青よりも深く碧く | ナノ
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21 ずっとここに  


原田は自室の開け放った障子の内側で、壁に背を預け月を眺めていた。あまり旨くない酒を独り呑む。今宵はいくらか温かい夜だ。昇りかけた下弦の月が東の空にかかっている。
浪士に槍を突き立てた事を思い出していた。
原田とて新選組の幹部隊士である。志を持って隊務に当たっているつもりだ。任務の性質によっては人を殺めた事など幾度だってある。だがそれは大義の為だ。
今回のように私怨を込めて槍を使ったのは初めての事だった。

俺も大概いかれてるな。

あの夜からずっと名前の容態が気にかかり、見舞ってもよいとの土方の許しを得てやっと彼女の部屋へと向かった。
しかし障子戸越しに聞こえてきたやり取りに声を掛けることが出来なかった。つい先刻の事だ。
大晦日の夜、斎藤を出し抜いて席を立ち名前の後を追った時、彼女の目にはいつだって斎藤しか映っていなかった事など承知の上で傷ついた彼女を慰めたい、とそう思った。そこにあわよくばという気持ちがなかったと言えば嘘になる。独り広間を離れる寂しげな背中に追いついて声を掛けた。
振り向いた彼女は予想外に笑顔だったが、それはとても痛々しい表情だった。

「おやすみなさい、原田さん」
「あ、ああ。ゆっくり休めよ」

答えるのが精一杯でつけこむような真似は出来なかった。女性の扱いには慣れているという自負がある。しかし名前に限っては器用に振る舞えない。
そしてあの夜だ。斬られかかった斎藤の背に身を投げ出した名前の姿に打ちのめされた気がする。
原田の金茶色の瞳が痛みに耐えるように細められた。顔を上向け半身を削られた月を眺める。
真ん中から半分しかねえ月はまるで、今の俺みてえだな。出来るなら俺が……あいつの半身になりたかったんだ。だが名前はそれほどまでに斎藤がいいのかよ。
杯を床に転がし銚子のまま酒を呷る。

「なんだあ、左之、独りで黄昏れやがって? しけたツラしてねえで島原行かねえか」

突然に大声を掛けられ、驚いて見上げると新八だった。

「いきなり降って涌くな、新八」
「なんだと、失礼な奴め。俺はちゃあんと前から歩いて来ただろ? そんな事より行こうぜ、島原へよ」
「気分じゃねえ。平助と行けよ」
「それがよう、平助の奴は色々と都合が悪いみてえでよう」
「は? なんだそれ」
「ま、細けえ事はいいじゃねえか。ほら、もう酒もなくなってるぜ。続きは綺麗な姉ちゃんの所でパーッとやろうぜ、ほれほれ」

ぐいぐい腕を引っ張ってくるのに苦笑をしながら、まぁいいかと原田はのろのろと立ち上がり永倉と肩を並べ屯所を出た。

「……好きでもねえ女が何人寄ってきても、望む一人が手に入らなきゃなんの意味もねえけどな」
「あん? なんか言いやがったか?」
「なんでもねえよ」

春の夜空、まだ中天に昇り切らぬ下弦の月が原田の横顔を薄く照らすのを、永倉が横目で見ていた。



名前の怪我は順調に回復していく。
巡察帰りの原田と永倉が賑やかに現れると名前の枕元に包みを置いた。

「名前ちゃん。見舞いに桜餅買って来たぜ。甘いもんでも食って元気出してくれよ」
「ありがとうございます、永倉さん」

竹皮に包まれた桜餅は春の香りがしてとても美味しそうだ。
床の上に身を起こし嬉しげに微笑む彼女の傍ら、ここのところ常に影のように付き添う斎藤が無言で原田に目を走らせる。どこか警戒したようなその視線を受け止めながら、斎藤には何も言わず名前に向かってニヤリと笑った。

「元気になるまでは安静にするんだぜ。くれぐれも隣の男に無体な真似をされねえようにな。まだ怪我が治ってねえんだから」
「え?」
「さっ、左之!」

名前が横を向き斎藤を見る。彼の顔がカッと赤くなっている。名前は男性隊士を装っていた面影など今はどこにもなく、緩く結んで右肩から前へ流した髪や、寝間着に羽織を掛けた細い肩は女性そのものである。
夜間も名前の傍らで過ごす斎藤にとってみれば……。

「じゃあな。大事にしろよ」

笑いながら去っていく二人を見送ってから「今の、どういう意味ですか?」と斎藤に問えば、彼は顔を赤くしたままで「さあ、……知らぬ」と歯切れが悪い。何故彼がそんなふうになっているのかも名前にはさっぱりわからない。
そこへ千鶴がお茶を持って入って来た。

