いつか、彼方 | ナノ
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痛いほど青い空



抜けるような夏空に湧き上がる積乱雲。
いつまでも勢力を緩めるつもりのなさそうな太平洋高気圧。気温が高い。アスファルトが焼け陽炎が立つ。
朝から蒸した不快な空気に包まれていた。
如何な暦の上で秋と言われようとも長かった夏季休暇が終わろうとも、実質的に夏はなかなか終わらない。受験生である俺達には夏の気候など有り難くも何ともなかった。
「一君ていつも涼しそうだよね。見てると和む。涼ませて」と背後から抱き付いてきた総司の手を振り払う。俺とて夏は暑いに決まっている。
「離せ。ふざけるのならば先に行くぞ」と言えば総司は「相変わらずだなぁ、一君はさ」と後方で声を上げて笑った。何が可笑しいのか俺には全く解らない。
俺は歩く速度が速い方だ。きょろきょろと時に横道に逸れながら歩く総司や、友人達とはしゃぎながら固まってのろのろと進む他の生徒と比較すれば断然速い。
時間の無駄というものを好まないのだ。それに俺には始業ベルが鳴る前にできれば立ち寄りたい場所があった。
ふわりと起こった風が俺の横を通過したのはその時だ。
それは前を向いて歩いていた視界に、突如映り込んだ一人の人物が起こした風だった。

「おはよう」

僅かに瞠目した先を歩いていたのは若い女性だった。
肩より少し長めの色素の薄い髪を靡かせ、真っ白な半袖シャツの肩に大ぶりのバッグを掛けた薄いグレーのパンツ姿。華奢な上にそれほど身長が高いわけではないが、背筋を真っ直ぐに伸ばし颯爽と前を行く。それだけの情報を視覚から瞬時に得た俺は我知らず目を奪われた。
風は微かに柑橘系の香りを運んだ。その一瞬だけ空気が涼しく思われ、目には見えないその風が青色を纏っているようにも感じられた。
俺は歩みを止めたわけでも速度を落としたわけでもないが、彼女はどんどんと遠ざかっていく。女のくせにどれほど足が速いのだ。
あれは誰だろうか。掛けられた挨拶の言葉は俺に向けた物だったのだろうか。
だが応えようにも問おうにも彼女は既にかなり前を歩いており、他の生徒たちにも「おはよう」と明るい声を掛けていた。
俺は薄く開きかけた唇を閉じる。朝の挨拶とは無差別に行われて何ら不思議のないものだと気づく。
それでも俺は先程よりも速めた足を運んで校門を潜る。彼女も僅か前にこの校門の中へと吸い込まれて行った。


月曜のその朝は全校生徒が集合させられ体育館で朝礼が行われた。
整列した生徒達の向かい合わせ、校長の斜め後ろに見慣れない人物が男女それぞれ一名ずつ。生徒側はざわつきながら誰もがコソコソと品定めのような会話をしている。
俺は黙って前方を見ていた。他の友人と話していた平助がおもむろに俺を振り返り潜めた声で囁きかけてくる。

「なあなあ一君、あの人。結構美人だよな」
「…………?」
「女の方の先生さ、美人だろ?」
「…………、」
「えー、なんだよ、俺らには男の方かあ。如何にも理系って顔」
「…………、」
「美人の授業がよかったな、俺。一君もそう思わねえ?」

どういうわけかこの暑さに側面にある出入り口四ヶ所が締め切られていて、大量の人間が集合している体育館は殊更に蒸していた。カッターシャツの背が薄っすらと滲んだ汗に張り付く。
前を見たり振り返ったりを繰り返しながら、しつこく言い募る平助に俺は答えなかった。俺には教育実習生の男の方など端から目に入っていなかったのだ。
つまりは彼女に釘付けになっていたということだ。
朝は手に持っていたペールグレーの上着をきちんと着込んだスーツ姿で、校長の紹介に応え暑さなど微塵も感じさせない爽やかな表情をして、彼女はみょうじなまえと名乗った。ほんの僅かハスキーな、だがよく通る声。初めて正面から見た容貌はよく整っていた。確かに平助の評は当たっている。
担当教科や在籍する大学、大まかな専攻内容などを自己紹介した彼女が日本史を担当すると知り、やっと平助の言い分が飲み込めてくる。それは彼女の実習授業を俺達が受けることはないという意味だった。
俺も平助も三学年に進級してから進学コースの理系講座を選択している。俺達のカリキュラムにある社会科は政経だけなのだ。教育実習の期間はたったの2週間。彼女との接点は恐らく望めないだろう。
黙りつづけていた俺と平助の目がふと合う。頭の中に選択科目など思い浮かべ、些か落胆を感じた己に驚きつつ思考を止めた。俺は一体、何を期待しようとしたのか。





