Are you an angel? | ナノ
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17 二人の距離はゼロセンチ


壁掛け時計の針は既に午前0時を回っていた。
キーボードを叩く音。遠慮がちな足音。そして時折漏らされるごくごく小さな溜息。溜息には時折噛み殺す様な欠伸が混じる。
二時間ほど前から室内にあるのは、それらの微かな音と秒針が時を刻む音だけだ。
俺の隣にいたなまえがまた足音を忍ばせるようにそろそろとキッチンに立って行った。
紅茶を淹れたマグカップを両手に俺の傍に戻り、テーブルの上に開いたパソコンから遠く離した位置にコトリと置く。
ソファの右隣に並んで腰かけ暫く黙っていたが、遠慮がちな指先がそっと俺の髪に触れた。

「少し休憩した方が?」
「ああ、」
「…………、」

なまえは日頃から俺の髪に触れるのを好んでいる。
初めて髪を三つ編みに編まれてしまった時は絶句し「可愛い」などと言って笑うなまえを茫然と見つめ、それでもその幸せそうな笑顔に絆された俺は諦めて、以来彼女の好きに任せるのが常のこととなっている。
今とて咎めたわけでなく特に声音が冷たかったという事もないと思うが、いつものように髪を弄ぶ彼女の指がふと離れたのが気になり、パソコンのモニタから目を離さないままに改めて声を掛けた。

「どうした、なまえ?」
「邪魔、してるよね、……ごめん」

はっと彼女に視線を移せば俯いて、小さな謝罪の声は消え入りそうだ。
週三回から四回の約束で世話になっている塾講師の仕事だが、プロの需要の多い職種であるにも関わらずこの業界は収入面で見れば非常に水準が低く、俺の職場となったそこも例に漏れず万年人手不足である。俺は個人の特殊事情から非常勤の年俸制という有難い立場で仕事をさせてもらっている関係上、つい様々な雑務を請け負ってきてしまう。
授業準備や下調べなども現地でやらず持ち帰る為、拘束時間は短いと言うものの夜の時間がかなり削られる。
有事であれば天界へ戻らねばならない故こうした仕事を選ばざるを得なかったわけだが、業務は午後からであり現在のところは心行くまで家事をする時間も足りているのだ。感謝せねばなるまいと思っている。
しかし俺としたことがうっかりしていた。
週末は月に一度しか休みが取れない。我々天使が如何な特殊能力を持っていると言えども初めてのことばかり故、業務に慣れる事を第一義とした生活を強いられれば、自ずから余裕と言う物もなくなる。
家に仕事を持ち込むようになって以来、なまえと夜を共に過ごす時間が激減してしまったのだ。
今作っているのは過去の模擬試験の例題集だ。元稿は出来ているのでフォーマット通りに入力を済ませれば終わりである。

「あと少しで終わる。すまん」

手を伸ばしなまえの髪を撫でれば風呂上がりのシャンプーの香りが鼻を擽った。
俺とてなまえとゆっくりと過ごしたい気持ちはやまやまであるが、今は此れを終わらせない事には。
程なくして作業を終えやれやれと横を見れば、なまえはソファの向こう側の肘掛けに身体を預け寝入っていた。
風邪を引いてはよくないと抱き起せば細い腕が俺の頸に回され、起きているのかと顔を覗けば瞼は閉じられたまま。眠ったままでも求められているのかと思いたまらない気持ちになる。
抱き締め髪に鼻先を埋めればシャンプーとなまえ自身の甘い香りに劣情が疼く。
思えば暫く触れていない。抑えが利かずに眠る唇を塞げばなまえは苦しげに身を捩った。
同じ部屋に居ながらもろくに相手も出来ず、すれ違いばかりで寂しい思いをさせているという自覚はあった。
しかしなまえに解って欲しいことがあるのだ。
俺は現在もHEAVENのソルジャーであり除隊しているわけではない。収入だけで言えば十分過ぎる額を支給されている。それでも地上における仕事に拘る理由がある。
順を踏んで己の身上も立場も明かすつもりではいるが、地上での定職を持たず家でブラブラと家事だけをしている男が目の前に現れ、あまつさえ天使と名乗り結婚の許しを乞われた場合、なまえの両親が如何なる反応を示すかは想像に難くない。
なまえの前に俺が初めて姿を見せた時の反応は特殊なものであったろうと思うが、彼女でさえもそれなりに驚いていたのだ。
俺には己の来し方や生き方を恥じる気持ち等はないが、種族や収入または社会的基盤等と言ったことを気に掛ける、それが人間というものであると認識はしている。
だから俺は手に入れたこの仕事を失いたくないのだ。
軽い身体を抱き上げベッドへと運ぶ。
前髪を撫で上げて額に口づけ瞼へ頬へと唇を滑らせれば眉を寄せ、喉の奥から「んん、」とくぐもる声を漏らすが、瞳はやはり閉じられたまますぐに小さな寝息が聞こえる。今俺がどれほど渇望し求めていたとて、欲望の為になまえの眠りを妨げるのは忍びないというものだろう。
今宵も無理かと大きなため息を一つつき、致し方なく俺は浴室へと重い足を運んだ。





