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04


冷え切った外気温との差のせいで、浴室の磨りガラスの内側にはびっしりと水滴が張り付いている。水滴は少しずつ寄せ集まり重さに耐えかねて幾つも筋をつくる。
浴槽に身を沈めた俺は、ぼんやりと小さな窓を眺めていた。心に溜まる澱というのはこれと似たようなもので、時に限界を超えるのだろうか。自身を制御することは得手だなどと考えていたが、それはどうやら思い上がりだったようだ。
遥か昔のことになるが、初めてなまえの唇に触れた時。あれは高校卒業を控えた頃だったか。今俺を翻弄しているこの感情とあの時の気持ちはそっくり同じで、結局なまえのこととなるといつであろうとまるで自制心が働かない。年齢だけは重ねても、こうして共に暮らすようになっても、彼女への想いは苦しいほどに胸を焦がす。
全く俺という男は何故これほど進歩がないのだろうか。ふと自嘲が漏れかけた時、何気なく目を向けたパネルドア越しになまえの影が映った。はっと息を飲めば声がかかる。
「はじめ、」
「…………っ、」
「あの……、ちょっといいかな」
「な、なんだ……っ」
予想もしていなかった驚きに体勢を崩し、湯が音を立て大きくうねる。うっかりと顔まで水没しそうになった。
先ほどの俺の態度はとても褒められたものではなく、昨日の失言に気分を害した様子だったなまえの表情も蘇り激しく動揺する。
何を言いに来た?
なまえの指がドアにかかり「待て」という制止は聞き届けられずにドアは開かれ、思いつめた目をしたなまえが中を覗きこんだ。
時間的な制約のある生活の為、なまえと共に風呂に入ったことはこれまでにない。のみならず相手は着衣で自身だけが無防備な裸というこの状態は、非常に居心地の悪いものである。湯の中で硬直し目を瞬くしか出来ぬ俺を、彼女が真剣な目でじっと見つめる。
「喧嘩をしたくない」
なまえはそう言った。切なく訴えるような彼女の姿を固まったまま無言で見つめ返す。
「誤解やすれ違いはもう嫌なの」
「…………、」
「だから疑わないで欲しいの。私は一だけなんだよ」
「……も、もう、……もうよい、わかった」
絞りだすように答えればなまえはなお縋るような目をした。
「信じてくれる?」
「……し、信じる……」
いったいお前は、そういう目つきやその一挙手一投足が俺に与える影響というものをわかっているのか。
「もう、怒ってない?」
「……怒っていない」
「……あの、それなら……、」
「ま、まだ、何か……」
「よかったら、仲直りに、背中流そうか……」
「…………!?」
「だめ、かな」
……わかっていないのだろうな。
再び絶句した俺は湯に浸かり過ぎたせいか、それとも想像を超えた彼女の可愛らしい発言のせいなのか、のぼせ上がってくらくらとした。
落ち着かねばと片手で顔を覆えば、応えを待つかのようなそして明らかに期待をこめた声で「はじめ?」と名を呼ばれる。
「……た…………頼む」
そのまま濡れた前髪をかきあげ彼女に晒す顔は、恐らくとんでもなく赤くなっていることだろう。俺と視線の合ったなまえは嬉しそうに笑った。
俺はなまえには敵わない。




