The first step
第一印象は覚えていない。希薄な存在が急浮上したのは、最初の賞与明細を貰った晩に交わした会話からだった。
斎藤がいつも通り、毎週末仲間と集まっている居酒屋に入るとまだ誰も来ていなかった。それどころか他の客も一人も居ない。
開店直後とはいえ、金曜日の晩にこの店では珍しい事だった。
コの字型に仕切られた座敷席の掘り炬燵のようなテーブルに靴を脱いで座り、メニューに目を落としていると水が運ばれて来た。
「今日は早いんですね」
と声を掛けられ、人との会話が始まると予想していなかった俺の口は咄嗟に返事をする事が出来ず、顔を上げて彼女を見たまま数秒静止した。
「ああ、今日は定時で退社出来たから」
遅ればせに、しかも尻つぼみに返した声はいささか頼りなく、完全に不意を打たれた格好で彼女と初めて会話を交わした。
言葉なら何度となく交わしている。注文する客と聞き取ったメニューを復唱する店員という形で。
だが、それ以外で日常的な会話はこれが初めてだった。
「今日はいさきと黒鯛がオススメですよ」
お造りにしましょうか、と尋ねる彼女のイントネーションで関西の出身だろうかと小さな憶測が過ぎる。
目の前の女性がオーダーを通し料理を運ぶ人ではなく、自分と同年代の女性なのだと意識された。
「いさきを刺身にして欲しい。だが料理は連れが来てから出してくれ」
「分かりました。お通しも永倉さん達が来てからにしますか?」
「いや、焼酎と一緒に先にいただこう」
返事をしながら、その口から新八の名がよどみなく出て来たことに内心驚いていた。
毎週来ているのだから知っていておかしくはないが、二人が話をしている所は見たことがない。
そこでひょっとしたら先に来ている新八らは彼女とこうした会話をいつもしているのかもしれない、と気付いた。
自分は最後に合流してもう飲み始めている面々に後から加わるのが常で、その頃には店も混雑していて客と店員が話をするような雰囲気ではない。
「すぐお持ちしますね」
と笑顔で頷いた彼女が後ろを向く直前、胸元のネームプレートに「なまえ」と書いてあるのをみとめた。
苗字ではなく名前で書いてある事から、きっとここでは店員同士ファーストネームで呼び合い、親しみやすさを醸しだしているのだろうと思った。
きびきびとした足取りで厨房に面したカウンターへ寄り、俺のお通しとボトルキープしてある焼酎を持って来た彼女は、笑顔でそれをテーブルに置いた。
その指先の爪が光っているのが目に入る。僅かに注視されているのを察した彼女は、
「水仕事で割れないように透明のマニキュアを塗ってるんです」
と俺が何も言わぬうちに答えた。
「マニキュアは…爪に色を付ける為に塗るのだと思っていた」
そもそもマニキュアを塗っている間は爪に酸素が通らず、固まっている物を剥がすあの液体はきっとベンジンなどと同様に油性の物を溶かす性質があるのだろうから、何もしないよりよほど爪にダメージを与えそうだが、保護になるのだろうか。
小さな面積の其処を女性がどう手入れしているかなど知らぬ俺は、不思議な物を見る様子で彼女の手を眺めていたに違いない。
ふいに恥かしそうな表情を見せ、
「それでもやっぱり手は荒れちゃうんですけどね」
と自分の手の甲を反対側の手でさすり、はにかみ笑いをした。笑うと片方だけにえくぼが出来る事も、この時初めて知った。
数組の客に続いて新八、平助、そして珍しく総司までやってきたその晩は、にぎやかな酒宴の間じゅう幾度となく彼女の働く姿に目がいった。
テーブルとカウンターの間を忙しなく飛び回り、一時間経っても二時間経っても顔に疲れを表さない。
むしろ笑顔は客が増えるほど正気を帯び、ぺこりと片方の頬にえくぼを作ったまま働いている。
「なんだ斎藤、なまえちゃんが気になんのか? いい子だよなぁ〜、ああいうのを看板娘ってぇんだろうよ」
と永倉が食いつけば
「高校を卒業してすぐ、滋賀から上京したんだってさ。偉いよなー、俺らその頃まだ学生で遊んでばっかだったもんなー」
と平助が情報を足す。
「はじめくんはなまえちゃんに“人に愛想よくする”方法を教えて貰った方がいいんじゃない。会社で馴染めてる?」
「俺だって社会人だ、必要な受け答えぐらいは出来る」
