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47 隙意の一日  


気の逸る鈴木三樹三郎は掴んだこの重大事を早く兄に伝えたくて仕方がなかった。外出中で深夜か遅くとも明日には帰営予定の兄をある種の興奮と共に待ちわびる。
三樹三郎は剣の腕はそこそこ立つが、篠原も認める同志伊東甲子太郎の実弟にしては内面が小者だ。この男はどこか女々しい所があると篠原は思っていた。同志の中で年長の部類に入る自分から見れば、年も若く思慮はあまり深くないようである。
三樹三郎は自分の勘はやはり当たっていた、そう思うと嬉しくて仕方がない。篠原はそんな彼を冷めた目で見ている。斎藤と同じくらいの歳だろうにこうも違うものか。
そう言えば斎藤は今日も屯営に戻らないのか。

「間違いない。あいつはやはり私の想像通り……」

高台寺の金庫の金がごっそりと消えた。
三樹三郎はほくそ笑んだ。そわそわと兄の帰りを待つが、この情報が伊東甲子太郎の耳に入る日は永久に来ない。



吹き込む風が大分冷たくなった。ふるっと身体を震わせた朝露を見て取り、斎藤が静かに窓を閉める。
行灯の油がちりちりと音を立てた。
相変わらず無口だけれど優しい人。心が温かくなり思わず口許に手を当てて微笑みを浮かべる朝露は、次の瞬間に信じがたい言葉を聞いた。

「ここへ来るのは今日が最後だ。お前には世話になった」

嘘。

小さな幸せに占められていた心が急速に冷える。たった今まで染めていた頬を強張らせ斎藤を見た。
斎藤と自分は巷間の普通の男女ではない。斎藤が客として訪れてくれなくなったらもう二度と会う事は叶わないだろう。ふいに押し込めてきた密かな思慕が溢れだしそうになるが、朝露は立場を弁えて何とか堪えようとした。

「そうですか。私のような者をこれまでご贔屓にしてくださって……」

しかし、この後の言葉が続かなかった。
斎藤は常と変わらず薄い表情をほんの少し怪訝そうなものに変えて朝露を見ている。
客に本気で惚れてはならない。よしんば惚れてしまったとしても客に悟らせてはならない。それが芸妓の掟であり弁えである。雛妓と言っても同じことだ。
悲しくも後者は成功したようだ。
いつしか許されぬ想いに囚われていた。これ程長い期間自分一人だけを呼んでくれていたのだ。馴染み客と言っても差し支えないと思っていた。
こうしていれば、いつかは――。
斎藤は今日まで朝露に指一本触れる事がなかった。余程疲れている時にうたた寝をすることはあっても、その時でさえ窓辺を離れず床には入らない。常に傍らの刀を離しもしない。
決して冷たい人というわけではない。

「疲れたならば、俺を気にせず休むといい」
「でも、斎藤さんは、」
「気遣いは無用だ」

優しさを見せてはくれるが、男女の営みの為に敷かれた褥に、独りで休めと言われる女の切ない心持ちを斟酌してくれる事はなかった。
彼にとって自分はいつだって女どころか芸妓でもなく、ただの空気みたいな存在でしかなかったのだ。未だ心稚ない朝露は悲しみのあまり、ついに頽れてしまった。



千鶴は午前中に屯所の近くにいつも来る顔馴染みの油売りの世間話を聞きながら、男が背負ってきた桶から掬った油を油徳利に慎重に移すのを見ていた。粘った油は移すのにとても時間がかかる。
日が短くなったので行灯に差す油の使用量が増えた。十一月に入りめっきり寒くなったし今年の冬は早く来そうだと思った。屯所では早くから皆が行李の冬物を出し始めているようだ。
千鶴と同じように名前にとっても、いつもと変わらぬ普通の一日であった。

