various | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
逢いみての


白い野の花で編んだ花冠。
少し背伸びをした小さな両手。
捧げ持つそれが、腰を屈めた俺の頭にそっと載せられた。





夜半、驟雨の音で意識が戻る。
粗末な屋根を叩き割らんとする勢いで雨音が鳴る。壁板に凭れて腰を下ろし目を閉じていた斎藤は、傍らの刀を掴みかけて瞼を上げた。
爆音ではない。雨の音だ。

「……このような時分に」

直ぐに闇に慣れた目で見る先には、もうひとつ床を延べられるほどの間隔をあけ二組の布団が敷かれている。街道沿いに残った数少ない旅籠の一部屋にいるのだとすぐに思い至る。
本来ならば野営をしているところだ。
率いる新選組隊士達と旧幕兵を島田に預け、疲れを見せる雪村を慮り今宵は宿をとった。心細げな目をする雪村を独りにするのに不憫を感じ夫婦と偽っての投宿だった。
薄く盛り上がる一方の掛け布団の規則正しく上下するのを認め、夏だと言うのに上着も着たままで首元まできっちりと閉じていたシャツの釦を寛げ、斎藤は再び目を閉じる。
次の眠りは容易く訪れず脳内に巡るのは、ほんの数日ばかり前の塩川村の陣での再会だった。

「斎藤、千鶴を頼む。連れて行ってやってくれ」

土方副長が斎藤に向かって個人的に命を下したのは無論初めてではない。京にいた頃から幾たびもあった。そして必ず信頼に応えるべく、斎藤は命に服した。
しかしあれは命令というよりも、懇願と言った方が似つかわしいように思えた。
雪村は隣に在る断髪の黒髪が、いつになく頭を垂れる様を見、慌てて「お願いします」と自分も深く頭を下げた。
篝火が熱い風に揺れ、火の粉が夜空にあかく舞った。

「……しかし、」

あの時は流石に逡巡を隠せなかった。
雪村は怪我を負った土方副長が戦線を離れる際につき添い、片や斎藤は白河口へと出陣し会津新選組の隊長として死線を潜ってきた。松平容保候に拝謁し、最後の一兵となっても会津を守り抜くと告げた彼の御方のその人柄に触れ、忠義の為だけに一命を賭す覚悟を斎藤は決めていた。
もとより勝算のうすい戦である。副長が進む道も己の歩む道も険しいことに変わりはない。
だが会津は背水の陣だ。後がないところまで追い詰められている。
であれば仙台へと進軍する副長に従った方がまだ永らえる道を模索できようものを。
土方副長の意図が計りかねる。新選組は預かりとなった雪村の生命をこれまで守ってきた。だからこそ彼の苦汁を孕んだ言葉に違和感を持ったのだ。
気づけば雨音が止んでいる。
辺りを包む静寂に寝息を聞きもう一度目を開けた斎藤は、建付けの悪い窓から差し込む月光に目を細める。
雲が切れたのか。
すっかり眠気のとんだ彼は刀を手に音を立てずに立ち上がった。
宿の人間は老人が一人。それも疾うに寝静まっている。
足音を忍ばせ裏口に回り外に踏み出せば、青い月明かりの中によく茂って鬱蒼とした木々が雨に洗われ、夜明けからまた戦闘の開始されることがまるで嘘のような清浄さを感じた。
山あいの夜ともなれば昼日中よりは幾らか涼しいがそれでも八月のことである。
額に滲む汗を拭おうと上げかけた手が腰の刀に当り、かちゃと音を立てた。

「……っ」
「……誰だ」

目の端を過る影に瞬時に身を強張らせるが、気配に敏感な斎藤はそれが女であると直ぐに解った。

「出てこい」

低い声で短く告げる。
木の影で息を潜めた気配は、逃げ隠れを無駄と悟ったのか、やがて斎藤の前におずおずと姿を現した。
敵兵でないと安堵するも、戦で散々に荒らされたこの街道沿いに女がいる自体、俄かに信じ難いことだった。
市目笠を手にした女は俯いて、先ほどまでの雨に打たれた所為か結い上げた髪は乱れて濡れそぼち、旅姿をしとどに濡らしている。見たところ連れはないようであった。

