斎藤先輩とわたし | ナノ
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act:04 ずるい男


月曜の電話でなまえの機嫌が悪いことには何となく気づいていた。
しかし現在繁忙期の真っ只中である。
多くの企業がそうであるようにボーナス商戦が終わるまで、所謂二八の前までは鬼のような忙しさだ。
7月に入ってから、この春開発された新製品の不具合やマイナーチェンジがあった事も重なり、今週はやらねばならないことが集中していた。
なまえの事が気にはなっていたが、俺は目の前の業務に没頭した。
愈々おかしいと感じたのは金曜の朝、つまり今朝だ。
週末を共に過ごす事は今や暗黙の了解となっており、木曜の夜には互いの予定を確認するのが常だった。
如何に忙しい日々を過ごして居ても、俺にとってなまえの存在は癒しであるし、彼女と過ごすのは仕事とは比較できない大切な時間でもある。
しかし昨夜帰りが遅くなった俺は、なまえにメールをしそびれた。
彼女からも連絡は来なかった。
そんな事をちらりと考えている間にも、共に自社の大井町工場に向かう予定になっている上司が俺を呼ぶ。
この上司はこの春赴任して来たばかりでやり手と評判だ。
工場は交通の便の悪い立地の為に、いつも車で出向く事にしている。
一足先にオフィスを出て地下駐車場から自分の車を回してくると、エントランスで待っていた上司がその場にあったスタンド式の灰皿に、まだ長い煙草を押しつけ揉み消した。





「みょうじ、」

机に向かい求人広告原稿を書いていた私は、土方部長に呼ばれているのにも気づかなかった。
私のイライラはピークに達しようとしていた。
指先はキーボードを上滑りして変換ミスばかり。
今週はいつにも増して入稿本数が多い。
私の会社(株)新選エージェンシーも、只今のところ所謂繁忙期なのだ。
ああ、間に合わない。
今日は斎藤さんと約束しているわけじゃないんだし、そんなに急がなくても……なんて思いかけ、いや、違う違う、そうじゃないと思いなおす。
斎藤さんと会おうと会うまいと入稿があるのには変わりない。

「おい、みょうじ」

カリカリした頭で余計な事を考えているものだから、またミスをする。
企業名が間違ってるじゃないーっ!
Backボタンをガンガンと叩いて、しまった消し過ぎた。
消さなくていいところまで消去して苛々は余計に募る。

「おいっ、みょうじっ! てめえ何度呼べば返事を、」
「はいっ!?」
「お、お前……、なんだ、怖え顔しやがって」

怒声に顔を上げると、土方部長がほんの少したじろいだ。
彼をして怖いと言わしめる私は、一体どんな形相をしていたのだろう。

「何の用ですか」
「お、おう、雪村の手が空いたから、何かあったら手伝わせてやってくれ……」

いつもより尖った声を出す私と対称的に、部長の方はいつになく優しい事を言う。
二か月ほど前に、もう一人女子社員が入った。
彼女も近藤社長の人脈によりどこかからの縁故で入社したらしく、雪村千鶴ちゃんと言って私より四つも下で可愛らしい女の子だ。
最初はお茶係や電話番みたいな事をしてくれていたけれど、なかなか機転が利いて頼んだ事は速やかにやってくれるし、結構出来る子だと思う。
その為今までそれらをやっていた私の仕事が様変わりした。
この小さな会社はこう見えても、資本金一千万、年商は億単位に上るのだ。
恐るべしネット業界。
近藤さんの顔、山南さんの事務処理能力、そして土方さんの無敵の営業力。
私は元々庶務として入社したのに営業の鬼土方部長の巧みな口車に乗せられて、いつしか営業業務を宛がわれてしまった。
入稿管理が主な仕事なので締め切りの金曜日はいつもこうだ。
切っ掛けはやはり、階ikonとの取引が始まったことだった。
彼社の総務の人事担当斎藤さんは私の恋人でもある。
そうなるまでの経緯は土方さんの大いに知るところであり(というより、彼自らがキューピッド?)、なし崩しに私が斎藤さんの担当にされてしまったのだ。
仕事も私情もかなりゴチャゴチャのこの会社は気楽だけれど、今みたいな場合は本当に困る。
だってたった今、ここまで苛々としているのは他でもない、その斎藤さんのせいなのだ。

「じゃ、千鶴ちゃん。上がった順に、外注のウェブデザインの画像を添付して送ってくれる? 紙媒体の方もね、」
「はい、わかりました。なまえさん、金曜日は彼と約束があるんですよね? 私も急ぎますから」
「…………!」

俄かに顔が引き攣るのが自分でも解る。
その約束が、今日はないの。だって今週一週間メールすらないのよ。
私もしてないけれど。
急いでるのは原稿が落ちたら困るから、ただそれだけなのよ。彼の事なんて関係ないの。
壁の時計をチラリと見遣ればもう17時になる。18時まであと少し。
斎藤さんなんて、斎藤さんなんて。

