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03


「なまえ……、いないのか」
リビングドアを開ければ、すっきりと片付いた部屋の中は無人だった。車を走らせ家路を急ぎながら、夕食は何処に連れて行こうなどといつになく浮き立った気持ちで考え、なまえが瞳を輝かせる様まで想像していた俺は、そこに彼女の姿のないことに軽く拍子抜けをした。
だからと言って仕事で留守の俺を家で待てなどと亭主風を吹かせる気はなく、せっかくの休みに彼女が何処へ出かけようと咎めだてをするつもりもなかった。
予定を告げる習慣が自身にない為無論なまえにもそれを強制はしないが、彼女の職場は決まって土日祝休であるし、彼女は大抵の場合いつどこへ行く、誰と会う、何を買った何を食べた等々予定のみならず結果まで、聞かずとも自ら報告をしてくるのが常だった。
近場に買い物に出ているならすぐに戻るだろうと深く考えずに腕時計を見、上着を脱いでソファの背もたれにかけた。タブレットを取り出してレストランガイドを眺める。手に入った自由な時間は4時間程。しばらく画面に集中していた。
ふと壁の時計を見上げれば、帰宅してから一時間近くの時が経過し、それは無意識に確かめる右手首の腕時計の針と同じ角度を示していた。
その時の俺は、決して苛立っていたわけではない。車に置いたままにしてあった資料を取りに行こうと思い立ったのは、単に無為に過ごすことに慣れていなかったせいだ。仮眠を取ってしまえば帰宅した彼女はきっと俺を起こさない。
致し方ないことだ。予め連絡を入れずに戻った俺が悪い。なまえに電話をしてみようと思わぬでもなかったが、もしも友人とでも会っているのなら気を使わせるのも可哀想だろうと思った。
玄関ドアのノブに右手をかけて開くなり、人の話し声を聞いた。俺は、我知らず動きを止める。
「今日もありがとうございました」
「アップルパイ、嬉しかったですよ」
声は左隣の玄関先から聞こえており、そちらを見れば内側から開かれたドアの影になり向こう側に立つ人間の姿は視認できない。だが声の一人は確かになまえだ。
隣の家にいたのか?
アップルパイとはなんだ?
隣人の顔を思い出そうとするが記憶にない。男の声であることに不審を感じる。短い会話だが、親しげなそれは俺の不愉快を誘った。なまえの声がいつになく華やいだ様子に感じとれたのだ。
しかし決定的に神経に触れたのは次の言葉だった。
「山崎さんに手作りを差し上げるなんて、かえって失礼なことをしてしまって」
「いや、本当に美味かった」

『山崎さん』……だと?

その名を耳にして蘇ったのは今朝ほどのベッドの中での事だ。あの時はよく聞き取れなかったなまえの口にした言葉。誰かの名のようだとは思ったが、頭の中ではっきりと形を成さなかったそれは、そうだった、間違いない。
なまえは夢の中で『山崎さん』と呼んだのだ。
今ここで再び耳にして初めて確信する。普通は姓だけでその名を持つ人間の性別など判断できないが、あの時俺はそれを男の名だとどこかで決めつけていた。そしてそれが正しかったことを、今ここで突きつけられている。しかし口を挟むことなどできず、俺は動けぬままでいた。
「それじゃ、今日はこれで……、」
一歩足を引いてドアの影から姿を表したなまえに続き、『山崎』も顔を覗かせる。
「あ、一……、」
俺に気づいたなまえの声に、こちらを見たその男を改めて見れば覚えがあった。短髪に吊り気味の双眼。
昨夜、マグカップを処理する俺の為になまえは風呂の支度に行った。その時にキッチンカウンターに置かれた本にかかっていた布巾を何気なく除け、目にしたその表紙に写っていた顔だ。隣人だとはつゆ知らなかったが、今思えばマンションの駐車場で見かけたことがある気もした。
男は特に感情の現れない顔で「山崎です」と会釈する。こちらも無感情に「斎藤です」と会釈を返せば、僅かに目元を緩めなまえに向かい「ではまた」と言ってドアを閉じた。