「出掛けるのか? 俺もそこまで出るから一緒に行こうぜ」

玄関先で原田に声をかけられる。土方の仕事を手伝うようになってかなり経ち、墨や細筆の扱いにもすっかり慣れた名前は仕事を片付けるのが格段に早くなっていた。頼んだよりも早く仕上げて持ってくるのに満足げに頷いた土方から使いを言いつかっていた。

「この後用がねえなら墨を買っといてくれ。夕刻にちっと出掛けるから、それまでには戻ってもらいてえんだが」
「解りました。すぐに行ってきます」

自分の分もちょうど切れかけていた名前が外へ出ようとした所だった。
かけられた声に戸惑う。いいとも悪いとも返事の出来ずにいる名前と肩を並べて歩きながら、原田がこと更に明るい声を出す。

「もう今日の分の仕事は終わったんだろ? 総司のやつが金平糖買ってきてくれって言うんで甘味処に行きてえんだが、お前付き合ってくれねえか」
「でも……」
「ああいうとこは苦手なんだ。男一人で行くのは気が引けるんだよ」
「…………」
「千鶴もいねえし新八は巡察だしよ、他に頼める奴もいねえ。名前は汁粉、嫌いか?」
「……嫌いってわけでは」

逡巡を続ける彼女に拝み倒すような口調になる原田だった。
名前はあまり考えないようにしていたが、前に聞いた沖田の言葉を忘れたわけではなかった。

君を想っているのは何も一君だけじゃない。

斎藤との間が拗れて悲しみに沈んだ名前に向けられたその言葉。それを鵜呑みにしたわけではないが、目の前で優しく笑うこの人とそんなところに出掛けていいものか。

お使いとは言え、知ればきっとはじめさんは嫌がる。

原田を巡っては過去に何度も齟齬があった。斎藤は己を嫉妬深いとまで言い切ったのに、こんなふうに出かけるのは軽はずみではないのか?
だが意味もなく断るのも原田を何か意識しているようで変かも知れない。思い迷ううちに結局は並んで歩きながら街に出て、墨を買う名前にさりげなく付き添うように原田がついてきた。墨は手に入れたが本意でないながらも付き合わせてしまった手前、先に帰りますとは流石に言いにくい。原田が「あっちだ」と目で島原の方向を差す。
名前が当惑した顔をすると、原田が少し困ったように

「別に邪な気持ちで言ってるんじゃねえ。勘違いするなよ。お前最近また落ち込んでるだろ? 甘いもんでも食えば少しは元気も出るだろうと思っただけだ」
「……では、金平糖を買うのに付き合います。でもお汁粉じゃなく皆さんにお土産でお団子を買って戻りましょう?」
「はあ。お前がそう言うなら、まあそうするか」

原田は少し残念そうに笑った。

「今出川に金平糖ばかり売ってる店があって、緑寿庵て云うんだけどね、そこのがいいな」

総司が贅沢な事を言っていたが、今出川は少し遠い。今日はそこまで行くには時間と余裕があまりない。
政情不安に揺れる毎日だ。新選組でも今夜から確実に事情が変わってくるだろう。
出掛けようとした名前とちょうど重なった。ただ使いに出るだけのほんの短い時間だが、塞いだ名前の気分を出来れば明るくしてやりたかった。

今夜からは。

器用で機転も利き男振りのよい原田は女によくもてるが、名前への想いだけは未だ拭い去ることが出来ずにいた。

俺も情けねえ男だな。だがこんな時だ。名前を元気づけることくらいしても、罰は当たらねえよな?