「斎藤さんなんて、もう知らないんだからっ!」

千鶴ちゃんを初め、その時社内にいた土方部長、近藤社長がびくぅと固まった。
そして私は叫びながら、書いていたKikonの入稿票をくしゃりと掴んでしまった。
ああああああっ!
山南専務だけは向こうむきに肩を震わせているけど、ここで笑うなんて相変わらず専務は黒い。
自分でも思いの外大きな声が出てしまい、驚いたのと大切な書類に皺を寄せた事に動揺しつつ、時計を一睨みしてから黙々と続きを書き始めた。
何とか今週も入稿の修羅場を乗り越えた18時ジャスト。
一服しに出て言った土方部長にお化粧直しの千鶴ちゃん。
社長と専務も何時の間にか消えていて、独りになった私がのろのろとバッグに私物を詰めていると、スマフォが震えだした。

『斎藤さん』

画面が映し出したのは彼の名前。
私の動きが止まった。
指は動かなかった。
だって。
聞きたくなかった。
一週間なんの連絡もくれなかった理由を。
その理由は先週の日曜日に乗った彼の車の中で見た、ある物と関係しているように思えたから。
顔も合わせず声も聞かない間に、その想像が疑いようのない事実に思えてきたからだ。





なまえが電話に出ない。
もしや今週は入稿が間に合わなかったのだろうか。
毎週の様子を聞いていればいつかそんな日も来るのではと懸念してはいたが。
気にはなるが忙しくしているのならば、しつこく電話を鳴らすのは気の毒だと思い、俺は諦めた。
俺としては毎週末になまえと会うのを楽しみにしていたのだが、互いに社会人である以上このようなことがあっても致し方ない。
一つ溜め息をついて立ち上がれば、大井町へ同行した上司が声をかけて来た。

「斎藤君、今日はゆっくりね。よければ呑みにでも行かない?」
「生憎ですが俺は車です」
「今日の工場長について相談もあるの。車なら代行を呼べばいいじゃない」
「無茶を言いますね」

彼女は俺より十も年上の既婚者であるが、その分大人の余裕と色気みたいなものを纏っている。
上司とは言え女性であるからには、二人で酒を呑みに行くなどあまり気は進まぬが、仕事の話があると言われれば無下にも出来ぬ。
なまえが捕まらない事もあり、酒は遠慮する事にして同行する事を承諾した。

「少し吸い過ぎです」

彼女の指定した和食店までの道、煙草に火をつけようとしたところに苦言を呈する。
俺は煙草を嗜まない為アッシュトレーは本来使用しておらず、コインパーキングなどで使う小銭を入れたりしていた。
しかし先日来、仕事で同乗する機会の出来たこの上司の吸い殻が数本まだそこに残っていた。

「私は上司よ? 個人的な事に意見をするの?」
「既に就業時間外であり俺個人の車の中です。今ここで上司と部下の力関係を振りかざすつもりですか」
「面白いわね。あなたって」

鮮やかな色の口紅を引いた唇の端を上げながら、彼女は煙草をバッグに戻した。





最近出来た洒落たその店の座敷に、社長以下新選エージェンシーのメンバーが集まっていた。

「かんぱーいっ!」

生ビールをぐいぐいと喉に流し込む。
私はもはやヤケクソだ。
空のジョッキをダンッと置いて、すかさず通りかかった店員さんに声をかける。

「生ビール、もう一杯くださいっ、」
「なまえさんてお酒に強いんですね。かっこいいです」
「雪村、真似すんじゃねえぞ」

甘いカクテルのグラスに、可愛らしい唇をちょこっとつけながら言う千鶴ちゃんに、土方部長の憎たらしい声が被さった。

「みょうじ君はお酒の席ではいつも、実に男らしい呑みっぷりですからね」
「ああ、なまえ君は俺よりもよっぽど酒に強いぞ」

山南専務と近藤社長の褒めてるのかけなしてるのか解らない科白が続く。
でも、そんな事はどうでもいい。
私は早く酔っぱらってしまいたい。
千鶴ちゃんは少し変わった子なのか、そんな私を羨望と憧れの(ように見える)キラキラとした瞳で見ている。

「なまえさんは仕事もできるし」

誰がそんなこと言ったの?

「素敵な彼氏もいるんですよね」
「…………、」

そして踏んだ。踏んでくれた、地雷を。
さっきの私の様子を見てたでしょう?
空気読めない子なの、あなた。
仕事の時の手際はとてもいいのに。

「まあ、あれだ、その、なんだ。コホン。……斎藤と、なんかあったのか?」

三杯目の生ビールを呑み干した私に対し、まだ一杯目のジョッキを傾けながら、部長がおずおずと言った口調でいきなり痛いところをついてくる。
飲み会に強引に誘われたのは、やっぱりこれか。
私から事の次第を聞きだす為か。

