃあと嬉しげに鳴き、喉を鳴らして伸ばした彼女の手に擦り寄る。

「何故、この場所が」
「何故って、ここ私の母校だもの」

とすれば彼女は教員の卵である以前に俺の先輩にも当たるという事になるのか。数年前のこの場所になまえは高校生として座っていた。俺はその姿を無意識に想像した。

「植物に詳しいわけじゃないけど、雑草がけっこう好きかな。一面に群生している花とか。セントーレアって知ってる? 斎藤君の瞳みたいな澄んだ青色で、それがずっと遠くまで一面に青く咲く場所があるんだ」

なまえは遠くを見る目をした。俺を見ているようでその視線は俺を通り過ぎて遠くを見ていた。琥珀色の澄んだ瞳の先を追いかけても俺には何も見ることはできず、思わず焦燥に似た気持ちに捉われる。

「ギリシャ神話のケンタウルスがヘラクレスの矢に射られた時、その傷を癒した花なの。学名はセントーラシアナスって言って、あ、シアナスっていうのは美しい青年の名前でね、彼がこの美しい花を女神に捧げたことから……あ……斎藤君はこんな話興味ないか、ごめん」
「なまえ先生は社会科の教師だと思っていたが」

なまえは僅かだけばつが悪そうな表情をしてから、不意に視線を俺の瞳に戻した。

「人って好きな事と出来る事が必ずしも一致するとは限らないでしょ」
「……その花が好きなのか」
「うん」
「セントーレア……?」
「うん」
「それが咲き乱れているという場所を、出来たら……その、俺も、」

見てみたい、と言えずに口を噤んだ。そんなことを言えばまるで彼女の気を引こうとする他の生徒と同じになると思ったからだ。

「行ってみたい?」
「…………、」

一度目を見開いて俺を見つめてから「気を遣ってくれてありがとう。斎藤君はわかり易いね」となまえは小さく噴き出した。刹那俺の顔が発火する。
俺はこのように容易く顔色を変化させるタイプではなかったと思う。無表情で何を考えているのか解らぬと言われたことは多々あるが、わかり易いと言われたことはこれまでに一度もない。
なまえのような人こそ俺にとっては初めてだ。またしても戸惑いと羞恥を伴う居心地の悪さを覚える。そんな俺を見て笑いをかみ殺す彼女の仕種に居たたまれなくなる。誤魔化す様に一緒に笑うことも出来ず黙り込む俺は、今度は己でも解るほどに憮然とした顔になった。
気を遣ったわけではない。なまえの好きだと言うその花を、ただ俺も見てみたいと本当にそう思ったのだ。

「怒った?」
「……別に」
「だって顔が少し怖い」
「もともとこういう顔だ」
「そう? 眉を顰めてたら綺麗な顔が台無しなのに」
「……は?」

彼女は穏やかに笑んでいる。一体、女性に綺麗などと言われて喜ぶ男がいるとでも思っているのか。それともただからかわれているだけなのか。なまえの笑った顔は間違いなく美しいと思うが、その唇から出た言葉は僅かに癇に障った。

「綺麗などと、男に向かって」
「綺麗だよ、斎藤君は。顔だけじゃなくて心も。真面目で真っ直ぐで前向きで、若くて」
「あんただって若い。俺の四年上なだけだろう。それほど変わらない」
「変わるよ。若い時は一年の違いが大きいもの。斎藤君の若さは未来に沢山の夢や可能性を秘めていて羨ましいよ」

彼女は好意的な意味で言ったのだとは思う。しかし若さを称賛されたところで喜べる筈がない。
なまえの言葉は俺の胸に小さな棘のように刺さった。それは彼女と俺との間の途方もない距離を指摘したように聞こえたからだ。
教師になるのが夢だと言った彼女は教員試験に臨む為に勉強している。それは自身の夢に近づいていることとは違うのか? その時にその小さな矛盾に気づけていたら或は何かが違っていたかもしれない。だがそう思うのはずっと後になってからだ。
その時の俺は彼女にとって未熟な男でしかない己を憂うことしか出来なかった。

「教生はね、実習中に実習校の生徒さんと必要以上に近づき過ぎることは禁忌なの」
「どういう、意味だ?」
「……私に無視されてるって、あれから気を悪くしてたんじゃないかと思って」

その言葉だけで俺はなまえに心の裡を全て見透かされている気がした。
取るに足りない半人前が背伸びをし、届きもしない遠い空へと身の程知らずにも伸ばそうとした手。掴んでもらえるどころか、伸ばすことさえ遮られたことに俺は無意識に不貞腐れていたのかも知れない。
俺よりもずっと先を歩いている彼女には、そういうことを疾うに見通されていたということだろうか。
目を見開いた俺の顔の前で彼女は人差し指と中指を自分の唇に当てて見せた。

「ほらわたし、前科があるでしょ」
「だから、俺から逃げたのか。俺は誰にも言うつもりなど、」
「逃げたわけでも無視したつもりもないの。ただね、わたしあんまり要領が良くなくて土方先生の評価もイマイチだし、日報や参観記録を書くのも遅いし。でもね、教員資格がどうしても欲しいの」
「…………、」
「だからあの時から禁煙もしたんだ。……ここで斎藤君とこんなふうに話すのも、ほんとはあんまり、ね、」

なまえの言い分が全く解らないわけではない。だがその言葉はいつも核心に届く一歩手前で止まり、決して結論を告げてはくれない。
これまでに彼女とそれほど多くの会話をしたわけではないが、いつもそのように感じた。
あえて言葉にすることを避けているのか、それとも言外を読めと言われているのか、そのどちらか或はもっと違う意図があるのかは解らなかったが、どこかで俺の気を逸らしているような気がした。
つまり俺の存在を迷惑だと。優しい言葉で包んで牽制をしているかのようだ。
棘の刺さった胸がまたきりと痛み、俺は唇を噛みしめる。
それに気づいているのかいないのかもやはり解らぬが、なまえは口元に笑みを浮かべ弁当箱の中から鮭を取り出して猫に与えた。
気づけば日暮れが迫っていた。じりじりと背を熱した西日がやっとその力を弱め始めている。

「暗くなってきちゃったね」

俺は女子の心を読むことに長けていない。それでもその心を読みたいと初めて望んだ人は、戯れるかのように俺を翻弄し挙句に身を躱して、風のように逃れていくようだった。


This story is to be continued.

風に消えないで



MATERIAL: web*citron

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