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さまようむけんならく


時を待たず去就の沙汰が下されるだろう。
咎めは受けなかったが「下がってください」という言葉。あの乾いた声を思い出せば、耐えがたい後悔と羞恥の念にかられ消え入りたいほどの苦痛を感じる。隔てを取る許しは叶わず、あの一言が今朝彼の聞いた最後だ。
それでもひと目、見たかった。
もしやあれは幻と何も気づかないまま、まるでいつもの朝を迎えるように主の目覚めを見守ることが出来たなら、これからも変わらずにこれまで以上この身を賭して尽くすつもりでいた。
しかしそれは臆面もない考えであろうとすぐさま打ち消す。信頼を得て近侍となった立場であるのに、あのような無礼を働いた。審神者を護るべき己が暴力まがいの行為に及んだのだ。
彼女の唇の感触を覚えた手のひらを拳に握りしめ、こうして俗世に塗れた感情に翻弄されるくらいならば、戦場に出ていた方がどれほどよかっただろうかと俯く。
何故、あのようなことを。

――いつからかずっと、望んでいた。

望む事と許される事は違う。己の本心に気づき、許されぬ一線を私は超えてしまった。

太郎太刀は戦では第一部隊の部隊長として務め、隊が非番で本丸に残る日は審神者の近からず遠からずの位置に控え、必要があれば執務に手を貸すのが常だった。だがこの日は幾ら待とうといずれの用向きでも主からの声はかからない。呼び出しを受けるどころかもう昼近くなるというのに審神者はその姿を見せなかった。
主君と認めた日からできる限り審神者を第一義と考えてきた。傷つけぬよう、その意に添うようにと。それが己のここに在る唯一の意味だったからだ。だがそれも昨夜までのこと。
彼女の側近く仕えたいと願う者が自分ばかりではないことをもう疾うに知っている。
本丸もだいぶ大所帯となった。次々と現れる刀剣たちはみな、いつしか審神者を慕うようになる。その想いは様々で、軍功を立て認められたい者、愛されたいと求める者、女性である審神者に邪な望みをかける者。それこそ、そういった部分の調和を取り審神者の身を護る事も近侍の職務の一つと心得ていた筈だ。
端から見ればいつもと変わりなく見える太郎太刀ではあったが、失意とそれでもなお募る思慕と、取り留めなく堂々巡りを繰り返し乱れる心を腹の底に押し込める。
暗く淀んだ彼の想いと裏腹に、秋の空は悲しいほどに澄み渡っていた。
内心を隠したまま、本丸の敷地内にある鍛錬場に向かおうとした太郎太刀は、ふと背後に気配を感じ足を止めた。彼の背でもうひとつの足音が止まる。

「君に手合わせを頼もうと思ってね」

何も問わぬのに応えるのはわずかに笑いを含んだような軽快な口調。熟練の太郎太刀に憚ることなく声をかけてきたのは、燭台切光忠だった。
ゆっくりと振り返れば「あれ、そう言えば主はどうしてるんだろう」とすらりとした立ち姿で何かを思案するように宙を仰ぐ。応える言葉の持ち合わせもなく、口を閉ざしたままの太郎太刀に再度合わされた隻眼は、口調とは裏腹にひどく険しかった。

「朝食をとってなかったよね」
「………」
「ああ、確か君も」

光忠は楽しげに笑ったが、やはり目は鋭く太郎を射抜く。ややあって重い口を開いた。

「…………何故、私に」
「主のこと? だって君は近侍でしょ」

第一部隊は大太刀と太刀を中心とした精鋭の集まりであり、光忠はそのうちの一人である。部隊の四人までが現在手入れ所に入っているが、太郎太刀と光忠は無傷だった。
燭台切光忠も比較的早い時期からここにいて、その能力はかなり高く、機動の早さも相俟って戦力になる刀剣である。しかし大太刀とは戦い方が違う。太郎の刀は速さではなくその重量と刃渡りで、距離のある敵をも文字通り根こそぎ薙ぎ払う。

「いいえ、そうではなく、私と手合わせとはいささか唐突な、」
「君とは一度、やっておきたいと思ってたんだよね。どう?」
「……仕方ありませんね」





「え、兄貴と光忠が?」

内番で厩に入っていたところへ報告に走ってきた薬研の話を聞くなり、馬を放り出した次郎太刀は昨夜からの予感が当たったという気がした。

「なんだかわかんないけどよ、互いに殺気立っちまって。太郎の旦那も強いが長船の旦那も大したもんだ。これは見応えのある……って、おい?」
「アタシ、ちょっと行ってくるからさ、あんた、馬の世話しといてよ」
「え、待てよ。俺も行くぜ。待てって……!」

実際その予感を喜んでいいのか、または嘆くべきなのかよくわからなくなっていた。

さては兄貴、艶っぽい気持ちにでもなったか?