仕事を終わらせて帰宅した金曜日。
ドアを開ければ今日は出勤のないはじめさんがキッチンから顔を出した。揚げ油のいい香りがしている。

「なまえ、お帰り」
「ただいま。あれ、いい匂い」
「魚屋がこれを勧めてくれた」

いつものスーパーの並びにある魚屋さんのことを言ってるのかな。私自身は入ったことも(入ろうと思ったことさえも)ないのだけれど、あまり目立たないそのお店の古ぼけた佇まいを思い描いてみる。流石ははじめさんだ、目のつけ所が違う。
鞄をソファに放り投げてキッチンに立つ彼の横から手元を覗き込めば「手を洗ってくるのが先だろう?」と笑った。
ここの所仕事が忙しくていつも難しげな顔をしていたはじめさんの、優しい表情を久しぶりに見て嬉しくなった私は、子供みたいに「はぁい」と返事をして洗面室へと向かう。
塾に行かない日でも私が帰宅する頃にはパソコンの前に座って居たり、指導書や参考書みたいなものを読んでいることの多いこの頃だったから、殊更に嬉しくなってしまったのだ。
この美味しそうな匂いは魚の天ぷらだ。
バッドにペーパーを敷いた上に、可愛らしい銀杏みたいな形をして薄衣を纏った揚げたての魚が、じゅわじゅわと油の切れる音を立てて載せられていく。
彼の左手の菜箸の華麗な動きに目を輝かせ「これは?」と聞けば、最後の分を揚げ終わってガスの火を消したはじめさんが私をじっと見つめた。
見慣れて居る筈なのにその澄んだブルーに見つめられるとドキリと心臓が跳ねる。
ふいに彼が私に顔を近づけた。唇に触れる柔らかな感触にまた心臓が音を立てる。

「ちょ……、っと、」
「キスだ」
「は?」
「キスの天ぷらだ。知らないか?」
「キスの天ぷら……、しっ、知ってるよ、それくらい!」

見なくても自分の顔が発火しているのが解る。それなのに何だか余裕の笑みを浮かべているはじめさんがちょっぴり悔しい。
大き目の平皿に敷き紙が敷かれキスだけじゃなく筍や椎茸、茄子やしし唐の天ぷらも美味しそうに盛りつけられていくのを、少し拗ねてじとりと見つめているとはじめさんがまたクスリと笑った。

「悪かった、そう膨れるな。ビールが冷えているぞ」
「ほんと? 私、グラス出すね」
「ああ。箸とそこに出した小皿も運んでくれるか」
「はい!」

ビールの一声で他愛なく機嫌を直してしまう単純な私。そしてこっちを見て彼がまた笑うと私はやっぱり幸せな気持ちになる。
ふとシンクの隅の三角コーナーが目に入った。揚げたて黄金色の天ぷらに再び目を移す。
あの内容物からしてこの魚はどうやら彼の手によって捌かれたらしい。言うまでもなく天つゆも彼の手に成る物だ。
それらがテーブルに運ばれた後はじめさんが冷蔵庫からもう一枚大きなお皿を出してきて、見るとそれは薄桃色のお刺身が花弁みたいに綺麗に敷き詰められた尾頭付きだった。
ひゃー! この可愛らしいつぶらな瞳、翼のように広がった美しい鰭!
可愛いけれど美味しそう。

「すごい! これって、トビウオ?」
「ああ、魚屋の主人に大名おろしというのを教えてもらった」

仕事が忙しくなってからも以前と変わりなく一切の手抜きなく、栄養バランスのいい食事を用意してくれるはじめさんだけれど、今日はまた一段と手を掛けたお料理が並ぶ。
薄いブルーのグラスにビールを注ぎ合って二人でカチンと合わせ、私が一息に半分ほど呑めば彼はまた笑う。

