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18 昆布が再び俺を救う


オフィスの午後。
机の上に置いていたスマフォが震えた。
何気なしに取り上げ画面を見て「珍しい、なんだろう」と一人言ち、壁の時計を見上げながら席を立つ。

「なに? 今仕事中なんだけど何か緊急の用事?」

小声で答えつつ廊下に出て人気のない非常階段のあたりまで到達する前に、スマフォから聞こえる声が楽しげに告げた言葉を聞いて一瞬にして血の気が引いていく気がした。
全身がピシィと音を立てて強張る。
青褪めたまま「え、」とか「嘘……、」と意味のない呟きしか出てこない。
すぐさま頭の中に”早退”という単語が浮かんだ。だけど今から会議が入っていて、私にもお茶の用意やら資料の配布やら色々と仕事がある。交替してくれそうな人は……駄目、思いつかない。
困るよこんなの、急すぎる。
この報告を受けたところで今の私に打つ手なんてない。時間がなさすぎる。これは一見お伺いのかたちを取ってはいるけれど完全に事後報告というもの。危機がすぐそこに迫っている。
そうだ、これは危機だ。
しどろもどろになる私を気にも留めず電話の相手は腹が立つほどに屈託なく笑っている。
人の都合はお構いなしなんだよ、いつもこの人は。

『そういうことだからよろしく。もう着くわよ』
「え、着くって……私の部屋に?」
『だからそうだって言ってるでしょ。じゃあ後でね。心配しなくても鍵は大家さんに開けてもらうから大丈夫』

待ってよ、私の心配はそこじゃないよ、お母さん。
拒否するすべもなく勝手に電話は切れた。
ほんとに待って、嘘だよね?
……なんて気休めを言っている暇はない。
間髪入れずにはじめさんのスマフォを呼び出したけれど、どうして、なんで、今日に限って出てくれないの、はじめさん。
今日彼は出勤じゃなかった筈。
どうしたらいいんだろう。この場合の最善策は……、必死でない知恵を絞るけれどそんなもの浮かばない。しかも焦りながら何度かけても彼のスマフォは一向に繋がらない。
私とはじめさんのあの小さな部屋に今しも危機が訪れようとしている。
それなのに私に出来ることと言ったら最早祈るしかないのか。
力なく念じる。今日ばかりは彼が部屋に居ませんようにと。緊急で仕事が入ったとかならいいのに。
いや、仮に留守だったとしても部屋に入られてしまえば、男の人が同居している気配は丸わかりだ。はじめさんが如何に整理整頓を徹底してくれていても、彼の持ち物はやはり男性のそれなんだもの。
いくらあの母でも気づくだろう。私は頭を抱える。
少し前にはじめさんが私との交際と将来のことを話す為に両親を訪ねたいと言ってくれた。
そして彼は人間界における父の日を想定していたようで、だけど残念なことにその日は両親の都合がつかなかった。
その時の電話で母は「遊びに来るなら別の日にして」と言ってあっさり切ってしまい、何となくその後の予定の調整もうまくいかないうちに、どういうつもりなのか彼女は突然思い立ち独りで(父を家に置いて)自身の実家である北の大地へと2週間も遊びに行ってしまったみたいなのだ。(それも事後報告)まあ、その点は母の自由だし私に断る必要はないんだけれど。
母を通さずに父に直接はじめさんのことを話すのは何となく憚られた。
そんなわけで私はまだ彼の存在を告げていないし、ましてや将来を約束して既に一緒に住んでるなんてこと、両親はまるっきり知らない。
だってこういう事は電話なんかじゃなくて、やっぱりきちんと顔を見て伝えるべきだと思ったの。
第一はじめさんの身元を説明するのは電話では難しい。それが裏目に出たのかな。
母の襲来は日程の打診をした時に恋人がいると言いそびれた所為か。きちんと伝えていたら展開は少し違っていたかも知れない。でもすべては後の祭り。
さっきの電話で母はこう言った。

「羽田に戻ったらなんだか新幹線の乗り継ぎが上手く行かなくてね、時間が余っちゃったの。せっかくだから寄ってってもいいかしら、お土産もあるし。そうだ、今夜泊まっていこうかな。あ、今あんたのところの駅に着いたわ」

泊まってもいいかしらじゃないよ、お母さん。
それにしてもどうして羽田に着いた時点で電話をくれなかったの。まあ、そうしてくれたところで打つ手があったかどうかは不明だけれど。
電話に出て、はじめさん!
そんな願いも虚しくもう何度目かのコールはまだ繋がらない。
危機(母)は間もなくはじめさんを襲う筈だ。もう慌てたところでどうにもならない。
私の母がいきなり現れたら彼はどんなに驚くだろう。せめて帰って間に入りたい。
彼に限って感じが悪いということは無いと思うけれど、心配過ぎてこれじゃ仕事が手につきそうにない。
項垂れた私にオフィスから顔を出した上司が「みょうじ君時間が押してるぞ。仕事に戻りなさい」と情け容赦ない声をかけてくる。その憮然とした顔つきを前に、こんな超個人的な理由で”早退したい”なんてとても言い出すことが出来ない。
とにかくはじめさん無事でいて。
私は泣きたい気持ちで仕事に戻るしかなかった。