「何者だ。何故このようなところにいる」

ゆっくりと顔を上げた彼女は斎藤と視線を合わせるなり目を見開く。斎藤もまたその面差しに釘付けになる。だが僅かばかりの時間だった。
胸元に入れようとした細い手首を、それよりも早く傍寄った斎藤がきつく掴み寄せた。





女はみょうじなまえと名乗った。
部屋の外に出ていた斎藤が戻ると、雪村に手伝われ一枚きりの着替えに身を改めたなまえは、ささくれた畳に小さくなって座っている。
整え切れず首すじにまつわる濡れた黒髪を気にする様子に、つい目を奪われた斎藤は己の反応に内心苦笑した。
なまえは雪村と歳が幾つも違わないようだった。
両の手に包んでいるものは御守であろうか。手に収まる二寸五分ほどの円形の平たいものを、如何にも大切そうに胸元で握りしめている。先刻懐に入れた手で取り出そうとしたのはそれだった。
しかしこの時の斎藤はそれよりも、彼女の手首に薄っすらと残った痕の方に気を取られていた。

「らくにするとよい」
「……ご迷惑をかけまして」
「こちらこそすまなかった。だがあまり驚かせるな」
「申し訳ありません」

不意の動きに脊椎反射で行動する癖のある斎藤は、なまえが懐剣を取り出すのではないかと考えたのだった。薄赤く残る指の痕は斎藤がつけたものだ。些かばつの悪い気持ちになる。
なお下を向いたまま彼女が手のものを再び懐に仕舞いこむ。その表情は先刻よりも陰りを帯びているかに見えた。

「先ほどは無礼なことをした。夜明けには間がある故、布団を使え」
「あの、でも、斎藤さん……、」

それまで黙ってなまえを見ていた雪村が声を上げる。どこか非難の色がこもっていた。
それも無理からぬことではある。このような夜半、戦場である街道に突如単身で現れた女であれば、警戒心を持つのも至極当然と言えた。
はっとしたように顔を上げたなまえが腰を浮かしかける。

「すみません、すぐに去りますので、」
「構わぬ。それよりも……その、以前会ったことがあるだろうか」
「……え?」
「あんたの顔を見知っているような……」
「……お人違いです」
「そう、だろうか、」

じっと見つめる斎藤を見つめ返した瞳はまた伏せられた。
斎藤のいつにない口調に雪村が不安げな視線を寄越すが、それには構わずなまえにもう一方の布団に休むことをなお執拗に勧めた。
固辞するのを強く引き留められ、結局なまえは根負けをしたように頭を下げる。
雨に濡れた姿はくたびれた様子だったが、こうして見ればその白い頬は清潔感があり、髪を気遣う仕草は武家の娘のような育ちの良さを感じさせる。
二人を残し部屋を出た斎藤は、我に返って己の酔狂を自嘲した。

「一体何をしているのだろうな」

他に泊り客はない。戸口の近くに腰を下ろし壁に背を預けて独り言ちた。
雪村だけでも手に余るというのに。
しかし斎藤は女独りの身で京から会津までやってきたというなまえを、このままここで放り出す気にはとてもなれなかった。
静かに目を閉じる。





まだ髷も結わぬ年ごろのほのかな風に揺れる切り禿が、その艶やかな黒髪が頬に触れた。
いとけない声が口ずさむのはなんの歌だったか。
記憶のおぼろげな遠い日の夢を見た。





行軍に女子の存在は行動の制限を伴うが、日が暮れて陣に入ればなまえのいることがむしろ有難かった。無意識に気にかけていた斎藤は日に幾度となく彼女の様子に注意を払った。
負傷した者の手当ても厭わず機敏によく動くなまえは、煮炊きをするうちに雪村とも打ち解けた様子である。
驚いたことになまえは刀の扱いを知っていた。
その夜、隊士達の破れた着物の繕いを終えたなまえが、ふと斎藤の傍らに手を伸ばした。
戦場に在っても己で手入れを行う斎藤は本来ならば、他人が愛刀に触れることをあまり好まない。