原因は俺の的外れな嫉妬であったと自覚し、彼女と俺の関係は元に戻った。風呂場に急襲してきたのは、なまえにしてみればかなりの覚悟が要る行動だったと後で聞かされ、それを思い起こせばつい頬の筋肉が緩む。
あの日は料理を習いに行く最後の日だったようだが、俺は結局何も言わずに送り出すことにした。
何があろうとも彼女への愛情が変わらぬのは元より、なまえが誰かに奪われるなど危急の際には全力で取り戻すまでだ。彼女の想いをストレートに聞かされれば妙に前向きな気持ちになる。これはきっと惚れた弱みというやつで、俺は存外現金な男なのだなと可笑しくもなるが、このようにして些細な諍いはあの朝に収束を見たように思っていた。
今年も残すところもう一時間もないという、ぎりぎりに押し詰まった大晦日の夜。早朝から勤務に就き何とか年が変わる前に帰宅する。
地下駐車場に車を停め安堵の息をつきながらエレベーターに向かいボタンを押せば、程なく到着した箱の中から意外な人物が降りてきた。
「先日はどうも。今ご帰宅ですか」
「ああ、……いつものことです」
吊り気味の瞳を僅かに緩め声を掛けてきたのは隣人の山崎だった。急いでいた為「失礼」と閉ボタンを押そうとしたが、あの日玄関先で出会った時よりも幾分機嫌がよさそうな彼は言葉を続けた。
「ご結婚されて長いのですか」
「…………?」
この男はどうやら勘違いをしているようだ。
一年になろうとするなまえとの生活自体には慣れたが、やはり結婚と言う言葉は特別の響きを持つ。ましてやそれを他人に言われれば面映ゆい気持ちと照れくささが押し寄せ「いや、まだ……」と歯切れ悪く返答をすれば、彼は別の意味で納得してみせた。
「新婚ですか、道理で。奥さんを斎藤さんとお呼びしてたんですが、時々反応が遅れたりして初々しかった」
「…………、」
「ああいう嫁さんを貰えるなら結婚もいいと俺にも思えてきましたよ」
山崎は「大切にしないと取られますよ、本当に可愛らしい奥さんですから」とさらに続けたが、そのあたりからの話は耳の上を滑るばかりでろくに聞こえておらず、どういうわけか俺は胸が一杯になっていた。
無言になった俺に気づき「お引き留めしました、申し訳ない」と彼は腕時計を覗き踵を返そうとする。
「ああ、では、これで失礼する。つ……妻が待っている、ゆえ」
その背に向かいつい余計なことを言った俺は、己自身の台詞に驚愕し赤面した。振り向いた山崎はにこりと笑う。
「奥さんによろしくお伝えください。良いお年を」
なまえが敢えて俺の妻であると語り山崎の家に行っていたのか、それとも彼が勝手に勘違いをしていたのか。だがそれはもうどちらでもよかった。
階数表示の11階が点灯するまで落ち着かず、エレベーターを降りてからは深夜というのにいつになく浮き足立って歩き自宅の前に立つ。鍵を差し込めば回す前に、まるで待ちかねたようにドアは内側から開かれた。
「一、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
「お誕生日おめでとう」
その言葉に続いて部屋の奥から漏れ聞こえてくるテレビの音が新しい年に切り替わった事を教え、なまえの細い腕が俺の首に回る。「間に合った」と微笑む愛おしい彼女を受け止めながら身の裡に心からの幸福が湧き上がる。
「なまえ、」
「あのね、私、プレゼントを……、」
「待ってくれ。先に聞いて欲しいことがある」
「なに?」
俺にはまだ伝えていないことがある。先日なまえに心無い事を言った詫びもしていない。それから……。なまえの肩を両手で掴んで少しだけ身体を離し、その瞳をじっと見つめた。
「先日、俺は酷く配慮のないことを言った」
「え」
「それをお前にまだ謝っていなかった。しかし、無論あれは本心ではない、それだけはわかってほしい。このようなつまらぬ嫉妬をするような俺では、お前は嫌かもしれぬが、だがどうしてもお前を諦めることは出来ぬとよくわかった。今後努力をするゆえ、それゆえ……出来ることならば、その…………欲しい物がある、のだが……」
何を今更と言うような顔で一度微笑み、しかしなまえは「欲しいもの……?」と改めて俺の言葉を繰り返した。その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「……お前だ」
「…………、」
「お前のこれから先の人生を、すべて俺にくれないか」
「…………え…………それって……、」
「……その、つまり、正式に入籍をしたいということを、言っているのだが……、い、嫌だろうか……。だが嫌と言われると困る。これから努力をする。お前の前では全くどうしようもない男だという自覚はあるが……だが……これからは…………」
足りない語彙を必死に駆使する俺をしばらくキョトンと見ていたなまえがやがてゆっくりと頬を緩ませる。かと思うとプッと吹き出した。俺の首に再び腕を回すと声を立てて笑い出す。
「なにがおかしい」と憮然としかけるも、次のなまえの言葉に意表をつかれた。俺の首元に顔を埋めて彼女はまだおかしそうにくすくすと笑っている。
「だって、そういう一が好きなんだもの」
「……は?」
「どうしようもないところが一番好き」
「…………、」
「だって、一は昔からしっかりしてて隙がなくて、勉強もスポーツもなんでも出来て格好いいし女の子にはモテるし、全然追いつける気がしなくて。焼きもちなんて私だっていつも焼いてた。そんな一が私の前でだけどうしようもないところを見せてくれるなんて、そういうのって…………、私、嬉しくて……すごく嬉しくて……、だからずっと待ってた……」
あまりにも意外な答えに彼女を抱きしめたまま俺は瞠目した。
「早く一と同じ苗字になりたかった」
「…………そ、そう……か……」
「一のことが嫌なわけない。小さい頃からずっと好きだったもの。それ、知らないわけじゃないでしょう」
「……そう、だな」
「会えない間の何年間もずっと一は何も変わってなかった。いつまでも変わらないで。飾らないそのままの一が好きだよ」
次々と流れ込んでくるなまえの言葉は心地よく耳から心までをくすぐり、俺は感極まってそれ以上の言葉が出ず、抱き締める腕にただ力を込めることしか出来ない。想いはまるで合わせ鏡のように同じで、彼女の言葉をそっくり復唱して返したいくらいだった。しばらくそのままの体勢で彼女の身体を抱きしめていた。
「同じだ、俺も」
ややしてから一言だけ小さく零せばなまえが腕の中で俺を見上げる。みるみる潤んでゆく瞳に俺は俄かに慌てる。
「泣かせるつもりではない。すまん」
なまえはぱちぱちと目を瞬いて「泣いてない」と口を尖らせる。そうして照れ笑いをする。「笑ったり泣いたり忙しいな」と言うと舌を出した。
本当はなまえを連れてどこか気の利いた店に出掛け、シャンパンでも開けて「結婚してくれ」と改まって言う心づもりであった。その為に元旦に休みを取ったのだ。だが駐車場のエレベーターで『山崎』と会ってしまった為に勢いが余り、全く想定外の状況でプロポーズまでしてしまった。
つまりこうしていつであろうと間が悪く、洒落た真似など到底出来ぬ俺という男はなまえの前では常に切羽詰まっている。彼女の言うとおり、彼女への想いを自覚したあの頃から何も変わらないのだ。
だが俺は俺でしかなくなまえはなまえだ。それで良いのだろうと思えば、俺の口元もふっと緩む。
総司に言われた言葉が頭を掠めた。

