青よりも深く碧く | ナノ
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39 分離  


慶応三年、一月後半から三月の初めまで伊東甲子太郎が九州遊説に出立しこれに斎藤も随行した。九州に渡る船は神速丸で、この船は幕府大目付永井尚志が佐賀へ向かう為に仕立てたものである。永井尚志とは一年と少し前の薩長同盟締結の直前、近藤も同行した広島にて長州藩代表を訊問した際の長州訊問使であった。
つまり伊東の九州行きは幕府も認める公的なものであり、表向きは新選組参謀としての行動だった。しかし実情はそうではなかった。
屯所が静まり返る深夜、土方の部屋で詳細な報告が行われる。

「伊東さんは真木外記、水野渓雲斎らと面談を持ちました。見逃せないのはその席にいた中岡慎太郎です」

土佐の中岡慎太郎は坂本竜馬と共に薩長同盟の立役者となった男である。
その席で伊東は『局異論、分離の言』を述べたと言う。即ち新選組とは既に意志を異にしている為、脱退を視野に入れているという事である。更にそこで問題なのが論じた相手であった。土方が眉間に深い皺を寄せた。

「今度はさすがの近藤さんも黙っちゃいられねえだろう。斎藤、やってくれるか」
「俺はとうに心を決めています」

斎藤は表情を動かすことなく即答した。直截に言葉にしなくとも互いの理解は一致している。たった今この会話で土方が潜入調査を命じ、斎藤が受令したのだ。

「頼むぞ」
「承知しました」
「そこでだが……お前、名前の事は」
「ご心配には及びません」
「置いて行っていいんだな」

殊更に無感情な声で問えば、斎藤は何も言わずただ深々と頭を下げた。名前の事を問うても顔色を変えず頭を下げる斎藤に土方の中を複雑な思いが過る。
無口で武人らしく折り目正しいこの男の性格は誰よりも間者役に適任である。山崎と共に監察に関わる仕事もこれまで随分任せてきた。だが今回の任務はこれまでのものとは違い期間も長期に渡り、その分危険度合いが桁違いである。
それだけではない。
もしも。
もしも万が一斎藤が寝返ったとしたらその瞬間から名前は人質の立場となる。間者の任につくというのはそういうことだ。
この件について近藤と二人で話し合った時様々な状況を危惧した近藤が、名前を斎藤について行かせた方がいいのではないかと主張した。あんたは優し過ぎると土方はその意見を即座に退けた。
新選組の進退の賭かった任務に私情を挟むことは許されない、その考え方こそ鬼副長が鬼たる所以である。
だが土方個人として心に何の憂慮もなかったかと言われれば無論そういうわけではなかった。
その気掛かりを今一度斎藤本人に問うてみれば、この男は名前を頼むと自分に向かって頭を下げる。
目の前で尚も頭を下げたままの斎藤を見下ろす。
斎藤が如何に名前に心を傾けているかは考えるまでもなく熟知している。それだからこそ斎藤の新選組に対する忠誠心に些かの曇りもないのがよくわかるのだ。
寝返りの心配は微塵も感じない。俺とこいつの間にあるものは、信頼だけだ。やはり使えるのはこの男をおいて他にない。
土方は俄かに真剣な面持ちになってゆっくりと確かめるように告げる。

「斎藤。何があっても名前は俺達が守る。お前が戻るまで。何があっても、だ」
「はい」

斎藤は短く答え顔を上げると静かな瞳で土方を見返した。



大晦日から新年の朝までを斎藤と共に過ごし互いの想いを確認し合い、生涯を誓い合った名前にはもう迷いがなかった。
自分でも何故か解らないがあれ程まで不安と焦燥に苛まれていたことが嘘のように清澄な気持ちでいられた。
斎藤は想いを言葉で語る事の苦手な人だ。その代わり何度も何度も繰り返し、信じろと想いの丈を名前の中に注ぎこんだ。与えられた愛情は心と身体の両方に染みわたり、彼女はそれを確かに受け止めた。
歳が明けてすぐに斎藤が長い出張に出た。任務の内容は明かせぬと言っていた。戻ってからも多忙を極め屯所を留守がちになり、あれから随分日が経つが二人で過ごす時間は取れなかった。
関係を公にする事による危険を常に懸念する斎藤が、人前で濫りに名前に近付く事をしないのだから尚更だ。
それでも今度こそ信じると決めた。もう迷わない。