さりげなく自分の“無愛想”という欠点を指摘され、すかさず言い返しはしたが。
チクリと棘が刺さったのも事実だった。
入社からまだ数ヶ月。
覚える事に必死で叱られる事も多く、それでなくとも人見知りの傾向がある上に元々口数も少ない自分は、まだ職場に馴染めていない。
十代のうちから実家を離れているという彼女は、お店の一部かのように苦もなく自分の仕事を捌いており。
同世代にも関わらず、その格差を感じずにはいられなかった。
携帯電話を忘れた事に気付いたのは、散会して一人暮らしを始めた部屋に帰り、スーツを脱ごうとした時だった。
内ポケットに入れてあると思ったはずが無く、カバンや他のポケットも探ってみたが見つからない。
酒混じりのため息を一つ零して再び店へ向かった。
夜になっても下がらぬ気温と飲酒で上がった体温とで背中が汗ばみ、苛立つ足取りで道を急いでいると、向こうから彼女が歩いてきた。
さっき家で時計を見た時、10時を過ぎていた。店を上がって帰り道なのだろう。
俺の姿を認めると小走りに駆け寄ってきて目の前で足を止めた。
「忘れ物に気付いてくれたんですね、よかった! でも途中まで来させてしまってすみません、ついでに届けようと思ってたんですが」
「っ!? あんたは俺の家を……知ってるのか?」
俺が驚く様子と言葉に、今度は彼女が驚いたようだった。
「知ってるも何も……同じマンションじゃないですか。引っ越して来た時にうちに洗濯洗剤を持って来てくれたの、覚えてないんですか?」
「そ……れ、は……すまない、全く覚えていない」
「あー、あの時私すっぴんだったから」
恐縮している所へフォローを重ねられ、更にハイこれと携帯電話を渡され。
申し訳なさと恥かしさでどう返してよいか分からず顔の熱くなるのを感じながら、今来た道を今度は二人で歩き出した。
上京して最初の二年間、調理師の専門学校に通いながら夜に今の居酒屋でバイトをしていた事。
卒業後はホテルへの就職口などもあったが、思いの外接客が楽しく、厨房に篭るよりはとそのままバイトを続けている事。
斎藤は金曜日にしか来店しない為知らなかったが、月火木は厨房に入っている事などを、マンションエントランスに着くまでに知った。
「だから夜10時に上がれるのはホールを回してる日だけなんです」
昼間は仕込みを手伝いながら、いつか自分の店を持つ日の為に、店長に協力してもらってメニュー開発をしたりもしているらしい。
夢を定め、それに向かってもう四年自分の足で歩いている彼女と、入社数ヶ月で未だ殻を打ち破れずにいる自身との開きを大きく感じた。
……俺ももっともっと頑張らねば。足りない部分と向き合い、一歩ずつ進んでいかねば、永久にこの開きは縮まらない。
斎藤は半ば意識的にへそ下の奥にぐっと力を入れ、彼女によって湧き起こったものを捉えた。
エレベーターに乗り込んで停止階を尋ねると、可笑しそうに
「二軒隣ですよ、斎藤さんの」
とクスクス笑う彼女に、再び謝りながら。
来週にも自分から同僚を誘って、彼女が厨房にいる日に店へ行ってみよう、と心に決めた。
夢の途中の味を。彼女の料理を食べてみたいと思った。
自分の部屋の二つ手前で足を止めた彼女に「おやすみなさい」と手を振って挨拶され、数歩進んだ所で、思わず振り返った。
問うような視線に、なぜか首から耳にかけてが熱くなる。
「俺もあんたに負けぬよう、頑張るゆえ……。また、話がしたい。こんな風に。その……今夜はありがとう」
一瞬不思議そうな顔をした彼女が「どういたしまして、それじゃあまた」と返し、開けたドアの中へ消えてゆくのを見届けた。
おそらく携帯電話を届けようとした事への礼だと思っただろう。
己の心の内で始まったささやかな意識改革など、彼女の与り知らぬ部分だ。
だが、斎藤は社会人になって初めてのボーナスよりも、今夜彼女と話して得た刺激や沸き起こった発奮の方が、
いつかそう遠くない将来、より大きな実りをもたらすだろうと予感していた。
そしていつか――
この夜の「ありがとう」の本当の意味を、彼女の作った料理を食べながら話せたら。
そう思わずにはいられなかった。
願わくば、彼女自身がオーナーシェフを勤め、常連客で溢れるその店で。
fin.
