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48 暗殺  


十八日夕、近藤勇は国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東甲子太郎を招き酒宴を張った。あわよくば活動資金の無心をする腹のあった伊東は快く応じた。各々の心は真っ二つに割れているにも関わらず宴席は和やかに進み、持ち前の穏やかさでもって近藤は笑う。

「ご高説大変勉強になりました。いや、お互いしっかりやりましょう」
「近藤先生がご理解あるお方で本当に助かりますよ。これからもぜひ違う立場からの相互協力を」

白々しいと思うが土方は顔色を変えない。
伊東の建白書の内容は己の首を狙われる事以上に近藤を激怒させている。満面の笑みを浮かべ高らかに笑う近藤は、かつて憧憬を抱いた伊東の粛清にもはや躊躇いなど微塵もなかった。
亥の刻、すっかり機嫌よく酔った伊東が辞すれば少し後、土方も無言で近藤の妾宅を後にする。それから幾分も待たず。既に新選組の伏せている本光寺付近をふらふらと歩く伊東の首が、何の口上もなく突如として貫かれた。

「…………!?」

首に衝撃を感じた伊東本人には、何が起こったのか瞬時に理解出来なかった。すぐに囲まれた彼は、脊椎反射で抜いて降り下ろす刀で眼前の男を斬り伏せる。
槍頭が首に刺さったまま振るわれた伊東の凄まじい一刀に、やはり只者ではないと原田が目を剥く。足で身体を蹴り飛ばし槍を引き抜けば、真っ赤な血が首から噴き上がり「奸賊ばら!」と叫んだ伊東はゆっくりと倒れ伏し絶命した。
手筈通りに数人で粛々と亡骸を運び油小路の四つ辻に放置すると、物陰に潜んで待つ。御陵衛士の連中がすぐに駆けつけてくるはずだ。
こんな緊迫した状況なのにどこか余所事のように感じ、原田は夜空を仰ぎ見る。こうして暗闇に溶けていれば半分近くに欠けた月でもやけに明るいものだと原田は思った。
一方の高台寺では、町奉行より急報を受けた篠原泰之進が怯える鈴木三樹三郎を叱咤する。

「新選組の仕業だ。新選組に我ら一同殺されますよ!」
「落ち着け!」

その夜に限って屯営に残留していた人数は少なかった。この日もやはり斎藤は帰営していなかった。取るものとりあえず少数名で伊東の亡骸を引き上げる為、油小路へ急行する。
篠原の腸は煮えくり返っていた。普段の人の良さそうな顔は一変し鬼の形相であった。
平助は高台寺党で少し前に決定されたばかりの近藤暗殺計画にまだ己の道を決めかねていたところ、そこへ突如として起こった伊東の横死に戦慄する。下手人は新選組に違いないと平助にもすぐにわかった。
篠原らと共に駆けつけた彼を待っていたのは四十数名の隊士達の中、悲しい程に懐かしい顔ぶれだった。
原田や永倉がいる。刹那目が合うもすぐに斬り合いが始まった。平助は凄まじい勢いで刀を振るい、向かい来る敵を躱していく。
永倉は彼を助けたいと思っていた。
元より土方も平助は助けたかった。

「上手くやってくれ」
「おう、任せてくれよ、土方さん」

事前に予め密かに含められた永倉に、異存のあろう筈はない。しかと請け負ってきたのだ。剣戟の中心に踊り出ると既に幾つもの刀創を負った平助を真っ直ぐ見据える。

行け、平助!

新ぱっつあん!

目だけの合図を受け、永倉が刀で巧みに開いた活路へと平助が走り出した刹那、その背を新選組の格下隊士に袈裟に斬られた。
「……!」声も上げず昏倒した平助は、どぶ板の間に頭を突っ込んでそのまま動かなくなった。

「平助!」

早い段階に遁走した三樹三郎を含む数名の他、新選組への憎悪を滾らせながらも数の劣性に屈し篠原泰之進も撤退する。伊東甲子太郎の暗殺は為され御陵衛士の陰謀は破られた。
中天の半月が血まみれに倒れた数々の骸を薄く照らしている。いつ見ても誰の目にも薄ら寒い光景だ。
息のある者を屯所に運び込む際、篠原らが死亡したものと捨て置いていった平助も共に収容した。
眠ることなどとても出来ずに自室の床の上に座っていた千鶴は、深夜になって土方に呼びつけられ、血まみれ泥まみれで意識のない平助と久方ぶりの対面をした。

「平助君」
「重症だ。しかしこいつに医者を呼ぶことは出来ねえ。お前が診てやれ。他言はするなよ」

千鶴がこくこくと頷く。平助の救出は極秘であることが千鶴にもよくわかっている。平隊士の出入り出来ない奥まった一室で平助はぐったりと横たわっていた。
千鶴の頬を涙が伝うが手を止めず気丈に血と泥を拭っていく。泥だらけになった平助の顔を何度も濯いだ手拭いで丁寧に拭く。桶の水はすぐに赤黒く汚れた。
以前松本良順の治療を手伝った事を思い出し応急手当を施していった。

