斎藤先輩とわたし | ナノ
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act:03 雨に踊る青


俺は雨が好きだ。
オフィスビルの窓から雨にけぶる都会のビル群を眺めながら、その灰色の中に懐かしい風景を思い浮かべていた。

あの日から――。

掛け時計の針はあと三十分もすれば長針と短針がそれぞれ真逆の方向を向き、文字盤を縦に真っ二つに分ける。





その日、俺は誰もいない剣道部の部室にいた。
雨が降っていた。
雨の日の練習場としている体育館ではその日に限ってPTAの行事があった為、運動部の活動は全て休みとなったのだ。
部員は皆早々と帰宅していったようだが、俺は雨が止むまで剣道具の手入れでもしようかと、独りで此処に来た。
竹刀の弦や中結いを外し日頃なかなか出来ない点検と調整をした後ふと思い立ち面、胴、小手の手入れを始める。日頃おざなりな他部員のものも、この際やってしまおうと軽い気持ちで手をつければ数があった為に思いの外時間がかかってしまった。
薄暗い部室に取り付けられた窓から、いつまでも止みそうにない空を見上げ溜め息をつく。
梅雨入りをしていると言うのに傘を忘れるなど、俺にとって常では考えられぬことだ。だが忘れてきてしまったのだ。
雨にけぶる窓からの眺めは灰色で、何とはなく気分が沈んでくる。
帰宅部の生徒も皆帰ったようで、校門までの短い坂道には人影もない。
俺は黙々と手を動かす。
紐の具合を確認し雑巾で汚れを取り、全ての面、胴の手入れを終えると床に敷いた新聞紙の上に広げ、小手も広げて風を通す。
全てやる事が終わってしまうと、また窓の外を眺めた。
雨はやむ気配がない。
高台にあるこの学校からは天気がよければ、街が見渡せるのだが今日は灰色一色だ。

「濡れて帰るか」

独りごち窓から離しかけた目の端に、ふいに鮮やかな青色が映り込んだ。
俺は再び窓の外を見遣る。
八角形の青色はくるくると回り、上へ下へと忙しく動き回る。
傘の持ち主は俺に見られていることにも気づかず、傘を忙しく動かしながら踊るように歩いているのだ。
薄墨の風景の中に踊る鮮やかな青。
垣間見える服装は白いシャツに制服のスカート。
この学校の生徒なのだろう。
踊るような足元から雨水が跳ねて、彼女の白いソックスを濡らしているようだ。
それでも足を止めず彼女は楽しげに歩いて行く。
黒い長い髪も踊っている。
追いかけたい、そんな衝動に駆られる。
だが、この部室を出て昇降口に回り外に出た頃には、きっと彼女を見失っているだろう。
俺は目を離せないまま、ずっとその青い傘を見つめ続けていた。
校門をくぐる間際、彼女が振り向いた。
小さな顔に大きな瞳。
その印象的な面差しを目に焼き付けた。
それから数日経った、部活の時間。
俺は体育館の裏で一、二年の部員が一列に並んで稽古前の素振りをするのを見ていた。
視線を巡らしている時ふと、部室と体育館を何度も行ったり来たりする、一年生らしい小柄な女子の姿が目に入った。
彼女は茶の入った大きなポットを両手に持ち、ウンウン言いながら運んでいる。
近くにいた総司に聞いてみる。

「あれは、誰だ」
「あ、一君、なまえちゃん知らない? 新しく入ったマネージャーだって。一年生、」
「そうか」
「気になるの?」
「別に」
「可愛いよね」
「…………」

実際には気になるどころではなかった。
あの日雨の中を踊り歩いていた、青い傘の彼女だったのだ。
それが彼女と俺の出会いだった。
それから半年と少し。
俺は秘めた想いを胸に抱えたまま、ついぞ彼女に話しかけることさえ出来ずに卒業した。