塾の業務が軌道に乗るようになり時間のやりくりにも慣れ、職に就いた直後よりも幾らか余裕の出来た今日この頃である。
持ち帰る仕事もかなり要領よくこなせるようになったおかげで、今日は休日でもあることから久方ぶりにゆっくりと時間が取れた。
なまえを会社に送り出し洗濯と部屋の掃除を済ませ、午後からは夕食の食材と惣菜の作り置きをせねばと買い物に出ようとすれば、スマフォの充電が切れかけている。
充電器に繋いでふと思案したが今日に限って切羽詰ったなまえからの着信があろうなどと、その時の俺は思ってもみなかった。
外出はほんの僅かな時間だと、結局スマフォを持たずに家を出る。
仕事を始めるに当りそれまでなまえが取っていなかった新聞を定期購買するようになったが、そうしてみれば広告チラシもなかなか馬鹿には出来ない。
特売などをチェックして出かけたがこのところ随分と野菜が高価になったように思う。
スーパーマーケットではなく裏道あたりにある八百屋を見に行けば、以外にも新鮮な野菜が安価で手に入ることを知った。
そこではなまえの好きな浅漬け用の胡瓜なども、形は悪いが緑の色が濃く棘はチクチクする程鮮度が良い。樽に入った青梅が大量に売られており、聞けばこれは梅干し用なのだと店主が言う。
これを漬けておけば秋には自家製の梅干しで彼女の好きな魚の梅煮や梅の叩きなどが作れるだろう。サラダのドレッシングを作るのも良い。
俺はビニール袋いっぱいに入った青梅を提げスーパーにも立ち寄り目ぼしい品を手に入れると、料理の下拵えの手順などを思い描きながら幾分高揚した気持ちでアパートへ戻る道を急いだ。
ズッキーニとスモークサーモンのピンチョスに冬瓜で水晶煮をするつもりである。それにオクラとトマトと長芋を使い、涼しげでボリュームのある和風の和え物でも作るといいだろう。酒好きのなまえにビタミンを摂らせなければ。
大通りから一本奥へ入り、すっかりと住み慣れたなまえとの愛の巣へと続く最後の角を曲がれば、アパート前のささやかなエントランスと白い門扉が見えてくる。
通常は閉じているそれが開いていた。
俺は何一つ想像などしなかった。我が家の前で起こっている出来事など。
しかし開いた門扉に感じた得体の知れない小さな胸騒ぎ。
天使は一般の人間よりも勘が強く働くと思う。俺は階段を昇る足を速めた。そうしてやがて耳に飛び込む話し声。
共用廊下を進むにつれ目に入るのは、なまえと俺の部屋のドアが開かれ中から顔を出している婦人の姿。その婦人に向かって受け応える男が二人。
これは一体何事だ?

「新聞ならいらないわよ」
「新聞の勧誘じゃないですよ。なまえちゃん……は仕事だよね。なら一君います?」
「はじめくんてどなた? あなた達はなまえのお知り合い?」
「そうですけどそちらは誰ですか? 一君を知らないんですか?」
「おい待てよ、総司。この奥さんはどう見てもなまえに顔がそっくりじゃねえか。もしかしてあんたなまえの母上か?」
「何だか馴れ馴れしいわねこちらの人、見た目は素敵なのに。ええ、私はなまえの母親だけど……まさかと思うけど、もしかしてどちらかなまえの彼氏なの……?」

でもこんな美形が一度に二人も現れるなんてどうなってるのかしら、なまえはなんにも言ってなかったけど彼氏なんて、まさか……と、婦人の独り言のような呟きが狼狽える俺の耳にはっきりと届いた。
ドアに近づき彼女の面立ちを見てしまえば間違いはない。小さな顔に大きな瞳がなまえとよく似ている。疑うべくもなくこの婦人はなまえの母上なのであろう。
俺の背筋に緊張が走る。
だが、何故なのだ? 何故この場に総司と左之が立っていなければならぬのだ?
俺の脳内は混迷を極める。
しかし困惑している場合ではない。
なまえの母上らしき婦人の「どちらかがなまえの彼氏」と言う言葉はどうにも聞き捨てならぬ。

「何をしている」

果たして俺の口から零れ出た言葉は力不足だった。
「あ、一君」と咄嗟に振り向く総司はニヤニヤとし、左之は困ったような苦笑を見せ何も言わない。

「あらやだちょっと、また新しい美形の登場?」

と言いながらなまえの母親が二人の肩越しに俺の存在に気づき、心底驚いたように眼を剥く。
ほんの僅かの間を置いて。
片手に大量の青梅の入った袋、もう一方の手に最寄りのスーパーマーケットの袋を下げた俺の、頭から爪先まで彼女はゆっくりと視線を走らせた。
常であれば少々のことには動じない俺である。
だがこの状況は。
彼女の視線を全身に受けた俺は言葉を失っていた。
総司や左之のことなどどうでもよいのだ。
今問題なのはなまえの恋人たるそして未来の夫たる俺が、未来の義母となるなまえの母親との初めての対面を、非常に拙い状態でしてしまったということなのである。
俺はくらりと眩暈に似た感覚に襲われた。