「斎藤さんの刀、柄巻が痛んでいますね。手溜まりが悪くありませんか? ……よろしければ巻き直しをしましょうか」
「出来るのか」

手入れの悪い刀は三人も斬れば使い物にならなくなるが、斎藤の鬼神丸は折れも曲がりもせず刃こぼれさえなかった。最上大業物にも引けを取らぬ切れ味は、天賦の才を持つ彼の技量に他ならない。
少しだけ抜いた刀身を見つめてから鞘に戻したなまえは、鍔に細い指を這わせまるで愛おしげに撫でる。一頻りそうしてから生きている物を扱うような魂のこもった手つきで、紙を敷き薬煉を使って丁寧に柄糸を巻いていった。
その横顔を斎藤は息を飲み見つめていた。懐かしく慕わしい、それでいて何処かが痛むような、形容のしがたい感覚に捉われていく。

俺はなまえをどこかで……。

「出来ました」と見せた笑顔は花が咲き開くようだった。

このような顔を見たのは初めてだ。
いや違う。
いつか、どこかで見ているのだ。

目を離せずにいた斎藤は、それまで彼女の手に任せていた愛刀が差し出されるのを見、改めて柄巻の見事さに驚かされた。手に取り柄を握ってみてなまえに視線を戻す。

「あんたは、一体」
「見よう見まねです」

笑顔を消したなまえは出会った夜と同じに胸元に手を遣り、あの夜と似た瞳の揺らし方をしてまた下を向く。
傍らに刀を置き斎藤が膝を寄せようとすれば身を引いた。

「出過ぎたことを、申し訳ありません」
「いや、助かった。聞きたいのは、そういうことではなく」

京にいた頃にあれほど繁く通った刀剣商でも、こうして拵えを眺めた覚えなどはないのだ。

ならばどこで。
彼女をどこで。

一体誰なのだ、そう問おうとしたきり言葉の続かなくなった彼は、他人事のように無自覚に、己の手がなまえへと伸びていくのを見た。

「俺はあんたを、」
「……っ」
「あんたとどこかで」

指先が頬に触れる刹那、びくりと肩を震わせたなまえが弾かれたように顔を上げた。その瞳が思いがけず濡れていたのを知り、斎藤の胸がドクリと音を立てる。
明日には城下に陣を敷く。既に会津藩は籠城していた。加勢をしたいが新政府軍の攻撃の激しさに斎藤の隊は若松城に近づけずにいた。

戦場で何をしようとしているのか、俺は。

しかし手は止まることなく滑らかな頬を包む。肩に手をかければ身を強ばらせ、瞳にみるみる盛り上がる涙の玉が零れ落ちた。
心の臓が早鐘を打つ。
斎藤のすべての箍が外れるぎりぎりのところで、なまえの手が拒否を示し彼の身体を押し戻そうとした。

「離して、」
「顔をよく見たい」
「もう、戻ってきます、雪村さんが、」
「なまえ、あんたのことを教えて欲しい」
「離して、斎藤さん」

彼女の言うとおりだった。少し前に島田のところに遣いに行った雪村が直ぐに戻ってくるはずだ。
だが腹の底から突き上げる、遠い日への憧憬にも似た想いが斎藤を焦らせた。
手を離す事ことなど出来ず、己の腕の中に収めたいと心の赴くまま強く引き寄せる。今ここでこの手を離せばもう二度となまえに近づくことが許されぬ気がした。
抗う手首を取ろうとすれば、それが癖だったか胸元を押える手から円形の鉄が床板に落ち、それは重く硬い音を立てた。

「あ……っ」

なまえが大切にしていたもの。
初めて目の当たりにした斎藤は驚愕に眼を見開く。信じられぬ思いで顔を上げなまえを見れば、彼女は口唇を震わせていた。
斎藤の腕を逃れ出たなまえが手を伸ばし拾い上げる。

「なまえ、あんたは、昔、俺と……」
「思い違いです」
「あんたを愛おしいと思ってはいけないか。俺が嫌か」
「奥方様がいるのでしょう」
「なに?」
「雪村さん……、夫婦なのでしょう?」
「夫婦?」
「なまえさん……ひどい、ひどいですっ!」