昨夜はそんな呑気なことを思った。頑なに俗世に馴染もうとはせず、崩れを決して見せず折り目正しくいつも肩に重圧を背負ったような、それでいて静謐な顔をして身を酷使する。そんな兄を時折痛々しいような目で見ることが次郎太刀にはかつて幾度もあった。

アタシみたいにもっと気を楽にさ、それこそ兄貴が言ったんだろ。いつ折れてもおかしくないアタシたちだろ。あの世もこの世も同じ、お社の中も此処も同じなんだよ、兄貴。

しかし昨夜の兄はいつもとどこか違って見えた。審神者を寝所に連れて行った後ろ姿が、何故か強く印象に残っている。決意か覚悟か、そんなものを纏ったような背だった。それが具体的にどういうことなのかまでは読み取れなかったが、今この瞬間に何かが見えた気がした。
十分に強い太郎太刀は内番の手合わせで指南役の方に回ることが多い。それなのに何故今日に限って燭台切光忠とやり合うのか。

「兄貴!」

次郎太刀が赴いた鍛錬場、水を打ったように静かなそこで、全ての者が静止していた。
膝をついた光忠の喉元に刀の切っ先を真っ直ぐに突きつけた太郎太刀が、無表情のまま口を開く。

「……まだ、やりますか。怪我をしますよ」
「参ったな。これじゃ、格好がつかない」
「お役に立ちましたか」
「おかげで改良点が見つかったよ」
「…………」

皮肉な笑みを唇に載せ見上げる光忠の瞳が、ちらりと憎悪を過ぎらせたように見えた。しかし太郎太刀が刀を引いた次の瞬間本丸を振り返った光忠は、打って変わった爽やかな笑顔を浮かべる。
自然とその先を目で追えば、そこには次郎太刀と薬研に挟まれるように審神者が立っていたのだった。

「いま、起きたのかい? どこか、具合でも悪い?」
「…………いいえ、」
「ならよかった。恥ずかしいところを見られてしまったな。お腹、空いてない?」

均整のとれた体躯を翻すように立ち上がり、審神者に向かい優しく声をかける光忠の背を見つめ、それとわからないほど僅かに太郎太刀の顔が歪む。
今しも歩み寄ろうとする光忠の目に見えているのとは違う。実際の距離は幾ばくもないのに太郎太刀の視界にいる主は途方もなく遠く、彼の方の足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。主の表情を、その視線の先を知るのを恐ろしいと思った。

「すぐに君の食事を用意するよ」

光忠の手が審神者の肩に自然に触れ、愛しむように抱き抱えようと腕を回す。

「あ!」

その瞬間、重量のある鋼の棹が宙を切る音がした。それは誰の耳にも届くほどの大きな空気音で、大気すらも大きく震えた。
仁王のように足を踏みしめた太郎太刀の、七尺三寸の刀身が目にも止まらぬ速さで動いたのを、しかし誰も見ることは出来なかった。
次郎太刀が目を見開く。
握りしめた柄の先、ぎらりと陽を弾く長い抜身の鋭利な先端に、銀粉を散らしながらばさばさと暴れる大きな蛾がぶすりと突き刺さっていた。
口を開けたまましばらくそれを凝視したあと太郎の顔に目を移せば、彼は唇を引き結びその金色の瞳をひたりと光忠に当てていた。

――兄貴は怒っている。

それにやや遅れて光忠の掠れた笑い声が響く。

「蜻蛉切君みたいだ。どうしてそんなことを」
「この虫には毒がありますから」
「なるほど、昼日中に時柄を選ばず飛んでくる毒蛾だね。弁えのない害虫だ」

光忠の吐き捨てるような言葉にも、太郎太刀は瞳を逸らさなかった。




その時、本丸の母屋からざわめきが聞こえた。
「あるじさま!」と口々に裏手の鍛錬場へと駆け込んでくる短刀達の顔色が青ざめている。間をおかず銀色の髪も衣も乱した太刀が忙しなくやってきた。偵察隊の部隊長である。おっとりとした彼はそのような様子を滅多に見せない。
偵察のため、かねてからの予定通りこの日は第二部隊が派遣されていた。