「なまえ、聞いているのか」
「え、なんですか? 今、追い込み……、」

会議室の机の上に開いたパソコンに向かい、ウンウン言いながら原稿を書いている彼女は、覚えているのだろうか。
あの雨の日の事を。

「聞いていなかったのか」
「斎藤さんお願い、少し待ってください。6時までに入稿しないと本当に落ちるんですよ」

恋仲となった俺達は共に過ごすために、毎週金曜の午後6時に待ち合わせをしている。
そして毎週金曜日の午後6時は彼女の作成する広告原稿の最終入稿の締め切りでもある。
今日の彼女はどちらにも遅れるわけにいかないのだ。
毎週待ち合わせに遅れて来る彼女を窘めてきたが、一向に改善しない。
そして今、何故彼女が俺のオフィスの会議室にいるのかと言えば。
土方さんに直帰届を出し、今日こそは負けない、と訳のわからない闘志を燃やして先程やって来たのだ。
6時ジャストにメールで入稿を済ませ、同時に俺との約束も守ると言う腹積もりなのだろう。
一言、待ち合わせの時間を6時30分にしないかと提案されれば、俺は受け入れる気持ちがある。
7時でも構わない。
しかも、俺は本当に怒っているわけではない。
だが、俺の前で他愛のない事に一生懸命になったり、頬を膨らませたり、そして笑ったり。
その姿を見ているのが幸せなのだ。
あの頃、もしも勇気を出していたら見られたかもしれない彼女の無邪気な姿を、今からでも。
何と言ったらよいのか解らないが、この一生懸命な姿が愛しくてただ見ていたいのだ。
だから俺は自分から約束の時間をずらしてやろうとは言わない。
俺の説教が始まると彼女は何やかやと言い訳を始めるが、生意気な唇は塞いでしまえばいい。
正直に言えば、それは俺の秘かな楽しみでもある。
時計の針は真逆を指した。

「出来た、送りました! はい終わり! 間に合いました、斎藤さんっ」

満面の笑みで俺に笑いかける彼女に、俺は右手首を差し出して見せる。

「俺との待ち合わせは1分過ぎている」
「入稿は59分に済みましたよ?」

精度の高いクォーツを使った俺の時計は数年に一度数秒狂うだけで、ビルの中やOA機器に影響を受けやすい電波時計よりも正確だ。
そう説明してやると口を尖らせる。

「そんな、たった1分じゃないですか」
「1分でも遅刻は遅刻だろう?」
「横暴です、クライアントだからって!」
「クライアントとして言っているのではない。6時を過ぎれば俺はあんたの恋人だ」
「そんな細かい事ばっかり言ってると禿げますよっ!」
「あんたは狙っているのか」

顔を近づける。

「職権……っ、」

全ては言わせぬ。
唇を離すと彼女は不満げな、そして少し寂しげな顔をした。

「斎藤さん、私……」
「どうした」
「キスが嫌なんじゃないですよ?」
「は?」
「でも……こういうのって、斎藤さんて本当に私のこと……」

彼女が膝の上に置いた自分の手に目を落としている。

「好きなのかなって、」
「なに?」
「だっていつも、何ていうか……キスがお仕置きみたいで……」

俺の頬がゆっくりと緩んでいく。
何が言いたいのか理解した俺は、頬を染めて俯く彼女を抱きよせた。
頬に手を添えて彼女の瞳を覗く。

「ではお仕置きではなく、恋人としての口づけを」

見上げる潤んだ瞳に唇を触れてから、薄桃色の小さな唇を塞いだ。
唇を離して至近距離で再び見つめると、目元を染めた彼女も俺の目を覗きこんでくる。

「あの雨の日から、ずっと」
「……え?」
「先程の話を聞いていなかったあんたが悪い」
「え……」
「幾度言えば理解するのだ」

オフィスと薄い壁一枚で隔たれただけの会議室で、俺はなまえを強く腕に抱き締めてもう一度、8年分の想いを込めて口づけた。
俺が雨を好きになったのはあの日からだ。
ドアの脇の傘立てに一本差された傘は、今日も青い色をしていた。

2013.06



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Loved you all the time