He is an angel. | ナノ
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06 昆布が俺を救う


今、この唇に触れてしまったら、どうなるのだろう。
心の中を吹き荒れる激情が、首の皮一枚繋がった理性をぶち壊しにかかる。
床に置いたスマフォから男の声が聞こえている。
神経を逆撫でるその声に煽られ、俺の衝動は治まりそうもない。
なまえは呆然と俺を見返していた。
少し抜けた彼女も今のこの状態が何を意味するのか、流石に理解しているはずだ。
もしも、触れてしまったら。
俺がどれ程彼女を深く愛していようと、彼女にとっての俺は昨夜急に現れた、ただの得体の知れない男に過ぎぬ。
本能に逆らわず行動すれば、きっと彼女は俺を怯えるようになるだろう。
彼女が心を開く事は無くなり、幹部天使として天界に戻るチャンスも消える。
それが結果だ。
解り過ぎるほど解ってはいる。
以前なまえと交わした会話が甦った。
彼女が失った俺との記憶も、俺にとっては昨日の事のように全てが鮮明だ。

『……あんたは失恋した男とどういう付き合いだったのだ』
『どういうって?』
『つまり、その、夫婦になる約束をしていたのか、ということだ』
『それは、……つきあうからには出来ればいいとは思っていたけど、具体的にはまだ』
『好きだったのか』
『それはまあ好きだったと思うよ』

今でも、好きなのか? 傍に居たいと思うのか? あの男と。
眼だけで問い掛けたところでなまえに伝わる筈もない。
ふいにスマフォが黙った。
俺と壁の間に閉じ込められたままの彼女が視線をそちらに少しだけ移す。
見るな。俺以外の男をその瞳に映すな。
堪らずに右手を壁から離し、彼女の髪に触れる。びくりとして彼女が俺に視線を戻す。
髪を撫でていた手をその滑らかな頬へと滑らせていけば、なまえは目を見開いて微かに強張った表情を浮かべた。
後少し。
20センチだ。
この距離を縮めれば、彼女に触れられる。
もう、どうなってもいいのではないか? 一度は捨てた命だ。あの夜と同じように求めるままに、触れてしまえばよいのではないか?
そう、あの夜と同じように。

触れてしまえ。
天使である俺の耳元で、俺の中の悪魔が囁く。

やめろ、思い出せ!
天使の俺が叫ぶ。

俺は天使?
俺は堕天使?
一体、どちらなのだ?

やがて何度も思い返したあの時の彼女が、俺の中に甦ってくる。
俺の背に回された、縋るような細い腕。
行かないで、と呟いた声。
心を重ね想いを注ぎ合い、震える唇を合わせた。
思い出せ。
俺が望んだのは彼女の心だった筈だ。
今目の前に居るなまえは、俺をどう思っている?
だが、欲しい。あの男に奪われるくらいなら、今すぐに。
右手の指先を彼女の頤に触れた。


ピンポーーン。


間延びした音に驚愕した俺は、びくりと肩を震わせ手を離した。
彼女は俺から目を逸らし、ここから見えない玄関の方向に顔を向ける。
まさか、風間が痺れを切らし直接此処へ来たのか?
なまえが身体の向きを変えた。

「誰か……来ました」
「…………、」
「出ないと、」

行くな。
俺は今にも逃れていきそうな彼女の肩に、咄嗟に再び両手を掛けようとした。


ピンポーーン。


「みょうじさーん、お届け物でーす」

耳に届く音と声に、再び手が止まる。
同時になまえが俺を擦り抜けて行った。





私の心臓がまるで自分の物ではないみたいに、痛い程波打っている。
暴れるそれは今にも口から飛び出しそうで、右手でぎゅっと掴んでみるけれど、激しい鼓動は治まりそうもない。
透明に澄みきったはじめさんの瞳の奥には青い焔が燃えて揺れていて、動く事も出来ない私は恐怖とは少し違う戸惑いの中に居て。
裏腹にその底なしのブルーに魅入られてもいた。
はじめさんはとても悲しい眼をしていた。
彼の腕に囚われていたのは、時間にすればほんの数分の事だったと思う。
それでも私には、長い長い時間に感じられた。
このままでいたら、私、爆発する。
時限装置がチッチッチッ、と確実に秒読みを始めたその時、のんびりとした音で鳴ったインターフォンは、私にとってはまるで福音だった。
縺れたような足を運んで小走りに玄関に行き、焦るように鍵を開けてノブを回せば、宅配便の制服を着たお兄さんが、片足を上げてダンボールを支えながら、ドアポストに不在票を突っ込もうとしてるところだった。
急に開かれたドアにおおっ、と仰け反りながらも爽やかな笑顔を此方に向け、はきはきと笑った。

