青よりも深く碧く | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


20 優しい時間  


千鶴は名前の部屋を出たその足で井戸へ行き、水を汲むと自室で身体を拭った。良順の補佐をし緊張で汗ばんでいたのだ。
清拭した時の名前の身体を思い浮かべる。どこから見ても綺麗で柔らかな女性のそれだった。
細い腕。白く滑らかに盛り上がる胸。そして華奢な肩から背にかけて開いた痛々しい刀傷。

あれは斎藤さんの身を守った傷。苗字さんはあんなにも斎藤さんを大切に想っていたんだ。
私にあんな事が出来るだろうか。自らを犠牲にして好きな人の為に凶刃の前に飛び出していくなんて。私なら怖くて……。

自身の気持ちばかりに気を取られ名前の心に思い至るどころか、彼女が女性である事を想像した事もなかった。彼女はいつも優しく微笑んで千鶴の恋心を励ましてさえくれていたのに。
私はいつも物静かで大人っぽい斎藤さんに憧れていただけ。苗字さんに敵うわけがない。
先刻までの斎藤の様子に彼もまた名前を深く想っていたのだと、それはもはや疑いようのない事実なのだと悟るしかなかった。



考え込んだまま勝手場に向かうと平助が火を熾しているところだった。

「あ、平助君、おはよう」
「おう、おはよう。……千鶴……えーと、さ。お前、大丈夫か?」
「え、何が?」
「その……名前の事……」

千鶴は一瞬だけ顔を曇らせたがすぐににこっと笑った。

「どうして? 大変なのは苗字さんで、私は怪我してるわけじゃないよ?」
「いや、なんていうか……さ、名前が女だってお前、わかっちまったんだろ?」

平助の言いたい事は解っている。大晦日の広間で千鶴が斎藤に想いを寄せていたことが、周知となってしまっていたのだから。

「平助君も知ってたんだね」
「ごめんな。幹部だけの極秘事項だったんだ」
「そうか……心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫。少しは悲しいけど……。それに苗字さんの方が斎藤さんには似合ってると思う。私みたいな子供より……」
「お前は子供なんかじゃねえよ! お前、すごくいい女じゃん! 今みてえな事、普通なら言えねえだろ!」
「平助君……?」
「あ、いや、えーと……」

平助が顔を真っ赤にした。それを見て千鶴も赤くなってしまう。

「平助君っていい人だね」
「なんだよ、今頃気がついたのかよ? おせえよ」

照れて誤魔化す平助の思いやりに千鶴は救われたような心持ちになって朝餉の用意を始めた。



斎藤は夜が明け切るまで名前の寝顔を見つめていた。
桜の木の下に倒れていた名前を見つけたあの春の夜から間もなく一年になる。思えばあの夜も一睡もせずに寝顔を見つめ続けた。あれは副長の指示であったが、恐らくはそれだけではなかった。時が経つのも忘れ目を奪われていたというのがきっと正しい。

あの時から俺は……。

自覚はしていなかったが既に魅かれていたのだろうと今ならば思う。
額に触れるとまだ熱い。良順先生は二、三日熱が続くだろうと言っていた。

早く目を覚ませ。もう一度俺を見てその声を聞かせて欲しい。

側を離れがたかったが朝の鍛練も怠りたくはなかった。名前が斬られたのも元はと言えば己の慢心が引き起こした事。気が緩んでいたのだ。彼女を守る為にもっと、剣だけでなく精神をももっと鍛えねば。二度と彼女を傷つけぬように。
意志の力で自分を引き剥がすようにして部屋を出る。
そこへ千鶴がやって来た。

「斎藤さん、苗字さんはどうですか」
「ああ、変わりない」
「稽古に行かれるのですか」
「……ああ」
「それなら戻られるまで、私が見ています」

咎められているのかと思ったが千鶴は優しく笑っていた。目を見開いた斎藤は次にひどく恐縮した顔になる。

「……お前には本当に助けられるな。頼む」
「はい」

その日の昼ごろに名前は目を覚まし、それから二日経つ頃には微熱程度に熱も下がった。斎藤は鍛練と隊務以外の時間をほぼずっと彼女に付き添っていた。
沖田の所へ来ていた良順が夕刻になって消毒にやって来る。彼が診たところ化膿もなく傷口は綺麗だった。

「少し熱はあるがこの分なら大丈夫だろう。だがまだ傷は塞がっていない。無理は禁物だ」
「ありがとうございます」

横たわった名前が起き上がろうとすると、呆れた顔をした。

「君は無鉄砲と言われないかね? まだ起きてはだめだ。斎藤君、しっかり監視の方を頼むよ」
「はい……」

斎藤が良順に深々と頭を下げる。
仕事の合間に土方も様子を見に来た。

「名前、調子はどうだ?」
「もう大丈夫です。隊務を長く休む事になってすみません。すぐに復帰を……、」
「何言ってやがんだ。お前はうちの大事な幹部を身を呈して守ってくれた隊士だ。しっかり養生しろよ」
「面目ありません」
「本当だぜ、斎藤。名前がよくなるまで時間のある限りせいぜい側についててやれ」

斎藤は土方にも頭を下げる。鬼副長の含みを持たせた言葉に赤面しながらも有難く思った。
皆が去ると斎藤は布団のすぐ脇に近寄り、中に手を入れて名前の手を探りそっと握る。弱い力だったが名前が確かにその手を握り返した。

「痛むか?」
「大丈夫です」
「お前が生きていてくれて……本当によかった」
「はい……、」
「もうあんな無茶はするな。自分が斬られるよりも辛い」
「……ごめんなさい」
「いや、すまない。お前が謝る事ではない。助けられたのは俺の方だ。だがお前が傷つくことは耐えがたい」
「私もです。斎藤さんが倒れるところを見たくありません」

名前が強い瞳できっぱりと言った。斎藤は再び目を瞠り、名前をじっと見る。ゆっくりとその顔に微笑みを浮かべると、彼女の頬を空いた手で撫でた。

「お前はやはり、強情だ」

優しい声で言うと名前も微笑む。懐から青いギヤマンの簪を取り出し、握っていた名前の手を上にむかせるとそっと載せた。

「これ……、」
「持っていてくれたのだな」
「斎藤さんの瞳の色と同じ、この簪は私のお守りです」

頬を薄っすら染めながら簪を愛おしげに見つめ名前が唇を綻ばせた。斎藤はその唇に触れたいと思ったが名前の体調を考え自制した。それだけでは済みそうにない自分を感じたからだった。



そしてもう一人。毎夜眠れない程に名前の身を案じる男が、障子の外に立っていた。

「……俺の出る幕はねえか」

自嘲の笑みを唇に浮かべ肩を竦めて彼は歩き去った。


prev 21 | 61 next
表紙 目次



MATERIAL: 精神庭園 / piano piano / web*citron

AZURE