「ぬしさまは、こちらですか」
「ここです」
「小狐丸、只今、戻りました……が……、」

現れた彼は傷を負っているようだった。審神者が光忠の手を振りほどく。

「怪我をしたのですか」
「検非違使がこちらに向かっております」
「検非違使が何故? それより、小狐丸の手入れを早く、」
「私は大事ありませぬ。至急援軍を、負傷の刀剣がみな戻ってきます。敵を食い止めねば」

本丸に来て日の浅い小狐丸はまだ練度が低く、今日は偵察隊を率いて出陣していた。しかし元から基礎能力の高い彼が戦に出て負傷することは珍しく、ただならぬ状況にあることがわかる。彼の説明によれば、検非違使の一個隊がこの本丸に向かって進軍していると言う。
とは言え、審神者の御座す本丸は神力によって結界を張っており、戦場と画した場所にあるのだ。

「わかりました。手入れ部屋は空いていますか。小狐丸はそちらへ。後の皆は新たな偵察部隊の編成を手伝ってください」
「偵察ではありません。戦闘です、ぬしさま」
「ここは安全です。作戦を立てましょう」
「結界が解かれているのですよ」
「そんなはずは……!」

想定を超えた窮地に審神者は狼狽えた。精鋭部隊がまだ手入れを終えておらず揃っていない。その他の出陣可能な隊は遠征に出ている。「俺達が、」と口を開きかけた薬研を、不安げな目をする弟達が見上げた。短刀部隊にはどう考えても荷が重い。

「では、今いる中から至急……、でも、誰を、」
「私が行きましょう」
「太郎さんの部隊は、まだ……、」
「単身で参ります」
「え?」
「兄貴!」

顔色を変えた審神者は驚愕したように太郎太刀を見つめた。ざわつく人いきれの中で、見返す太郎太刀と彼女の視線は刹那からみ合う。太郎太刀にはいつぶりかも覚えていないほど、それがとても久しく感じられた。
視線を外して太郎太刀は刃先の蛾をふるい落とした。鞘に納めると周りを見渡し「本丸の護りを頼みます」と誰にともなく一言を残すと、大股で鍛錬場を出て行く。

「待ってください。今すぐに隊を整えて、……太郎さん、待って!」

太郎太刀は審神者の声を聞かずに厩へと赴き、望月を引き出した。
残された光忠も、次郎太刀も渋面を浮かべていた。

「いくら彼でも一人なんて無茶だよね。僕も行かなくちゃ」
「アタシも行くけど、ばらばらに行っても駄目だよ。兎に角人数を揃えて兄貴の後を追おう」





浸潤する。耐え難く侵される。臓腑の隅々まで。
心は乱れて、いかようにしても平静が保てない。燭台切光忠の言葉が幾度も甦り、心の底に澱のように溜まっていった。

――弁えのない毒蛾。

そうだ、まさしくその通りだと。
浸潤していく。痛いほどに染みていく。堪え難い苦悩と愛惜の想いが。
本当に一体、いつからだったのだろうか。これほどに主の情けを渇望し求めるようになったのは。如何な人ならざる身の程知らずと言われようとも、もう後戻りの出来ないところまで来た。
もとよりあの本丸で出逢った最初の日から、私を生かすも殺すも主次第だった。ならば、主の為に持てる力のすべてを捧げ、何もかもを終わりにすればよいのではないか。
この地上がどうあろうが思うところは何もなかった筈だ。もう一度あの久遠の眠りに還ればよい。
望月で駆け抜ける大地の前方から禍々しい気配が迫るのを感じる。彼の心に呼応するかのように、空気の濃度が変わってきた。空は急速に重く厚い黒雲に覆われ、あたりは夜のような闇色を濃くしていく。
遥かから獣の咆哮が聞こえる。太郎太刀が手綱を引けば、望月は高い嘶きと共に駆ける四肢を止めた。
地に下りてゆっくりと刀を握り直す。ここから先へは不浄の者を一歩足りとも通す気はない。
今の私はただの、一振りの実戦刀。もう感情など持たぬ。
伏せた瞼を上げ、すさまじい程の神気を宿した瞳を、金色に光らせた。

「来ましたか。私はここにいます。さあ、現世の戦術をとくと見せてもらいましょうか」



彷徨う無間奈落
20151029




MATERIAL: web*citron
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