▼葡萄様のサイト開設二周年記念のフリーSSSを頂いて参りました。
社会人になりたての不器用で無愛想な斎藤さんが立った恋の入り口。
まだ自分でも気づいていない斎藤さんが初々しく瑞々しく、とても美しい作品だと思いました。
先に続く未来、幸福の予感。
いつかヒロインさんの手料理を一緒にいただける日を、心待ちにしたくなってしまいます。
葡萄様、改めましてサイト開設二周年おめでとうございます。
これからもどうぞよろしくお願い致します!
aoi
斎藤がいつも通り、毎週末仲間と集まっている居酒屋に入るとまだ誰も来ていなかった。それどころか他の客も一人も居ない。
開店直後とはいえ、金曜日の晩にこの店では珍しい事だった。
コの字型に仕切られた座敷席の掘り炬燵のようなテーブルに靴を脱いで座り、メニューに目を落としていると水が運ばれて来た。
「今日は早いんですね」
と声を掛けられ、人との会話が始まると予想していなかった俺の口は咄嗟に返事をする事が出来ず、顔を上げて彼女を見たまま数秒静止した。
「ああ、今日は定時で退社出来たから」
遅ればせに、しかも尻つぼみに返した声はいささか頼りなく、完全に不意を打たれた格好で彼女と初めて会話を交わした。
言葉なら何度となく交わしている。注文する客と聞き取ったメニューを復唱する店員という形で。
だが、それ以外で日常的な会話はこれが初めてだった。
「今日はいさきと黒鯛がオススメですよ」
お造りにしましょうか、と尋ねる彼女のイントネーションで関西の出身だろうかと小さな憶測が過ぎる。
目の前の女性がオーダーを通し料理を運ぶ人ではなく、自分と同年代の女性なのだと意識された。
「いさきを刺身にして欲しい。だが料理は連れが来てから出してくれ」
「分かりました。お通しも永倉さん達が来てからにしますか?」
「いや、焼酎と一緒に先にいただこう」
返事をしながら、その口から新八の名がよどみなく出て来たことに内心驚いていた。
毎週来ているのだから知っていておかしくはないが、二人が話をしている所は見たことがない。
そこでひょっとしたら先に来ている新八らは彼女とこうした会話をいつもしているのかもしれない、と気付いた。
自分は最後に合流してもう飲み始めている面々に後から加わるのが常で、その頃には店も混雑していて客と店員が話をするような雰囲気ではない。
「すぐお持ちしますね」
と笑顔で頷いた彼女が後ろを向く直前、胸元のネームプレートに「なまえ」と書いてあるのをみとめた。
苗字ではなく名前で書いてある事から、きっとここでは店員同士ファーストネームで呼び合い、親しみやすさを醸しだしているのだろうと思った。
きびきびとした足取りで厨房に面したカウンターへ寄り、俺のお通しとボトルキープしてある焼酎を持って来た彼女は、笑顔でそれをテーブルに置いた。
その指先の爪が光っているのが目に入る。僅かに注視されているのを察した彼女は、
「水仕事で割れないように透明のマニキュアを塗ってるんです」
と俺が何も言わぬうちに答えた。
「マニキュアは…爪に色を付ける為に塗るのだと思っていた」
そもそもマニキュアを塗っている間は爪に酸素が通らず、固まっている物を剥がすあの液体はきっとベンジンなどと同様に油性の物を溶かす性質があるのだろうから、何もしないよりよほど爪にダメージを与えそうだが、保護になるのだろうか。
小さな面積の其処を女性がどう手入れしているかなど知らぬ俺は、不思議な物を見る様子で彼女の手を眺めていたに違いない。
ふいに恥かしそうな表情を見せ、
「それでもやっぱり手は荒れちゃうんですけどね」
と自分の手の甲を反対側の手でさすり、はにかみ笑いをした。笑うと片方だけにえくぼが出来る事も、この時初めて知った。
数組の客に続いて新八、平助、そして珍しく総司までやってきたその晩は、にぎやかな酒宴の間じゅう幾度となく彼女の働く姿に目がいった。
テーブルとカウンターの間を忙しなく飛び回り、一時間経っても二時間経っても顔に疲れを表さない。
むしろ笑顔は客が増えるほど正気を帯び、ぺこりと片方の頬にえくぼを作ったまま働いている。
「なんだ斎藤、なまえちゃんが気になんのか? いい子だよなぁ〜、ああいうのを看板娘ってぇんだろうよ」
と永倉が食いつけば
「高校を卒業してすぐ、滋賀から上京したんだってさ。偉いよなー、俺らその頃まだ学生で遊んでばっかだったもんなー」
と平助が情報を足す。
「はじめくんはなまえちゃんに“人に愛想よくする”方法を教えて貰った方がいいんじゃない。会社で馴染めてる?」
「俺だって社会人だ、必要な受け答えぐらいは出来る」
さりげなく自分の“無愛想”という欠点を指摘され、すかさず言い返しはしたが。