三月半ば過ぎ。久し振りに雑務に追われず過ごせる午後だった。
温かい日が続き、間もなく咲かせるであろう桜の蕾をつけた巨木を根元近くで見上げ、斎藤は思う。
思えば満開の桜の下で名前を見つけたあの夜から間もなく二年になる。あれからの日々ひたすらに想いを寄せ恋焦がれ続けた名前との別離。彼の表情は平静であったが水面下に渦巻く想いは一言ではとても言い尽せぬものだった。出来る事ならば今年も桜を一緒に見たかったがそれは叶わぬだろう。
背後から密やかな足音が聞こえた。

「名前」
「はい」

思った通りの愛おしい声が答える。

「俺は新選組を出る事になった」
「……はい」
「驚かぬのだな」
「はじめさんの任務の事は、何を聞いてももう驚きません」
「今はお前を連れていけない」
「はい」

斎藤が振り返る。微笑んでいたが少しの寂しさが滲んでいるようにも見えた。
名前はこれまでの事を考え併せどこかでこの事を予感していたように思う。彼の性急な行為の意味が少し解った気がした。

「不安はないか?」
「ありません」
「それは頼もしい。……いや、俺の方が少し寂しい、かも知れぬ」
「……私も、寂しいです」

まだ桜は咲かない。
木を見上げる名前を斎藤がふいに引き寄せ抱き締めた。その腕の力に万感の思いが込められる。

「必ずお前と生きる。その約束に嘘はない」
「はい」

離れる不安、本当にない?

名前は斎藤を見上げ自身の心に再度確かめる。覗きこむ深碧の瞳は彼女の奥底まで届き想いを注ぎ込むような強い光を放っている。

「信じます」
「お前の方が俺よりも強いのだな」

斎藤がふ、と笑い掠れた声で言った。
腕に包まれたままの名前が懐から簪を取り出し陽にかざせば、青色のギヤマンが陽光を受けきらきらと輝く。見つめる彼女の瞳も陽の光を受けてどこまでも澄み渡っていた。そしてゆっくりと再び斎藤の瞳を見つめる。

「はじめさんはここにいつもいる。大丈夫です」

胸に簪を戻し細い手で押さえる名前を抱き締める腕に力を込めて、斎藤はその首元に顔を埋めた。

「……移り変わりの激しいこの現世では変わっていく物ばかりだが……俺は」
「はい」
「名前。俺は決して変わらぬ」

最後の抱擁。何度も確認し合った誓いをまた立てるように深く長く、狂おしい最後の口づけが落とされた。



かねてから申し入れのあった伊東の分離が三月十三日に新選組に了承された。この夜近藤、土方、伊東三者で会談が持たれその席上で、伊東は自分達が既に孝明天皇御陵の衛士を拝命していることを告げた。近藤は驚愕して見せたが、お上の為、この国の為と渋々と承諾する。互いに腹の裡を一切見せもせず、会談は静かに進む。

「江戸よりの同志に加え斎藤一、藤堂平助両君が私共と志を同じくするという事になりました。これについても後同意頂けますね」
「斎藤君と平助か、どうしてもですか? 弱ったな」

近藤は渋面を作って頭を掻いた。その様子に近藤さんも結構な狸だな、なかなかやりやがる、と土方は内心で笑ったが、同じく苦虫を噛み潰したような顔で問う。

「伊東さん、あいつらを無理矢理説得したんじゃあないでしょうね」
「嫌ですよ、土方君。我々は別に敵同士になるわけじゃありません」

伊東はカラカラと笑い、脱隊ではなく飽くまでも分離である事を主張した。

「ああ、まあそうだな」

とは言え、土方の眉間の皺は深く刻まれたままだ。
斎藤は間者として送り込む算段である。しかし藤堂平助について言えば計算違いだった。
平助は試衛館時代からの仲間である。だが元はと言えば北辰一刀流の伊東甲子太郎の門弟であった筋から、彼についていくことを選んだことも致し方ないと言う他はない。
かつて伊東甲子太郎に新選組入りを勧めたのは平助で、その時の平助の勧誘の言葉は、新選組が勤王であり尽忠報国の浪士集団であるということだった。しかしいつしか新選組が幕権強化傾向を強めたことに平助は危機を感じていた。そうして今回の離脱を決めた。それを本人の口からもはっきりと聞いていた。平助は不器用なりに真っ直ぐな男だった。
新選組も変わっていく。彼を引き止める事は出来なかった。

一週間後の二十日。伊東甲子太郎以下斎藤一、藤堂平助を含む十五名が西本願寺を出て三条城安寺に移動、その翌日には五条善立寺へ入った。御陵衛士は六月に高台寺月真院を本拠地として屯所を据えた。


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