空気が重くて私は何も言えなくなってしまった。部屋に戻ってから、改めて「おかえりなさい」と言えば一は応えずに「時間が空いたゆえ戻ったが20時にはまた出る。食事にでも行くか」と言った。
「…………うん」
だけど口調が明らかに不機嫌そうなのだ。
私は教わった料理の試食をしたばかりでお腹は空いていない。けど正直にそうとは言いにくいので曖昧な返事になる。
ソファに座った一の側にもなんとなく近寄りがたく、私は意味もなくキッチンに入った。手にしたバッグの中身を出すのも気後れがした。
「気が進まないのならば無理にとは言わん」
「…………」
どこか投げやりな彼の言い方になんとなく居たたまれなくなる。何からどう説明していいのかわからないのだ。私は迷っていた。せっかくの秘密、できればまだ内緒にしておきたい。でも秘密を通すのは無理な気もする。悪いことをしているつもりはないけど、隠し事をしていたといえばしていたわけだし。
うまく言葉を見つけられずに黙った私を、首を捻った一が見つめる。おずおずと彼を見返せばその視線は私から逸れて、私の背後のオーブンレンジのあたりに移った。
「料理を習っていたのか」
「……え、」
「その本の男か」
本? 一はレシピの本のことを言っているのだろうか。昨日の夜、カウンターの上で布巾をかけたあれ。今もレンジと壁の間に挟まっている。
隠したことにそんなに深い意味はなくて、本の話をすれば料理を習うことになった経緯にきっと話が及ぶし、そうすればサプライズで用意するつもりのお節料理の話にもきっとなってしまう。
サプライズがバレたところでどうということもないけれど、出来上がったそれを見せた時の一が驚く顔を、そして喜ぶ顔を見たかった。お正月の小さなお楽しみだと、私が考えていたのはそんな単純なことだった。
なのに今、重苦しい空気の中で無表情の一はどう見つもっても機嫌が悪い。
私の気持ちはどんどん萎んでくる。こんなやりとりをするのは本末転倒というものだ。怒らせるくらいなら話してしまったほうがいいのだ。私は気を取り直す。
「うん、……偶然にお隣さんだって知ったの。有名な人だから驚いちゃったんだけど、流れで教えてくれることになって」
「隣には何度も行っているのか」
「……今日は三回目」
「いつから」
「一月くらい前……お仕事のないときに教えてくれるから」
「習わなくともなまえは料理ができるだろう」
「それはそう、だけど……、」
「生徒は何人いるのだ」
「え、ちゃんとした教室じゃないから……他にはいない……」
「二人きりで?」
順を追って説明したかったのに畳み掛けるように聞いてくる一の問いに、答える私はまるで弁解しているみたいになって、そうしているうちに一の顔色が変わってくる。声もどんどん低くなってくる。普段から怒声を上げる人ではない。だけどむしろ抑揚のない話し方が彼の穏やかでない心情をよく表しているのだ。
焦る気持ちの反面、私の方にも薄っすらと不快感が湧いてくる。なんだか言いがかりをつけられてる気にもなってくる。私に疚しい気持ちなんてない。
黙っていたのはそんなに悪いこと? それに少し考え過ぎじゃない?
「二人きりとか変なこと考えないで。あの人はそういう人じゃなくて、料理の腕は流石プロって感じだし、人柄も誠実だし、少し一と似たところがある気がするくらいだし、山崎さんは、」
言いかけた時、一の目つきが変わった。眉を寄せるでも顔を歪めるわけでもないのに、その青い瞳だけが刺すように鋭くなり隠し切れない不快感を顕にした。
「また行くつもりではないだろうな」
「…………、」
「なまえ」
「あと、一度だけ、あした、」
「……料理だけか」
「え?」
「教わるのは料理だけなのか?」
「なにを…………なにを、言っているの……?」
「…………」