背後から涙の混じる絶叫が聞こえた。それが雪村の声と認識するよりも前に、なまえが斎藤の脇をすり抜ける。
たった今、開きかけた記憶の扉はもう閉じることはなく、全てが悲しいほどに鮮明に胸に落ちてくる。
なまえの華奢な手に強く握り締められていたのは円形の鉄。斎藤の傍らに置かれた愛刀に装着されたものよりも古びていたが、丸型の透かし文様は正阿弥の四方鉈透鍔。
斎藤の武士としての矜恃を長く支えてきた愛刀の、鋭利な刀身から彼自身の左手を守る重要な刀装であった。
目の前の霧が晴れたように何もかもが見えてくる。

「なまえ!」
「行かないで。行かないでください。私、ずっと……斎藤さんと……」

踏み出しかけた足が止まる。
振り向き見下ろせばなまえと同じ年頃のこの娘もまた、その目から大粒の涙を零していた。
決して離さぬとばかりに、彼の上着の裾を固く握り締めた手が白くなっている。
塩川村での土方の苦渋に満ちた表情が蘇る。今にも走りだそうとした足が動かなくなった。

託されたのだ、俺は。
尊敬してやまぬあの人に、あの人の代わりとして。
新選組だけでなく、この雪村の行く末までを。

斎藤はかつて一度の例外もなく命には絶対の服従をしてきた。
床に膝を落とす。背に縋りつく雪村を振りほどく気力などもう残ってはいなかった。

「なまえといつ、なにを話した」
「最初の夜……着替えの時に」
「俺とあんたが夫婦だと?」
「土方さんがそうなれと言いました、なのに……あの人が斎藤さんを探してここまで来ただなんて、私………、」
「……そうか」
「私、ずっと斎藤さんについていきます。だから、」

辻褄があったとしても今更だ。何もかもが遅い。
あの時と逆になったのだと思った。今度消えたのはなまえの方だった。
未だ蒸し暑さの残る夜、新しい月に替わって数日ばかりが経っていた。





一面に白い小さな花の咲く野辺で、頑是無い小さな手に大切に握られたそれは無骨で、少女の喜びそうな華やかな品とはとても言いがたい鉄製の鍔であり「そのようなものをどうするのだ」と問えば「宝物にします」と嬉しげに笑んで答える。
幼い笑顔と、年を経り臈長けたなまえの先刻の笑顔とがぴたりと重なった。
なまえは江戸にいた頃に、斎藤の父親が懇意にしていた腕のよい刀装工の娘だった。

「はじめさんがわたくしをお嫁様にしてくれるとき、かならず持って行きますね」

刀から外された鍔を大切に懐に仕舞うと、白つめ草で花冠の続きを編みながら和歌を口ずさむ。それは何の歌かと尋ねれば。

「百人一首の歌。恋仲のふたりの逢瀬の歌です」

面映ゆげに頬を染め大人びた口調で答えるのに、つられて思わず目元を染めた。
屈託なく笑っていた少年の日。
淡く儚い想い。人を狂おしく恋うる心などまだ知らぬまま、彼自身の元服を控えたうららかな春の午後だった。
数年後小石川で旗本との間に忌まわしい事件を起こし、江戸を出奔し京に上った山口一は人斬りとして生きる為、あたたかな記憶をひとつ残らず手放した。
愛おしい少女と過ごした時間も、彼女の名前さえもすべて。





戊辰の戦が終結し丁度一年が経った。旧会津藩が再興を許されたのはここ斗南であった。
日本は開国に向けて進んでいる。
刀の時代が終わる。
女の身で柄巻師として藩庁に世話になることが決まったなまえであったが、そう遠くないうちに職を失うことは想像に難くなく途方に暮れてもいた。
吹き抜ける五月の風は優しく、見晴るかす大地はどこまでも続く一面の緑で、点々と白い小さな花たちが健気に咲く様はいじらしく、知らず知らずになまえの頬をに笑みが上った。
白い花を摘みながら懐かしい花冠を編んでみる。
かつて紫黒の長い髪を持つ綺麗な男の子の頭上に載せた少女の日の自分。あれから長い長い時が過ぎた。
際限なく花を編んでいくうちにたまたま摘み上げたのは四つ葉だった。
元は西洋の植物だったと聞いた。本来三つ葉である白つめ草はごく稀に四枚の葉をつけることがあり、それを見つけた者には幸運が訪れるいう言い伝えが西洋にあるのだと聞く。
じっと見つめるうちに涙がはらはらと落ちた。
あの頃の幼い自分ははまだ何も知らなかったのだ。
再び会うことさえなければこうして苦しい想いを抱えることはなかったのかもしれない。
職の為、京へと居を移した父についてきたなまえは、直接のかかわりはなくとも新選組を知っていた。彼が名を斎藤と改めていたことも。
やがて戦が勃発して新選組が幕軍として出陣し、もう一度だけでも逢いたいと微かな風の便りに縋る思いであの街道を一人歩いた。