「相変わらずいい呑みっぷりだな」
「今日は本当に暑かったんだもの」

はじめさんも満足げにグラスのビールを飲み干した。
彼と暮らすようになってから旬の食材を知るようになった。カラリと揚がった筍がとても美味しくて、次々にお箸を伸ばせばはじめさんが目を細めて私を見つめる。
どうしたんだろう。今日は何かあったのかな。
口を開こうとした私よりも早くはじめさんがグラスを置いた。

「なまえの心は変わっていないか」
「え?」
「暫く寂しい思いをさせてしまったが」
「私は何も変わっていないよ? はじめさんが大好き」
「そ、そのような事を食事の途中で……っ」

はじめさんがさっきの私みたいに突然真っ赤になった。この顔も久しぶりだ。私の一番好きな顔。一瞬見惚れつつ女性らしく尽くすことがまるで出来ていない私に向かって、こんな事を言い出す彼に思わず手が止まる。

「私の方が何も役に立ててなくて、はじめさんに悪いといつも思って……」
「そのような事はない。なまえがなまえでさえあれば、傍にいてくれればそれ以上に望むことは俺にはない」

彼の指先が触れていたグラスにビールを注げば、また一息に呑み干してから更に物言いたげに私を見返しながらその目元を染めている。
私の心にひたひたと幸福感が広がっていく。次の言葉を待ってその引き締まった口元を見つめると、彼はややあって口ごもりながら呟くような小さな声で言った。

「クリスマスにした約束を……憶えているか」
「……え、」

はじめさんの視線が天つゆのお皿に添えた私の薬指に移っていった。このリングを彼に贈られたあのイブからもう半年近くになる。
彼の腕の中で交わした永遠の誓いを忘れるなんて、そんなことある筈がないじゃない。
ついあの夜を思い出してしまい、私の頬にもまたじわりじわりと熱が上っていく。
あのプロポーズを憶えているかと聞いているんだよね?

「なまえの父上と母上に、その……許しを得たい」
「え……、え?」
「六月になったら訪ねたい」
「……ほ、本気で?」
「無論、本気だ」

はじめさんが口にした言葉は至極全うで当たり前のことだと解っている。
頭では解っているんだけれど、自分の両親のこととなると物事が急に大袈裟に、いや、大袈裟とかそういう問題じゃないのも重々解ってはいるんだけれど、彼と将来を共に生きていくという事は即ち彼の奥さんになるという事で、それが唐突に現実味を帯びて来た気がして、頭のてっぺんに到達した熱は今やどうしようもない程で、胸の鼓動がますます早く強く打ち始めるのを感じた。





細くしなやかな身体は歓びに戦慄き、小さな唇から漏れる吐息は俺の耳だけでなく心までを震わせる。それでもまだ足りないと貪欲に求めて更に愛撫を施して行けば、細く高い声を上げてなまえがいじらしい啼き声を上げる。
何時からだっただろう。なまえがこれほどに俺の指に唇に応え望むままの反応を示すようになったのは。
初めて抱いた日の初々しい姿も愛らしかったが、今俺の身体の下で俺を受け入れ潤んだ瞳で見上げるなまえに、身も心も全てが融かされていくようだ。
両の指を強く絡め合い愛を交わしながら、なまえの薬指にある控えめな光を宿したダイヤモンドと貴石の、白と青の配色に口づけ幸福感に酔う。
幾つものカルマを乗り越えてきた俺達はきっとこの先何があろうとも、互いを信じ合っていけるだろうと思う。

「はじめさん……、」

甘美な声で俺の名が呼ばれれば愛しさは募るばかりで、近い将来には彼女を妻と呼びやがては愛の証を授かる事を夢想し、完全に沸騰した頭の中で気の遠くなりそうな幸せを噛み締めた。
やがてじわじわと這い登る喜悦に自制心を破壊され、ただただなまえと共にどこまでも深く極上の快楽に溺れていく。
強く抱き締め合い隙間なく合わせた肌は薄っすらと汗ばみ、求め合う心と同じに互いに吸い付き合うようだった。

「愛している、なまえ」
「はじめ……、わたしも、」
「もう二度とおまえを」

離さない。
俺がなまえを手放すことなどこの先もう決してないだろう。
俺の腕の中に在る宝は当たり前の存在ではない。見失いかけてはこの手に取り戻した得難い存在。
なまえをこれからも大切に守り続けようと、至福の時を過ごしながら己の中の真実と向かい合う。


This story is to be continued.

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I am in love with an angel every day!



MATERIAL: blancbox / web*citron


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