「別に? なにも、ないですよ。あ、ちょっとトイレへ……、」
「みょうじ君、逃げるんですか?」
「はっはっはっ」

背後にかかる含み笑いの山南専務の声なんて無視だ、無視。
近藤社長の高笑い、意味不明。
座敷の降り口は金曜日の為か靴が散乱していて、トイレに行く人用のサンダルみたいなものが見当たらない。
端っこから自分のパンプスを探し出しつっかけて立ち上がると、ほんの少しクラッときた。
さすがにあの勢いで呑んだら、回るのが早い、なんて思いながらフラフラ歩いて行く。
店は九割ほどお客で埋まっていた。
トイレまでの道程にこの店の入り口があり、ヒールをカコカコ言わせ通過しようとした私の目の前で、引き戸がゆっくりと開いた。

「…………、」
「…………、」

現れたのはよく見知っている顔だった。
だってそれは、斎藤さんだったんだもの。
少し驚いたような顔をして斎藤さんが私を凝視する。
私も目一杯見開いた目で凝視し返す。

「さ……、」
「どうしたの斎藤君? 混んでる?」

言いかけた時、彼の肩の向こうから女性が顔を覗かせた。
え?
彼は「いえ」とか言いながら一度背後を振り返って、私に顔を戻した。

「なまえ」
「…………、」

その時の感覚はもう覚えていない。
彼がどんな顔をしたのかも。
私は彼と背後の女性の横をすり抜けて、開かれた戸の外へ駆け出ていたのだ。

「なまえ……?」

トイレに立ってそのまま皆を置いて出て来てしまったと言う事も、バッグはおろか小銭さえも持っていない事も、いつになく酔いが回っている事も、全て頭から飛んでいて私はとにかく走った。
走ったけど、日ごろの運動不足に加え生ビールを立て続けに三杯呷って来た私のヒールの足は、すぐに失速しついにはのろのろ歩きになる。
背後からずっと足音が追いかけてきている事は、とっくに知っていたけれど気づかないふりをした。

「どこへ行く気だ」
「ついて来ないでください」
「残念だが俺もこちらに用がある」

かなり歩いてからやっとかけられた声は、反省でも謝罪でもなく淡々としていて、私の頭の芯はまたキリキリとする。
繁華街を抜けてオフィス街に入っていた。
さっきまでの街の喧騒が嘘のように、静かなここは駅から遠く離れてしまっている。
駅に行ったところで一円も持っていない私は、どうせ帰る事も出来ないのだけれど。
彼の規則正しい足音は、腹立たしいまでに冷静だ。
この人は何を考えているのだろう。
臆病な私は核心に触れられない。
言い訳や謝罪なんかされたら、その方がよっぽど立ち直れないかもしれないのだ。
やがて彼の歩調が私に並んだ。
やはりそれはそれでムカッとくる。

「なら、別の道を歩いてくださいっ」
「そのように子供っぽい事を言うな」
「どうせ、子供です!」
「ならば俺が大人にしてやろうか」

いきなり肩を引き寄せられ、ビルとビルの隙間に連れ込まれた。
その腕は迷いもなく私をきつく抱き締めて、まるでそうすることが当たり前のように、彼の端整な顔が迫って来る。
深蒼の瞳には一片の曇りもなかったのだけれど。

「……っ、や……だっ!」
「なまえ……っ、」

背けた顔を左手で強引に戻されて、有無を言わせない唇が私を塞いだ。
態度とは裏腹な愛しむように優しく優しく蠢く舌は、他愛もなく私の凝り固まった心を解して融かしてしまう。
足の力が抜けていく私は彼の右腕に支えられ、いつ果てるとも知れない長い長いキスが続き、それは彼の想いを雄弁に伝えてくる。
いつもこうだ。
彼はその唇だけでいつだって私を骨抜きにしてしまうんだ。
狡い。
斎藤さんは本当に狡い人だ。
後から彼の車に戻った時、つい確認してしまったアッシュトレーには、やっぱりそれがあった。
私が思い悩んだ事や、とりとめもなくぶつける疑問に短く答える彼の口調は、それでも聞きたかった事を的確に教えてくれて、埒もない独りよがりな嫉妬を氷解させていく。
この人には、すっかりお手上げなんだ、いつも私は。

「俺が平静だったとでも思っているのか。とんでもない勘違いだ」
「……ごめんなさい、」
「聞きたい事があったらその時点で俺に聞け。大体電話に出ないなど、子供っぽいにもほどがある」
「…………、」
「帰ったらもっと大人にしてやらねばな。覚悟しておけ」

ついに折れた私は項垂れて、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その瞳には妖艶な蒼い焔が揺れていて、それを受け止めた私はまた全身の力が抜けていく。
斎藤さんはもう、存在そのものが狡いと思った。





後で聞いたところによると、斎藤さんと私が消えたあと残された彼の女性上司と新鮮エージェンシーの面々は意気投合してしまったらしく、私たちを格好の肴に楽しい宴会は延々と続いたのだとか。
そして私は愛情と言う名のお仕置きを彼から施されて、気絶しそうな長い夜を過ごしたのだった。

2013.07.25



act:04 ずるい男

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