再び仕事に向かう為地下駐車場に向かう足は、数時間前とは打って変わって重い。
寝起きと言っても眠れたわけではない。あれから独り無言で寝室に入り、スウェットに着替えベッドに横になっても眠れるわけがなかった。前の夜に乱したシーツは替えられて清潔に整えられ、己の狼藉の痕跡はすっかり消えている。
出勤の為に身支度をして寝室を出た時、ソファに座っていたなまえは何もしておらず、それでも気遣うように俺に目を向けた。
いつもそうだ。仕事に追われ仕事を言い訳に俺は何もできない。二人の生活のために手をわずらわせるのはいつもなまえの方だけなのだ。
感謝をこそすれ訳のわからない態度をとり困惑させるなど全くあり得ない。それをよくわかっている。
あのような思いをさせるためにこの部屋を借りたわけではない。
先程は流石に言い過ぎたと思っている。俺は最初からあの男との関係を疑っていたわけではなく、料理を習うこと自体も悪いと思ってはいないのだ。言うなればただ面白くなかった。全く大人気ないこととしか言いようがないが、きっかけは恐らくその程度だった。
有名人文化人と言われる人間に興味を持つなどというのは、普通の女性にはよくあることだろう。そういった対象が身近にいたとなれば、はしゃぐのも無理はない。俺にそういうことはないが、それが一般的な女性というものかもしれぬと思う。
喉に刺さった魚の小骨のように心に引っかかるのは、別のことだ。なまえが夢であの男の名を呼んだ。それだけが腑に落ちなかった。実際本人を目の前にすれば胸が騒いでどうしようもなくなった。
俺の腕の中で夢に見るほどか?
それほどにあの男が今、お前の心を占めているということなのか?
何故今回ばかりは何も言わなかったのだ?
隠すようなことではないだろう?
そして間が悪いことにふいに半分に割れたマグカップのことが頭に上った。二人で買った揃いのカップの片方が壊れたこと、それがまるで悪い予感だったかのように思えた。
ここ一月といえば話をゆっくりする時間もろくにとれていない。話したくとも話す機会を作れなかったのは己の都合である。
いつも待たせている罪悪感ばかりだ。待たせることしかせず、俺から与えられるものが寂しさしかないとしたならば、なまえの楽しみを奪うなど俺に出来るわけがない。彼女を束縛することなど到底出来るわけがないのだ。
なまえはいつも微笑む。だがその心の中では涙を流していたのかもしれぬ。愛情を伝えたあの時から、ずっと。
俺のような男がなまえに伴侶として生きてくれと望むなどしてよいことなのだろうか。
彼女には俺よりも……。
堂々巡りを繰り返しながらアクセルを踏み込む。
右折しかけた交差点の信号が赤に変わる。躊躇わずに大きくハンドルを切る。

そんなことがあってたまるか。

俺は誰よりも彼女を愛しているという自負がある。
絶対に誰にも渡したくない。昨日今日好きになったわけではない。幼い頃からずっと想い続けてきたのだ。すれ違い長い時を経ても想いは消えることなく、ようやく彼女へと繋がり、だからこそ俺達は今共に在るのではないか?
オフィス近くの駐車場に車を入れエンジンを切るなり胸ポケットのスマートフォンが鳴った。なまえからの着信かとつい思うが淡い期待は裏切られ、表示されていたのは姉の名だ。
『お正月は休み取れるの?』
「…………、」
『あんたのことはどっちでもいいんだけど、なまえちゃんは寄越しなさいよ』
「今から小姑気取りか」
『なんなの、その言い方! 相変わらず可愛げのない。あんたまさか、なまえちゃんを泣かせてたりしないでしょうね』
「うるさい」
一層の不快感に襲われて終話をタップする。途切れた電波の向こうで緋紗子が金切り声でも上げているのが聞こえるようだ。
だが、もうこれ以上精神を乱されたくなかった。今から夜を徹しての業務に当たらねばならぬのだ。
翌日ほとんど朝と言ってもよい時間に帰宅した俺は玄関のドアを開けるまで、もしかしたらそこになまえがいないのではないかといった不安と焦燥を感じていた。しかし俺が家を出た時のまま、着替えをした様子もなく、恐らく眠ってもいないのであろう彼女の痛々しい笑顔に迎えられ、またやるせない気持ちになる。そして自分の不甲斐なさに苛まれる。
黙って寝室で上着を脱ぎリビングに戻れば、俯いたままのなまえが小さく声を掛けてきた。
「……あのね、お料理を教わる事、一が嫌ならやめようかなって思って。……ごめんね」
「俺にお前のしたいことを止める権利はない」
悪いのはなまえではなく俺だ。それなのに「ごめん」などと言われ、どのような顔をしていいかわからない。言い捨てて浴室へ向かおうとする俺の背に、黙りこんだ彼女の視線を痛いほど感じる。
今なまえはどのような顔をしているのか。泣きそうになっているかもしれぬ。駆け寄って抱きしめて、一昨日からのことを詫びたい。だが俺は心身ともに疲れていた。シャワーを浴びて一刻も早く眠ってしまいたかった。
無感覚に浴室のドアを開け足を踏み入れれば、中は湿気に温まり浴槽には適温の湯が張られていた。
いつ戻るかもわからぬ俺の為に、こうして風呂の用意をしておいてくれるこれも彼女の気づかいだ。そう思えば激しい自己嫌悪に胸を掴まれる。
乱暴にシャワーのコックを捻り頭から水を浴びた。
元旦に休みを取っている。彼女に告げたい言葉がある。だがこのように情けない男が彼女に求婚をするなど、とんだお笑い種ではないだろうか。
どれほど心が乱れても、時も仕事も俺を待ってはくれない。そしてこの御しがたい感情を己で処理できぬまま引きずっている。
俺は俺自身の本心となまえを思いやりたい気持ちとの狭間で酷い矛盾を抱えていた。これがただの醜い嫉妬だと気づきもせずに。


This story is to be continued.




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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