「結ばれぬ悲しい運命なら……、逢わなければよかったのに」

指先の四つ葉を見つめていたなまえは、背後に近づく人の気配に気づくことが出来なかった。
草を踏む足音が聞こえた刹那、驚いて振り向くより先に、後ろから伸びてきた腕が身体にまわされた。
抱きしめられて髪に吐息が落ちてくる。
一度強張った全身の力を抜き、なまえは抗わずに目を閉じた。

「俺はそうは思わぬ」

心を震わす低い声が耳元で囁いた。

どうして、あなたにわかったのだろう。私がここにいることを。
そして私自身も、この腕があなたのものであるということを、どうしてすぐにわかるのだろう。

「いま、帰った」
「離して、ください」
「離さぬ。またなまえに逃げられてはことだ」
「……どうして、ここに。雪村さんは」
「最初に言っておくが、雪村と夫婦になったことは一度もない」

今頃は蝦夷にいるはずだと、なまえを背から抱きしめた格好のまま斎藤は短く語った。
それきり口を噤んだが、最後に別れたあの夜から常に最前線で戦ってきた彼の生きる縁はなまえ唯一人であったのだと、言葉にしなくとも強い腕の力だけで彼女の心にはゆっくりと染み透ってくるようだった。
忘れていてさえも夢に見たあの日々を。もう一度、辿る事が出来るのならば。
だから必ず生きて今度は己がなまえを見つけ出すのだ。
斎藤の想いが痛いほどに伝わってくる。
なまえ自身、斎藤への想いを抱いてここまできたのだと、胸の前で交差する腕に思いを込めて両手を重ねた。
伏せた目から幾つも涙が零れ落ちていく。

「時にひとつ確かめておきたいことがあるのだが」
「はい」
「なまえの気は変わっていないだろうか」
「……なんのことですか?」
「あんたはあの時、その、俺の、」
「あの時……?」

言いよどむ斎藤を振り返り仰ぎみれば、目元を朱に染め耳までが火を噴いたようにあかく染まっていた。
あまり表情を顕にしないと記憶していた彼の、その様子の珍しさに驚いて、なまえは彼の相貌を食い入るように見つめた。
耐え切れずに目を逸らす様につい笑いが零れる。泣き笑いの顔になったなまえを見返し斎藤も頬を緩めた。

「そのような目で見るな」
「だって。はじめさんの、なんですか?」
「お、俺の、つ、妻になると……あの時あんたが言ったように思う……、花冠を編んで」
「え、」
「もう、忘れてしまったか」

なまえは子供のするようにぶんぶんと大きく首を横に振った。
斎藤の腕に拘束されたまま、自身の着物の胸元にそっと手を差し入れる。手のひらに握り締めた刀の鍔ごと斎藤の大きな手が包んだ。
腕の中で躰の向きを変えれば斎藤の指がなまえの涙を拭う。穏やかに澄んだ瞳がゆっくりと近づいた。
あの夜には叶わなかった。
互いに今度こそ心から求め合い、飽くことなく口唇を触れ合う。
五月の風がきつく抱きしめ合う二人を柔らかく撫でては吹き過ぎていった。

「俺は東京に行く。なまえを迎えに来た。ついてきて欲しい」

口唇を僅かに離し、近い距離で斎藤が瞳を覗き込んだ。





あなたを守り共に戦ったこの愛おしい品を手に、あなたのお嫁様になると幼い私は確かに言った。
忘れるはずなどないでしょう?
十年もの時を経た今、やっとその約束が果たされる。



【脚注】
※二寸五分:75ミリ
※薬煉:松脂を煮て練り上げた粘着剤
※柄巻:刀の柄を補強し手馴染みをよくする為に巻かれた組紐や皮
※手溜まり:刀や槍の柄を手にした時の感覚や具合のこと


2015.05.02




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE