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きみきえたまうなかれ


かつて大太刀の部隊編成で遠出に出た折の、あまりに遅い帰還に審神者は人知れず気を揉んだことがあった。あれはやっと戻った隊を出迎えた彼女が、それと気づかず不安げな顔を見せたせいだったのだろうか。

「大丈夫ですよ。遠征の途中でいなくなったりはしませんから」

常はあまり表情を動かさない部隊長が珍しく目を細め、ごく控えめに笑んでそう言った。あの時は「そうですね」と安堵のため息をついた審神者であったが、今となればあの静かな笑みは何だったのだろうかと思う。彼の言葉の奥に潜むものを、長いこと見誤っていたのではないかと改めて懸念を感じる。
太郎太刀がいなくなる心配など、端からしていなかったのだ。彼はいつだってそばにいてくれるものと、信じて疑いもしなかった。しかし太郎太刀の方はこれまで一体どう考えていたのか。戦いに臨む時、彼はいつも何を心に思っていたのだろう――。
しかし思考に沈む暇などはなかった。単身で検非違使戦へと向かった太郎太刀の後を追うべく、次郎太刀と燭台切光忠を中心に速やかに出動部隊が整えられる。敵は最強である。隙のない装備に身を固めた二人は審神者に向かい、それまで余裕のあった顔を俄に引き締めた。

「じゃあ、主。アタシらも行ってくる」
「任せてくれ。すぐに片付けてくるよ」

非番で休息を取っていた三条派の大太刀と薙刀が、審神者の命を受けた藤四郎兄弟らの呼び出しに応じて参集し装備を整える。唯一現状を知る小狐丸も札を使い素早く手入れを終えて揃い立った。

「狩るにあたって不足なし! 楽しめそうだ」
「加持祈祷より優先すべきは厄落としだね」
「では、行ってまいります、ぬしさま」
「みな、ご武運を」

いつものように背筋を真っ直ぐに伸ばし、真剣な視線を一人一人順に当てる審神者の小さな頭を、ふと笑った次郎太刀が一撫でした。その瞬間審神者の瞳がほんの微かに歪む。
次郎の大きく温かな手がまるで、太郎太刀のそれのように感じられたのだ。引き締めた唇が震えそうになる。
太郎太刀の手に直に触れたことがそう幾度もあるわけではない。それなのにあの温もりを知っている。
彼の手がいつも自分を、そしてこの本丸を護ってくれていたのだと、その想いが今初めて強く胸に迫った。

「心配すんじゃないよ。必ず兄貴を連れて帰ってくるからさ」
「どうか、……心より頼みます」

これより出陣する刀剣達に向かい、審神者は深々と頭を下げた。このようなことは常にはないことだった。





春となれば桃の花が美しく咲く阿津賀志山のなだらかな丘陵が、暗く重苦しいばかりの不浄な空気に包まれていた。

地上の武者も……なかなか……。

目を爛爛とギラつかせた槍の使い手がじわりと近づく。敵の倒れ伏す中、ついに膝を落とした太郎太刀が、怒りに燃え立たせた金色の瞳をゆっくりと上げた。彼の切り裂かれた黒衣と血に塗れた露わな肌が、この戦闘の激しさを物語る。
我が主の元へは決して近づけまいと一歩も引かず、暴風の如くに刃を振るった。自らの身にも凶刃を受けながら、検非違使軍の太刀と大太刀を其々一振り、槍に薙刀三柄を倒したが、しかしその驚異的な強さにも限界が見えていた。まだ辛うじて刀の柄を握った手に、鈍い痺れが来ている。
残るはこの槍、一柄だ。しかし検非違使の頭目は未だ無傷で、その力はやはり時間遡行軍の比ではない。
空を覆う厚い雲がひび割れる。天空から地表へと空気を切り裂くような雷光が走った。
太郎太刀を凌ぐ巨体がもう一歩を踏み出す。刺すような目で見返す太郎の髻を、丈長ごとぐいと乱暴に掴み顔を上向かせた。ニヤリと笑い、手にした槍を投げ捨てる。落ちていた太刀を拾いゆっくりと振り上げて、地底から響くような止めの声で短く告げる。