都内近郊のこの公立高校は一応進学校であり、四年制大学へと進学する者が多い。校風は比較的自由で最高学府以外の進路を模索する生徒もいたが、俺はやはり四大を目指し志望大学も絞っており、夏期講習を受け一定期間予備校にも通った。睡眠時間を削り実際に己でもよく勉強をしている方だと思う。平助は工学系の専門学校へ進みたいと言っていたし、総司は私立の文系と決め将来はマスコミ関係の仕事をしたいと漏れ聞いていた。
しかし俺には未だ明確な夢という物がなかった。
大学に入りそこそこの成績を修め、そこそこの企業に就職する。そうやって敷かれたレールの上をただ走っていく未来に、どこか取り残されたような漠然とした不安を感じる。だがそれでも今は目の前に在る壁を一つ一つクリアしていくのが先決だ。立ち止まっている暇などはない筈なのだ。
夢はいつか、見つける。
しかしそのいつかとはいつのことを指すのだろう。
昼休みに弁当を持って一人教室を出た。いつもならばあれこれと煩い平助の姿が見えないのが幸運だった。
昇降口で外履きに替え校舎の外に出れば、襲ってくる直射日光が剥き出しの腕を焼く。額に手を翳して見上げれば目が眩むような空に思わず顔を顰めた。
目的の場所は体育館の裏手にある夏草の繁みの陰だ。最近見つけた俺にとっての息抜きの場所である。今日も来ているだろうか。
太陽を遮り僅かな日陰になっているそこへと、足音を立てずにそろそろと近づいた俺の眼が、いきなり信じられないものを捉えた。
手から弁当箱が落ちた。一緒に落ちて転がりかけたミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばす。

「煙、……水、を、」
「……えっ?」

刹那ガサガサと大きく草を踏む靴音と、同時に屈みかけた俺の腕が突然掴まれた。それは白く細い手だ。瞠目して手の主を見上げる。

「ご、誤解。火事じゃない、これ」
「あ、あんた……」

見下ろしていたのは彼女、みょうじなまえだった。
驚いた俺はつい不躾に彼女の全身に視線を走らせる。俺の腕を掴んでいない方の手に再び信じられないものを見る。細い指先に挟まれていたのが先程の煙の源だったのだと理解する。

「驚かせてごめん」
「このような所でたば……」
「ちょっ、しーっ!」

彼女は俺の言葉を遮って出し抜けに手を離し、片手に提げていた小さなバッグから素早く何かを取り出して蓋をずらすと、指先にあったものを中に押し込んだ。
不安定な恰好でいきなり腕を解放された俺はその場に膝をつく羽目になった。

「ごめん……ここ、君の場所だったんだね」
「別に俺の場所ではない。校内である以上学校の所有物だ」
「面白いことを言うね、君」
「それよりもあんたは、」
「解ってる、不謹慎だよね。でも緊張でどうしても我慢出来なくて」

差し伸べられた手に首を振り俺は膝を叩いて立ち上がる。
彼女の話し方は登校時の挨拶とも体育館の檀上での口上ともどこか趣が違っていた。表現をするのは非常に難しいが、くだけた言葉遣いに寛いだ声とでも言うのか、何かとても親密感を感じる口調だった。
それは彼女のしていた行為を俺に目撃された所為なのだと推測される。秘密の共有のつもりか、或いは無言の懇願だったのかも知れない。
だが俺はそれに不快感を覚えたりはしなかった。
ただ彼女が俺を“君”と連呼するのが気に入らない。名を知らぬのだろうから致し方ないとも言えるが、加えて正論を”面白い”で片づけられたことにも気分を害された。
それに何よりもこの思いがけない出来事のせいで、本来の目的を達することが出来ていない。

「別に咎めているわけではない。他言する気もない」
「ありがと、助かる。バレたら一遍でクビになるの。あの、今日だけ一緒してもいいかな。君、ここでお弁当を食べるんでしょう?」
「君、ではない俺は斎藤一だ」
「そっか、じゃ、斎藤君」
「……構わないが俺は弁当を食べる為に来たわけではない」
「え? それならここで何を?」

ふいに彼女の後ろを過った小さな影を目に留める。やはりいたのか。
唇に人差し指を当てる。音をたてず近寄ってくる存在に俺は彼女の言葉を止めた。
期待を裏切られてさぞ不満を感じていたことであろう、小さな生き物。
暫しの沈黙の後、俺の視線を追ってそちらを見遣った彼女の瞳が見開かれ、そして口許がゆっくりと綺麗な弧を描いた。