「き、今日は、母が! 母が家に来てるんです!」
「そ、そうか……、」

残業を言いつけかけ「どうか今日だけは勘弁してください」と必死の形相で訴える私に呑まれたように、上司はそれ以上の無理強いはしなかった。
一緒にお茶を配ったり会議の資料を纏めてくれた千鶴には既に事情を伝えておいたので、彼女も早く帰ったほうがいいよと後押ししてくれる。
逃げるようにオフィスを出て、帰宅ラッシュで混雑し始めた帰りの電車内でも浮足立ち、もうここで走り出したいほど焦る私は生きた心地がしなかった。
部屋の中はどうなっているだろう。はじめさんは? 母は?
とにかく一刻も早く帰らなきゃ。
夢遊病のように改札を通過しゼイゼイと呼吸を荒らげて駅からの道を走る。アパートの階段を登る時、足はもう自分のものではないみたいにガクガクしていた。
命からがら辿り着いた部屋のドアに鍵を差し込めば開いている。ドキドキする心臓を押さえながら扉を開け放つ。

「お、お、お母さん……っ、」
「あら、お帰り。早かったのね」
「なまえ、お帰り。迎えに行こうと思ったのだが」

ニコニコする母とキッチンに立つはじめさんの声が被って聞こえた。
私が想像したような(いや、怖くて想像はしきれなかったけど)とにかく修羅場にはなってなかったんだと、深いため息をついて短い廊下の真ん中で私はヘナヘナと膝をついた。
だけどどうして? 沖田さんと左之さんの笑顔が部屋の奥に見える。なんなの、この状況。
はじめさんがすかさず手を引いて助け起こしてくれるけれど、私は再び混乱していた。

「シェフは手が離せないだろ。迎えに行くなら俺が行っても良かったんだぜ」

立ってきた左之さんに頭を撫でられた私を、さりげなく引き寄せるはじめさん。

「僕でもいいしね。駅から電話くれれば良かったのに。お帰りなさい、なまえちゃん」
「総司は絶対に駄目だ」
「えー、なにさ。遠慮しなくていいのに」
「遠慮などしていない」
「なまえったらいつの間にモテるようになったの。お母さんびっくりしたわよ? あら、そう言えば忘れてた」

ニコニコと満面の笑みを絶やさずにやりとりを聞きながら、母がソファの脇に置いた荷物の中から取り出したお菓子の箱をテーブルに載せる。
あれは多分チョコレートをラングドシャで挟んだ私の好きなお菓子だけど、さっき言ってたお土産ってあれか。
続いてゴソゴソと取り出したのは包装紙に包まれた長い物体。

「斎藤さん、はいこれね、どうぞ、」
「本当に頂いて良いのですか。ありがとうございます」
「ご遠慮なく。叔母さんのは別に買ってきたしこれ家の分なのよ。気にしないで使ってちょうだい」

なんなの、この和やかな雰囲気。未だに事態の掴めない私。
はじめさんが嬉しげに頭を下げて母から勿体なさそうな手つきで押し頂いたそれ。母はひどく上機嫌の様子である。
彼の手がゆっくりと包装紙を開けば出てきたのは昆布だった。
ああ、これはデジャヴ?
刀の鑑定でもするかのようにビニール袋に入ったままのそれを、頬を緩めた彼が裏表返しながら惚れ惚れと眺める。

「利尻昆布はやはり立派です」
「なまえちゃんのお母さんと一君の昆布談義は面白かったな。君がそんなに昆布に拘わり持ってたなんて知らなかった」
「いや、斎藤の取る出汁は最高だろ? いつだったかここでうどんを食べたがあれは実に美味かったぜ」
「ほんと? 今夜は何作ってくれるの、一君?」
「何故あんた達にまで俺が……、」
「まあ、いいじゃない。それより斎藤さんのような人に料理してもらえば昆布も本望ね。ほんとに今日来てよかったわ」
「はい、以前は伝える事が出来ませんでしたが、なまえの母上には大変感謝していました」
「やだわ、そんな、昆布くらいで」
「いいえ、この利尻昆布に俺はどれほど救われたか知れません。これからもなまえの食生活は俺が必ず守ります」

なんなのよ、留守の間ここでどんな話になってたの、私抜きで?
楽しげな目の前の雰囲気に(特に幸せそうなのははじめさんだったけど)溶け込めないまま立ち尽くし、まだ困惑を続けるのは私だけだった。
はじめさんは満足げに一頻り昆布を眺めてから、緩んでいた頬を引き締めいつものように慣れた手つきで出汁を取り始めた。


This story is to be continued.

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MATERIAL: blancbox / web*citron


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