「消えよ」

もはや、私もこれまで……。
主よ。

瞼を閉じかけたその時、遠くから馬の蹄の音と鬨が同時に響き渡った。
敵が背後を振り返った刹那。
己の髻を掴ませたまま、最後の力で敵の前面を右薙ぎに鋭く斬り上げる。大量の血飛沫が舞い上がると同時、七尺三寸の大太刀が唸りを上げ、感覚を失くした彼の右手を離れた。
みるみる近づく味方の音に張り詰めた糸がぷつりと切れ、聞き知った声が己の名を叫ぶのを、太郎太刀は意識の片隅に幾つも拾った。





夜の帳が下りる。いつものように涼し気な虫の音が、本丸を穏やかに包んでいた。
褥の脇に膝を揃えた審神者が、先ほどから幾度も繰り返した言葉をもう一度口の端に乗せる。

「生きているのが不思議なくらいの怪我なんですよ。ですから、」
「主の……言うとおり……、生きていることが、不思議な私ですから……、構わなくて、結構です…………」

それを最後に太郎太刀は口を噤み二度と言葉を発しなかった。その瞳は一度も審神者に向けられることなく閉じられる。
辟易と落胆と、それよりも大きな心の痛み。手入れ所を出た審神者はそれらの綯交ぜになった深いため息をつく。
検非違使を退けた戦いから皆が帰営して二刻あまり。
審神者の念により、再び結界も張られた。これには非常な気力と神力を要する為彼女自身も大層疲れていたが、今現在何よりも誰よりも気にかかる刀剣の元へと、ようやく足を運んだところだった。
閉じた障子戸の向こうを眺めやる。聞く耳を持たぬ太郎太刀に、もうどのように声をかけていいかわからなかった。
廊下の先から燭台切光忠が飄々と現れる。
審神者の様子に事情を察したように、ふと悪戯げに笑った。その顔を見返して審神者はまた顔を顰める。

「手伝い札を使うのを、まだ嫌がってるの?」
「他の者の手入れをしなさいの一点張りです。太郎さんが一番の重症なのに」
「変なところで頑固だね。ならもう放っといて、主は向こうで僕の作ったお菓子でも食べよう?」
「そんな気になれません」
「あ、やっぱり……」

光忠はまた笑ったが、今度の笑顔にはどこかに自嘲が含まれていた。太郎太刀に近侍の仕事など向いてないと光忠は思っていた。それなのに主は何故彼をそばから離さないのかと、以前からそれがずっと疑問だった。

僕の方がよっぽどいい男なのにってね。

昨日の手合わせからの顛末を順を追って思い起こす。太郎太刀が刀剣として強いのは無論知っていた。そもそも検非違使を五体、いや、先ほどの戦いでは頭目も彼が仕留めたようなものだ。あれを独りで倒すなど想像を絶する力であることは確かである。だからと言って、あのように考えなしな行動に出るとは。
太郎太刀があの死闘で折られずに、生きてここへ戻れた事実は奇跡と言っても過言ではないのだ。こうして全てが終わってみれば心底呆れる気持ちと、しかしどこかで羨むような気持ちとが混ざり合う。何もかもを捨て文字通り一命を懸けて、ただ主を守る為だけに、あれほどに……。