「お茶淹れてきたんです。新八さんが桜餅を買ってきたって聞いたので」
「ありがとうございます。一緒に食べませんか?」
「わあ! いいんですか?」
「もちろんですよ」
「ふふ、嬉しい。斎藤さんはそろそろ撃剣指南のお時間じゃないんですか」
「俺を追い出すつもりか」
「はい!」

悪戯っぽく笑う千鶴にやれやれといった様子で斎藤は立ち上がる。

「では名前、行ってくる。終わったらすぐに戻る故」
「はい。行ってらっしゃい」
「雪村、すまぬが暫し名前を頼む」
「もう、わかってますよ。早く行ってください」
「む……」

斎藤が障子の向こうに消えると名前は千鶴にゆっくりと顔を戻し、俄かに真剣な表情をした。怪我をして以来、こうして千鶴と二人っきりになるのはこれが初めてだ。

「あの、雪村さん、いろいろご迷惑かけて、助けてもらって、それに……」

千鶴がくりくりとした目を笑わせて桜餅を手に取り、言い淀む名前を見つめる。

「迷惑だなんてそんな事ありません。私ずっと苗字さんに憧れていたんですから」
「雪村さん」
「お兄さんみたいだって思っていたのがお姉さんみたいに変わったけど……お役に立てたなら嬉しいです」
「ごめんなさい……」
「そんな、謝らないでください。私の方こそ……気づいてあげられなくて」

自分よりもいくつか年下のこの少女が姉のような慈しみの瞳を向けて来るのに、申し訳なさと嬉しさと言葉に出来ない感動を覚える。

「よかったら千鶴って呼んでくださいね。私も名前さんってお呼びしていいですか?」
「千鶴ちゃん、」

ひとくち齧っただけの桜餅を竹皮に戻し、涙ぐむ名前の左肩に触れないように千鶴がそっと抱きついた。柔らかい千鶴の髪が頬に触れる。

「許して、くれるの?」
「当たり前です。大好きな名前さんと斎藤さんが幸せになってくれるなら、私も嬉しい」

千鶴に背を擦られながら涙が止められなかった。
恥ずかしいと思うのに幸せで、斎藤と居る時とはまた違った安堵を与えてくれる千鶴の肩先で名前は思う。
私は、此処にいてもいいのだろうか。
因果律が破れても……それでも私は此処にいたい。



名前は元気になるにつれ風呂に入りたいと切実に思い詰めた。もうしばらくきちんと洗髪をしていない。身体は毎日綺麗に拭き清め、髪も盥のぬるま湯で濯ぐのだが、石鹸を泡立ててしっかりと洗いたかった。
そこへ風呂上がりの斎藤がすっきりした顔をして戻って来る。

「斎藤さん」
「なんだ」
「私もお風呂に入りたいです」
「…………」
「髪を洗いたくて」

何故そこで黙るのかと見ると斎藤はまた赤面し硬直している。近頃、斎藤は名前の前で、随分表情が豊かになったと思う。隊務を離れて久しい彼女は任務や稽古の時の、目だけ鋭く無表情な斎藤を思い出しクスリと笑った。
たった今風呂を使ってきたばかりの斎藤は名前の希望を、いやそれは駄目だ、とも答えにくく「……明日、良順先生に聞いてみよう」と言った。
翌日、消毒をしながら名前の望みを聞くと良順は暫し考えた。

「傷を湯につけるのはよくないが、手早く済ますのならいいだろう。長風呂はいけないよ」
「ありがとうございます」
「だが付き添いが必要だ。君は体力を消耗しているからな。万一湯当たりでも起こしては危険だ」

付き添い?
斎藤の喉がごくり、と音を立てた。

「千鶴ちゃんにお願い出来るかな」
「………雪村か、」

どこかがっかりしたような小さな呟きは名前の耳に届かなかった。夕餉の膳を運んできてくれた千鶴に早速聞いてみると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。今日は……」女子ならではの理由から千鶴は今夜は入浴出来ないらしい。

「こちらこそごめんなさい、変なお願いをして」
「ううん、他の日だったら!」
「ええ、ありがとう」

千鶴と入れ違いに席を外していた斎藤が戻り、今では定位置となった彼女の床の脇に静かに座る。名前はすこし躊躇ってから、上目遣いに斎藤を見た。

「斎藤さん、お風呂の付き添い、……していただけますか?」

一瞬耳を疑った後斎藤は薄く唇を開き深碧の瞳をこれ以上ない程に見開いて、……そのまま石のように固まった。


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