チクリと棘が刺さったのも事実だった。
入社からまだ数ヶ月。
覚える事に必死で叱られる事も多く、それでなくとも人見知りの傾向がある上に元々口数も少ない自分は、まだ職場に馴染めていない。
十代のうちから実家を離れているという彼女は、お店の一部かのように苦もなく自分の仕事を捌いており。
同世代にも関わらず、その格差を感じずにはいられなかった。
携帯電話を忘れた事に気付いたのは、散会して一人暮らしを始めた部屋に帰り、スーツを脱ごうとした時だった。
内ポケットに入れてあると思ったはずが無く、カバンや他のポケットも探ってみたが見つからない。
酒混じりのため息を一つ零して再び店へ向かった。
夜になっても下がらぬ気温と飲酒で上がった体温とで背中が汗ばみ、苛立つ足取りで道を急いでいると、向こうから彼女が歩いてきた。
さっき家で時計を見た時、10時を過ぎていた。店を上がって帰り道なのだろう。
俺の姿を認めると小走りに駆け寄ってきて目の前で足を止めた。
「忘れ物に気付いてくれたんですね、よかった! でも途中まで来させてしまってすみません、ついでに届けようと思ってたんですが」
「っ!? あんたは俺の家を……知ってるのか?」
俺が驚く様子と言葉に、今度は彼女が驚いたようだった。
「知ってるも何も……同じマンションじゃないですか。引っ越して来た時にうちに洗濯洗剤を持って来てくれたの、覚えてないんですか?」
「そ……れ、は……すまない、全く覚えていない」
「あー、あの時私すっぴんだったから」
恐縮している所へフォローを重ねられ、更にハイこれと携帯電話を渡され。
申し訳なさと恥かしさでどう返してよいか分からず顔の熱くなるのを感じながら、今来た道を今度は二人で歩き出した。
上京して最初の二年間、調理師の専門学校に通いながら夜に今の居酒屋でバイトをしていた事。
卒業後はホテルへの就職口などもあったが、思いの外接客が楽しく、厨房に篭るよりはとそのままバイトを続けている事。
斎藤は金曜日にしか来店しない為知らなかったが、月火木は厨房に入っている事などを、マンションエントランスに着くまでに知った。
「だから夜10時に上がれるのはホールを回してる日だけなんです」
昼間は仕込みを手伝いながら、いつか自分の店を持つ日の為に、店長に協力してもらってメニュー開発をしたりもしているらしい。
夢を定め、それに向かってもう四年自分の足で歩いている彼女と、入社数ヶ月で未だ殻を打ち破れずにいる自身との開きを大きく感じた。
……俺ももっともっと頑張らねば。足りない部分と向き合い、一歩ずつ進んでいかねば、永久にこの開きは縮まらない。
斎藤は半ば意識的にへそ下の奥にぐっと力を入れ、彼女によって湧き起こったものを捉えた。
エレベーターに乗り込んで停止階を尋ねると、可笑しそうに
「二軒隣ですよ、斎藤さんの」
とクスクス笑う彼女に、再び謝りながら。
来週にも自分から同僚を誘って、彼女が厨房にいる日に店へ行ってみよう、と心に決めた。
夢の途中の味を。彼女の料理を食べてみたいと思った。
自分の部屋の二つ手前で足を止めた彼女に「おやすみなさい」と手を振って挨拶され、数歩進んだ所で、思わず振り返った。
問うような視線に、なぜか首から耳にかけてが熱くなる。
「俺もあんたに負けぬよう、頑張るゆえ……。また、話がしたい。こんな風に。その……今夜はありがとう」
一瞬不思議そうな顔をした彼女が「どういたしまして、それじゃあまた」と返し、開けたドアの中へ消えてゆくのを見届けた。
おそらく携帯電話を届けようとした事への礼だと思っただろう。
己の心の内で始まったささやかな意識改革など、彼女の与り知らぬ部分だ。
だが、斎藤は社会人になって初めてのボーナスよりも、今夜彼女と話して得た刺激や沸き起こった発奮の方が、
いつかそう遠くない将来、より大きな実りをもたらすだろうと予感していた。
そしていつか――
この夜の「ありがとう」の本当の意味を、彼女の作った料理を食べながら話せたら。
そう思わずにはいられなかった。
願わくば、彼女自身がオーナーシェフを勤め、常連客で溢れるその店で。
fin.
▼葡萄様のサイト開設二周年記念のフリーSSSを頂いて参りました。
社会人になりたての不器用で無愛想な斎藤さんが立った恋の入り口。
まだ自分でも気づいていない斎藤さんが初々しく瑞々しく、とても美しい作品だと思いました。
先に続く未来、幸福の予感。
いつかヒロインさんの手料理を一緒にいただける日を、心待ちにしたくなってしまいます。
葡萄様、改めましてサイト開設二周年おめでとうございます。
これからもどうぞよろしくお願い致します!
aoi