僕も主を好きだ。だけど同じ状況に置かれた時、僕に果たしてあんなことが出来ただろうか。

「どうしましたか、光忠?」
「いや、」
「あ、次郎さん……、」

そこへ誰から聞きつけたのか、ぷりぷりと膨れながら次郎太刀がやって来る。苦い顔で「全く何考えてるんだよ、兄貴は」と声を上げる。
ふいと審神者の困惑顔を見、やれやれといったように表情を緩めた。「仕方ない、アタシに任しときな」と気を取り直したように片目を瞑り戸を開き中へと入っていく。再び閉ざされた隔ての向こうを、隠せない不安を浮かべた目で審神者は見つめていた。
しんと静まり返る手入れ部屋の、一番奥に敷かれた褥に太郎太刀がぐったりと伏している。
次郎太刀の姿に半身を起こした軽症の刀剣たちが、心配そうに見守る中を進むが、太郎太刀は息を止めたように目を閉じたまま微動だにしない。
寝顔をじっと見下ろす。返り血を綺麗に拭われた静かなその面貌はいつに変わりなく無表情である。
この兄が手入れ札を使われることを固辞していると聞いている。放っておけば回復に何日も要する瀕死の重症を負っているというのに。
兄はこれほどの頑固者だっただろうか。現世との関わりを避け、あまり意思を表明することのなかった太郎太刀の、これはかつて見たことのない姿だと思う。
次郎はやにわに兄の身体を覆う掛布を跳ね上げた。応急処置を施され、晒を巻かれた太郎太刀の肩先は痛々しく血を滲ませている。その肩に手をかけ、ギリと掴んだ。

「……く…………っ」
「起きてるのかい。痛いだろう、兄貴」
「…………、」
「アタシらはただの鋼の一振りだけどさ、こうやって生身の身体をもらったからには、傷を負えばそりゃあ痛いさね」
「…………、」
「主が兄貴の為に心込めて祈祷した手伝い札、拒否したんだってね」

肩を掴んだ手に更に力を込める。太郎太刀の眉間が苦痛に歪んだ。それでも彼は目を閉じたまま。

「兄貴も随分と酷い男だねえ。主の胸の痛みはこんなもんじゃないかもしれないよ」
「……離し、なさい…………」
「嫌だね。なんで主は兄貴なんかがいいのかねえ。他にいくらでも気の利くやつがいるじゃないか。アタシだって兄貴に比べりゃだいぶマシだ。それなのに触れさせないだろう、主は他の誰にも。凭れてうたた寝するなんて、兄貴の肩くらいだ」
「お前は、なにを、言って……、」
「近侍をやってたくせに、何にも気づいてなかったのかい?」

怪我人に食事を運んできた薬研が、障子戸を開けるなり目を剥いた。がちゃんと膳をその場に置くと、慌てふためいて次郎の背を羽交締めにする。

「あんた、何やってんだ? やめろよ、傷が開いちまう!」
「ふん!」

見かねて止めに入った薬研を振りほどき、足音荒く次郎が部屋を出て行く。

「おい……大丈夫か? 太郎の旦那」
「…………ええ、」
「あの人も乱暴だな。また酔いどれてんのか? 正気の沙汰じゃねえぜ」
「…………」
「だが、あの人の言うことにゃ、一理も二理もあるぜ。あんたが何を考えてるかは知らねえが、大将の身にもなってやれよ」
「…………、」

太郎太刀は戸惑っていた。
傷の痛みなどは何ほどのものでもない。痛むのはこの心だ。これだから私は心など、持ちたくなかったのだ。
単身でここを出た時は生きたまま再び戻る事を想定していなかった己が身である。このように煩悩に苦しむ穢れた己を、戦いの中で散らしてしまいたいと思った。
これが最期と覚悟を決めた時、目の裏に浮かぶのはやはり主の姿だったが、愛おしい人への狂おしい想いにもう二度と煩わされることのないところへ、醒めることのない眠りの中へと深く沈んでしまえたならば、どれほどに救われただろうかと。

だが、私は今もこうして、生きている。
次郎太刀に言われるまでもない。
私は今この瞬間にも、身を焦がすほどの情念に捉われたまま、あのひとを強く想っている。



君消え給う勿れ


※髻。たぶさ。髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。もとどり。
20151123




MATERIAL: web*citron
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