「平助君……」

伊東甲子太郎の横死により御陵衛士はほぼ壊滅したと見ていい。しかし新選組隊士の中には規約違反で切腹した者がいる。表だって平助を受け入れる事は出来ないのだと理解してはいるが、悲しみの涙が止まらない。
かたりと音がして永倉が顔を覗かせた。血のべったりとこびりつく平助の身体中を拭いながら傷口に薬を塗りつける千鶴を見下ろし、立ったまま沈鬱な面持ちで永倉が俯く。

「助けるつもりだったんだぜ、なのにこんなにしちまってすまねえ、千鶴ちゃん」
「いいえ。生きていてくれただけで嬉しいです。ありがとう、永倉さん」
「すまねえ」

頭を下げる永倉に千鶴は涙を零しながらも、心からの言葉をかけた。



井戸端で原田が顔を顰めた。自分の血か返り血なのかよく解らないものを洗い流す。水を浴びると小さな傷に染みる。それとも冷えきった夜気の中、冷水が肌に染みているのか。
身を清めた原田は真っ直ぐに名前の部屋へと向かった。既に丑の刻である。引き開けた障子の中で名前は昏々と眠っていた。
昼間気を失って倒れた名前は発熱しており、連れ帰って千鶴の協力で着替えさせ床に就かせた。どうやら疲れから感冒にかかっていた様子である。今夜の粛清の頭数に入っていた原田は後ろ髪を引かれる思いで千鶴に名前を託し出動した。
島原で女といた斎藤に出くわした時、名前は涙さえ見せなかった。あの時の名前は人形のように表情がなく、代わりに目の前の事を受け止めるのを拒否するかのようにそのまま意識を失ったのだ。
彼女の寝顔は憂いもなく静かである。原田は目を逸らさずに見つめたまま、口に出来ない想いを心で幾度も訴えた。

もう俺にしちまえよ、名前。

額に載せられた手拭いが熱くなっていたので枕元の桶で濯ぎ、また額に当てれば皮膚の薄い瞼が微かに震える。目を覚ますのかと固唾を飲んで見守れば、唇が薄っすらと開いたように見えた。

「名前、どうした」

吐息が漏れる。音にならない声を聞き取る為、原田は名前の唇に耳を寄せた。

「ん? なんだ?」

もう一度繰り返された言葉が耳を通り脳に達した途端、自身の顔から血の気が引いたのがはっきりと解った。目を見開いた原田は身を起こし、その言葉を身の内に繰り返す。
吐息はこう聞こえたのだ。

はじめさん。

原田が顔を歪めた時、音も立てずに背後の障子が開いた。ほんの僅かに月の影が落ちる。
それはひどく唐突だったが原田は驚きもせずにじっとしていた。当然来るだろうと思っていたからだ。面に深く暗い翳りが差すが表情は動かないまま。

「左之」
「…………」

声の主はしばらくその場に立ち尽くしていた。原田は応えなかった。名前の傍らに腰を落としていた背に静かな視線だけを感じた。
長い沈黙の後、やっと彼は口を開く。

「ご帰還かよ」
「…………」
「任務の事はわかってんだ。色々訳があったってこともな」
「…………」
「だが俺はもうこんな姿、見ていたくねえ」
「…………」
「なんとか言えよ、おい」

前を向いたまま弱々しい声で独り言のように続け、僅かな苛立ちを見せ返答を促した。
やがて斎藤が低い声で、だがはっきりと言葉を紡ぎだす。その言葉がまた原田を打ちのめすようだった。決意というほどの気負いもなく、それは心情が自然と音になった、そんなふうに聞こえた。

「名前を裏切る事を俺は決してせぬ。今までも、これからもだ」
「…………」

わかっていたさ、そんなことは。恐らく、名前もわかってるんだろう。

深い溜め息をついて立ち上がった原田は、斎藤と一度も目を合わさぬまま横を通り過ぎ部屋を出る。
斎藤が肩越しに振り返り原田の歩き去った方を見やれば、お手上げだと言わんばかりに肩を竦め両手を小さく上げた。
名前のことに限っちゃお前には勝てねえんだなあ。その背はそう言っているようだった。


名前は眠っている。斎藤は入れ違いにゆっくりと部屋に足を入れ、名前の床の際に膝をついた。そしてまるで独白するように微かな声で呟く。彼女の耳に聞こえずとも心に届けばいいと思う。