「ああ、よかったあ、いたんですねえ。みょうじなまえさんにお荷物ですよ」
「あ、すみません……、ここに置いてください」
「はい」

狭い玄関の上がり框のところにダンボールが置かれ、差し出されたペンで伝票にサインをする。

「毎度どうも!」
「ご苦労様です……、」

ドアを開けた時と同じように爽やかな挨拶を残して、お兄さんは速やかに去って行った。
青い伝票はクール便で、差し出し人欄には実家の母親の名前が書いてあり、品名を書く欄には“ナマモノ”と書いてある。
クール便なんだから、ナマモノってことくらい解るよ、お母さん。
出来ればもっと具体的に書いて欲しかった。
うちのお母さんは相変わらずだ。
とにかくクール便ならきっとこの中身は、早く冷蔵庫に仕舞わなければいけない類のものだろうな。
でも、私は、再び部屋に戻っていくのがなんとなく躊躇われて、グズグズとそこで伝票に書かれた実家の住所や自分の住所を意味もなく眼で追っていた。
“ご希望のお届け日がある場合は云々……”
この項目は何も書かれていない。
出来れば時間指定だってしてよ、お母さん。
そして前もって荷物送った事、メールくらいしてよ。
私、主婦じゃないんだからいつなんどきでも部屋に居るわけではないんだよ? 今みたいに、今みたいに、緊迫したシーンの最中で、取り込んでる場合だってあるんだよ?
ああ、でもやっぱりありがとう、お母さん。
本当は私、どうしていいか解らなかった。
なんだかはじめさんが急に違う人に見えて(そうは言っても昨夜会ったばかりなんだけど)少なくとも昼間千景さんと会うまでの彼は、表情は薄いけれど、その瞳は穏やかでどことなく優しさと安心を感じる色をしていた。
それなのにさっきのはじめさんは、刺すような瞳で私を見ていた。
その強い瞳に、この人は男の人なんだ、と思った。
いや、男の人である事は最初から、解っている。
そういうことじゃなくて、なんて言えばいいのだろう、女である私にとって彼はの男の人なのだと。
そこまで考えて私の心臓は、ドキンとまた大きく跳ねた。
まだ黙って伝票に眼を落していた私の背後、リビングの窓から入る暮れかけた光がほんの少し遮ぎられ、足音を立てずにはじめさんが近寄って来たのが解った。
私の中に緊張が走る。

「……なまえ、」
「…………、」
「すまなかった」

振り返って見上げれば、逆光になったはじめさんの端整な顔は切なげに歪み、切れ長の目が弱い光を湛えて私を見ていて、薄い唇から零れる言葉は小さく震えていた。

「どうかしていた」
「…………、」
「俺が怖いか?」
「…………、」

ゆっくりと伸ばされた指先が、細かく震えている。
私は彼の手を、じっと見た。
つい少し前に、強い意志を持って私を閉じ込めようとした、あの手とは違う。
迷うような動きをして、その手は私に届く前にぎゅっと握られた。
なんだか胸が痛い。
それはさっき感じたドンドンと叩くような鼓動とは全く別の物で、ぎゅっと締めつけられるような、心で感じる痛みだった。

「俺は……ここを出て行った方が、よいだろうか……」

無意識に首を振る。
まだ何か言いかける彼よりも早く、私はダンボールを指差した。

「これ……」
「…………?」
「ダンボール運んでください。ナマモノなんです」

虚をつかれた様にはじめさんの目が、少しだけ見開かれる。
そしてその視線は足元のダンボールに落ちた。

「お母さんが送って来たんです。ナマモノだから中身早く冷蔵庫に仕舞わないと」
「だが、俺は、」
「運んでください、ね?」

自分でもびっくりするような、有無を言わせない声が口を衝いて出た。
はじめさんの目がダンボールの天辺にベタリと貼られた伝票の上を辿り、再び私を見る。
私が少し不器用な笑顔を浮かべて見せれば、彼も目元を染めて唇の端を少し上げた。
この顔が、好きなんだ。