「そうだったんだ。ごめん、気づかなくて」

彼女が小さく語りかける。意外にも物怖じせずに近づいてきた猫に彼女は優しい笑みを向けた。

「あんたも猫が好きなのか」
「斎藤君も?」
「す、好きと言うわけでは……、」
「今、あんたもって言ったでしょう」

言葉尻をとらえて彼女がまた笑う。
俺に懐いていた猫は意外にも初対面と思われる彼女に対しても直ぐに警戒を解いた。
弁当箱から鮭を出してやれば躊躇わずに近づいてくる。「唐揚げが入っているの」と自分の弁当箱の蓋を開け、彼女が指先で小さく割いたそれも猫は食べた。

「斎藤君に随分慣れてるね。毎日ここに?」

喉を鳴らす猫の背を撫でながら彼女が小さく問いかける。
二人共に屈んで猫の食べる様を見ていた恰好の所為で、その声に上げた俺の顔があまりにも近くにあった彼女の顔に最接近した。
目の前で揺れた柔らかそうな髪、仄かに香る柑橘系の香り。頭に血が上る。いつになく狼狽えた俺は視線を彷徨わせながら立ち上がった。きょとんとして彼女が俺を見上げる。

「どうしたの?」
「……いや、」

無自覚なのか? 彼女は再び猫の背を撫でてから、新たに唐揚げを割いてやっている。
この猫以上に俺にはあんたが余程無警戒に見える。俺は女子とこのように近づくことや言葉を交わすことが、正直に言えば余り得意ではない。それだと言うのに。
急激に脈拍が速く打ち、妙に上擦った声が出た。

「く、来るようになったのは、最近のことだ。元々人懐こい性質なのだ。あ、あ………あんたにも、あんたにも懐いている、」
「え?」
「その……猫が、あんたに」

いつにない早口になり、しまいには己が何を言っているのか解らなくなった。ばつの悪いことこの上ない。
彼女は些かの動揺も見せずにそんな俺をじっと見つめる。その瞳は薄い琥珀色をして綺麗に澄んでいた。限りなく澄んだ瞳だった。

「ねえ斎藤君。わたしさ、煙草吸ってるところなんか見られちゃって言えた義理じゃないけどね、」
「な、なんだ、」
「あんたって呼ばれるのは、ちょっと……」
「は?」

明らかに染まっているであろう目元を見られるのを憚り顔を逸らしても、刹那至近距離で見た彼女の面差しは瞼の裏に焼き付いたままだった。透けるように白い頬。長い睫。そして印象的な黒目勝ちの少し濡れた様な瞳。
その瞳をほんの僅か悪戯っぽく細め、彼女は言った。

「教生とは言え、一応教員の立場なんだよね」
「そのようなことは知っている。そ、それが何か……、」
「だからね、一応なんだけど呼び方……あ、わたしの名前覚えてない?」
「……みょうじなまえだろう」
「そう、そうなの。だけど、名前じゃなくてね、えーと、先生って呼んでくれると嬉しいかなって」
「みょうじ、先生……、」

普通であれば女子の名など、一度聞いた程度で覚えられた試しがない。しかし彼女の名は何故か正確に記憶されていた。
乞われるままに小さく呟いた俺の声を拾った彼女は口元を綻ばせる。それは人懐こく愛らしい笑顔で、そしてまるで花が咲き綻ぶような笑顔で、この人はなんと綺麗な顔で笑うのだろうかと、目を離せずに見つめたまま息を飲んだ。

「ありがとう、斎藤君。先生って呼んでもらったの、生徒さんでは斎藤君が初めてだよ。わたし教師になるの、ずっと夢だったんだ」

ただ呼ぶだけでいいのか? そのくらい容易いことだ。呼ぶだけでそのように嬉しげに笑うのならば、いくら呼んでやっても構わない。
俺は足に纏いつく猫の背を撫でながら俯き、彼女はあんたと似ているなと呟いた。
そして口の中でもう一度繰り返す。

みょうじなまえ先生。

なまえ先生……。

この人はどこか猫みたいな人だと思った。
大学四年なのだから俺よりも四歳か五歳は年上ということになる。それなのに何と言う無邪気な顔を見せるのか。たった半日の短い時間に公的な顔と無防備な顔を一度に見せる彼女を前に、それを己だけが知ったということに。
何の準備もない俺の中に予告もなくするりと入り込んできた人。筋書きにないこの出逢いを俺はいつになく高揚した心持ちで受け止めていた。
見上げた空は目に痛いほどに青かった。
少しだけ起こった風に背の高い夏草がざわりと揺れた。


This story is to be continued.

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MATERIAL: web*citron

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