昼間の島原は夜とはまた違うのんびりとした風情を見せていた。原田は名前の心が浮き立つような話題を選びながら歩く。永倉の島原での取って置きの逸話を面白おかしく話して聞かせれば、名前が珍しく声を立てて笑った。

「新八はあれで女にもてると思ってやがるんだな」
「永倉さんだって素敵なのに」
「黙ってりゃあな。あいつはすぐ調子に乗るからいけねえ。おまけに女心をまるで解っちゃいねえんだ。この前もな……」

不意に息を呑み、足を止めた名前が前方を凝視した。
彼女の横顔を見ながら話していた原田が自然とその視線の先を追うと、男の背に女が縋り付く光景を捉え、男の姿を視認するなり原田の足もぴたりと止まった。
それは茶屋の玄関先、そこにいたのはどう見ても一夜を明かした風の男女である。そして背中の女を振り返っているのが、あろうことか斎藤であった。
名前は目を当てたままその面を蒼白にしている。



「一度だけでいいんです。私を好いてくださいとは言いません」
「…………」
「一度だけ女として見て欲しいんです……」

茶屋の座敷に潜伏していた斎藤は、立ち去ろうとする自分を追いかけてきた朝露に困惑していた。朝露はもはや立場も何もかもを忘れて、なりふり構わずに斎藤の背に縋りつく。
自分の身に起こっている事が咄嗟に飲み込めない斎藤は言葉もなく、女の手を振り解く事も出来ぬまま涙を流す必死な姿を見下ろしただ固まっていた。
このような事は想定外である。困り果てて泳がせた彼の目に映ったのは――。
二間程の距離で凍りついたように立ち尽くす名前と、その隣に立ち射抜くような瞳で自分を見据える原田の激昂した目だ。

名前が、何故ここに……。

斎藤もまた驚愕に目を見開いた。
名前の顔は色を失い、明らかに誤解をしているのが見て取れる。
違う!
そう叫びたかった。しかし今ここで彼女に駆け寄ることや名を呼ぶような人目に立つ事は出来ない。ましてや申し開きなど。
昼日中だからではない。伝えたい言葉を伝えられる状況にまだないからだ。
だがそれも今夜まで、あと少しだ。

お前が思い悩む事を、俺は決してせぬ。

全てを彼女に話せるのは今夜の筈だった。一昨日の深夜、土方への最後の報告を済ませたばかりだ。

「十一月二十二日、伊東甲子太郎は新選組を焼き討ちし乗っ取る計画です。いちばんの狙いは局長のお命」
「解った。お前はもう脱出していい。だが戻るのは当夜だ」
「御意」

緊急に幹部会議が開かれると斎藤の間諜の次第が全て明かされ、伊東甲子太郎の首を取る事が速やかに決定した。決行は十八日夜、つまり今夜だ。伊東を近藤の別宅に招待している。事が成るまで斎藤は潜伏することになっていた。
斎藤の懐には現在百五十両程の大金が入っている。
脱出にあたっては筋書きが出来ていた。島原で遊蕩の限りを尽くし金に困った斎藤は思い余って御陵衛士の準備金に手を出し逃走。この筋書き通りにことを運ぶ為、昨日のうち高台寺の金庫が空いている昼間、一度戻って金を持ち出した。それは最後まで新選組の間者であることを伏せておく為だ。
高台寺を出たその足でのこのこと新選組に戻れば看破される恐れがある。慎重を期して島原の茶屋で最後の時間を潰した。夜までそこに潜むつもりでいたのに、計算外だったのは朝露の様子だった。
若い割りには聡明な娘と思っていたが、これが最後と告げるなり泣き出した。揉め事や面倒事は危険と判断し、止むなく予定より早く茶屋を立ち去ろうとした所、このような事態となった。



名前の耳には斎藤と芸妓らしきその娘の言葉は聞こえてはいない。
だがどうみても尋常ではない、この様子は。人は何かの限界を越えると、涙すら出ないものなのだろうか。
何故か余所事のようにも感じるが、どこかで警鐘が鳴る。それは自分の心の裡から聞こえてくるようだ。
全ての思考を拒否した名前の乾いた琥珀の瞳がゆっくりと閉じていった。

「名前!」

さながら操り人形の糸が切れるように張りつめた神経の糸がぷつりと切れ、沈む細い身体を原田が抱き留めた。そのまま両腕に抱え上げた原田は、もう斎藤に目をくれず彼の前から去っていく。
身動きの取れない斎藤は声も出せず追うことも出来ない。


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MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

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