「俺が想う女は、生涯名前一人だ」

ぽつりぽつりと間を置きながら考えながら彼の低い声音が続いていく。



あの後――。
どれ程名前を追いかけたいと思ったか。原田の胸に意識を失って抱かれた姿をどれ程の思いで見送ったか。奪い返して誤解だと叫び洗いざらい何もかもを吐露してしまいたかった。
原田が名前を想っている事はとうに知っている。あの場にあって原田がした事は、立場を違えて考えれば至極当然であり咎める事などは出来ないが、それでも出来る事ならば追いかけて奪い返したいと思った。
しかし取り乱した朝露を放っておくことも出来なかった。あの場を放置するのはあまりに危険過ぎた。
取り敢えず茶屋に取って返した斎藤は元居た部屋に戻る。黙ってついてきた朝露を座らせ斎藤は初めて部屋の中央に自分も座った。声を抑えて言葉を選び話し始める。

「そのような迷いを抱かせた事は俺の責任だ。許して欲しい」

朝露は俯き膝に置いた手に涙をぽたぽたと落としていた。斎藤は己の中のやるせなさを押し隠し静かに続ける。

「しかしお前に応える事は出来ぬ」

目を上げた朝露は自分を見つめる真摯な眼差しにひととき魅入られる。そしてそこに一種の喜びと、相反した諦めの気持ちを同時に抱かざるを得なかった。
それでも唇から溢れる言葉は縋ろうとする。

「たった一度だけでも、駄目なのですか……」
「命を懸けて守りたい女がいる」

朝露はふと玄関での事を思い出した。感情を制御しかねた自分の目の端に確かに映っていた一人の女の人。男みたいな格好をしていたが朝露の目には女性にしか見えなかった。とても綺麗な人だった。

「……もしや、先程の」

それには答えぬまま、斎藤はごく微かに切なさと愛おしさの滲んだような目をした。これまでに朝露が見てきた斎藤は一度もこんな目をしたことがなかった。

「誰に知られなくとも、俺は彼女に不実をせぬ」

朝露はまだ涙を流し続けていたが、やがて泣き顔に無理矢理に笑みを浮かべると小さな声で呟いた。

「貴方様にそのように想われるなんて、幸せな方………」
「そうではない。大切な人を危険に晒してばかりだ、俺は」
「え?」
「お前はこのまま立ち去れ。俺は命を狙われている」

芸妓が客の事情に嘴を挟むなどと、と今更ながら思いつつ朝露が口走る。

「それは、どういうことですか?」
「これ以上は言えぬ。立ち去れ、朝露」

彼女はこの男が自分のような者に対してさえも誠実であり、嘘を吐いているようにはとても見えないと思った。そして最後の最後に初めて呼ばれた自分の名に、もうそれだけでいいと思った。涙は止まらぬままだったが深く頭を下げると黙って座敷を出ていく。
それから数刻。斎藤は名前に想いを馳せたまま夜までずっとそこに居た。伊東がその生を終えた瞬間も黙って身じろぎもせずに窓辺に凭れていた。
深夜になり裏門から侵入した屯所の奥、斎藤がある一室を訪れれば、部屋の主は予め解っていたように手厚く迎え入れ、疲れた顔に薄く笑みを張り付けた。

「長い間、ご苦労だった」
「恐れ入ります」
「伊東の始末はついた」
「はい」
「だが、」
「心得ています」

幹部には全てが明かされたが新選組全体としては斎藤の間諜活動を知らない。直ぐの復帰は危険であるため不可能であり、帰参には少々の時間を要する。無論斎藤にとっても端から承知していたことだ。
帰隊まで三浦休太郎の警護につく件が決まっていた。



まるで自分自身にも語るようにゆっくりと言葉を続けながら、名前の額の手拭いを濯いで額に当て直しその手を頬に滑らせる。滑らかな感触に心の裡から愛しさが込み上げる。やっとこうして会えた。
そっと撫でていると細い腕が上がり、手が重ねられると同時に長い睫毛が持ち上がった。名前の唇が微かに開く。

「……名前」
「お帰りなさい」
「名前……」

今にも泣き出しそうに切なげに斎藤が眉を寄せると、名前が少し赤い顔を綻ばせる。たまらずに掛布の上から細い身体を抱き締めた。小さな身体は高い熱で熱い。それでも名前の両手が抱き締め返し、まるで逆に慰めるように彼の背を撫でた。
言葉よりももっと深い絆で結ばれているのだと思った。一つにした心とその身は己の半身なのだと互いに感じる。確かに信じられるその存在に斎藤は己の全てを預けた。



伊東粛清の三日前の夜、坂本龍馬が暗殺される事件が起こっていた。
現場に残された刀の鍔、及び証言による暗殺者の「こなくそ」と言う言葉から伊予出身の原田が疑われる。
しかしこの夜、原田は間違いなく屯所にいた。
二十六日、この件について近藤は旧幕府から事情聴取を受ける事となった。


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表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

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