「……承知した」

彼はダンボールを軽々と持ち上げ、踵を返してゆっくりと戻っていく。
重い物を持っていてもその背はやっぱりピンと伸びていて、呆れる程に綺麗だ。
そして、気づく。
私ははじめさんに出て行って欲しいなんて、これっぽっちも思っていないって事に。
キッチンのシンク横にダンボールを載せたはじめさんが、開けるか? と問うように私を見たので、うん、と頷けば丁寧な手つきでガムテープを剥がしていく。
一番上に被さっていた新聞紙を除ければ、いきなりお父さんの会社名の入ったタオルが何本も出て来た。
お客さんに配布用の、一本ずつビニール袋に入って安っぽいのし紙がついた、どこにでもあるあれだ。
こ、これはクッション材のつもりなのかな。
心を落ち着けてそれらを除ければ、五袋入りのインスタントラーメンが味噌、塩、醤油ときっちり三種類。
その隣にはツナの缶詰とお煎餅。
ガサゴソと取り出せば案の定、お煎餅は割れている。
インスタントラーメンの下にもツナ缶の隣にも置いちゃだめだよ、寧ろ一番上がよかったよ、お母さん。
だんだん、私の心が醒めて来る。
ふと、隣を見るとはじめさんは興味を引かれたように、箱の中を凝視している。
心なしか楽しそうな顔で。
さっきまでの緊迫感はどこへいってしまったんだろう。
でもはじめさんが、何だか可愛い。
現金な事に、ホッとしている自分がいる。
お煎餅の下にはテレビCMでも有名な高級手延素麺が入っていた。
私の母親ははっきり言って料理が得意ではない。
でも、素麺だけは拘りがあり、この銘柄しか食べない。
これはとても美味しくて大好きなのだが、素麺のくせして結構いいお値段をしていて、私のお給料ではちょっと買いにくいのでこれは嬉しい。
さて、底辺に入っていたのは、立派な利尻昆布。
昆布とは意表を突かれた。
これを、私にどうしろ、と言うの?
昆布なんか私には無用の長物です、お母さん。
知っている筈です、お母さん。
しかし、隣で瞳をキラキラさせている人の存在に気づく。
彼はダンボールの底からもったいなさげな手つきで昆布を取り上げ、まるで刀の鑑定でもするかのようにビニール袋に入ったままのそれを、裏表返しながら惚れ惚れと眺めた。

「これは……なかなか良い昆布だ」

え?
昆布をこんなに嬉しそうに見つめる人を私、初めて見た。
はじめさんは、料理が得意なのだろうか。
そう言えば帰りのスーパーで、いかにも和食の食材みたいなものばかり買ってたし、インスタントっぽいものには目もくれてなかった。
まあ、それはさておき。
私はこれだけは言っておきたい。
お母さん。
こいつら、ナマモノじゃないよ。
乾物って言うんだよ。
割高のクール便にする必要なんて、全然なかったんだよ、お母さん。





俺は立派な昆布を手にし、安堵感を感じていた。
あのまま誰も止める者がなかったら、箍の外れかけていた俺は間違いなくなまえに襲い掛かり、彼女を脅えさせ全てを失っていたかもしれない。
昆布に救われたのだ。
この立派な昆布に。
配達してくれた宅配業者の青年にも、礼を言いたい気持ちでいっぱいだ。
道を誤りそうになった俺を救ってくれたこの昆布、昆布を届けてくれた宅配青年、そして何よりもこれを送ってくれたなまえの母に感謝の気持ちを伝えたい。
まだ見ぬなまえの母よ。
不本意かも知れぬが、俺はあなたに救われた。
しかしながら直接謝意を表す事を今はまだ出来ぬ故、あなたの代わりにあなたの娘の食生活を守る事を、俺はここに約束する。
それにしても煮物を作ろうと思っていたところへ、旨味成分をたっぷりと含んだ高級利尻昆布が届くとは、神の計らいか?
この次お会いする時に近藤さんにも謹んで感謝を述べねばなるまい。


This story is to be continued.

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The love tale of an angel and me.
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