女の子はね、ちゃんとした言葉や約束やモノが大事なんだよ

思い出して、抱き合った格好のままで彼女の背に回した手を動かし、片手に持ったままのビジネスバッグの奥を探った。用の済んだ鞄を脇の靴入れの上に置き、取り出した小箱をなまえの目の前に持ってくる。
それは鞄の底に長く入れっ放していたせいで微妙に形が歪み、綺麗に掛けられていた筈の包装紙にも皺が寄っている。一生に一度の贈り物であるが、結局これも俺のすることだと苦笑すれば、目にしたなまえの瞳が見開かれた。
「開けてみろ」
「これ……」
なまえの身体を抱き直す。彼女は身じろいだが今はとても逃がしてやる気にはなれず、俺の腕の中で幾らか窮屈そうにしながら、それでもいそいそとした様子で包装を解いてゆく。
どういったものがふさわしいかなど分からぬ俺が、宝飾店の店員のアドバイスのままに買った0.5カラットのダイヤリングだ。ケースから指環をつまみ上げなまえの手を取り、薬指にゆっくりと嵌めた。その様に目を落としているなまえが鼻を啜り上げる。
「傷は治ったのだな」と言えば「うん」と彼女は恥ずかしげに笑んで俺を見上げ、滲んだ涙を飛ばすかのように何度も瞬きをして、そうして白い手の甲を俺に向けた。
「似合う?」
「よく似合う」
心からの安堵と満足を感じながら彼女の目尻を親指で拭い「後はお前がサインをするだけだ」と今度は胸ポケットから封筒を取り出す。指環の光る彼女の手が封筒を掴み、そのまま俺の胸に顔を埋めて胴を強く抱きしめた。
「言っておくが、一年の試用期間があったゆえ、クーリングオフはなしだ」
「うん……、一こそこんな筈じゃなかったとか……後で言わないでね」





「なまえがこれを」
「うん、昨日から作ってたの」
テーブルの上で緋色の漆塗りの蓋を取れば、一が目を見開いて感嘆の声を出した。何だかいつものクールな雰囲気を投げ捨てて子供みたいに目を瞠り、お重の中を眺めている姿に嬉しくなる。
一の重二の重の中身も教わった通り、とりどりの料理を彩りよく詰めてあり、味の方も山崎さんのお墨付きをもらってあるから大丈夫な筈。
玄関脇の使っていない部屋にお重を置いていたのは知っていたようで、この為だったのかと微笑んだ。レシピの本のこともそうだったけど、彼は見ていないようで結構見ているらしい。今後サプライズをする時はもっと気を使わなければいけないなんてちらりと思う。
「隣に行っていたのはこの為か、」
「うん、まあ……、ご飯を作るくらいしか、私できないから」
「いや、俺の……俺の妻は只者ではない」
そう言って一が私の身体を引き寄せた。妻なんて言われてカッと頬が熱くなる。
「最高のプレゼントを一度にもらった。今から堪能したいと思うがいいか」
「じゃ、私、お雑煮の用意するね。あれ、お蕎麦のほうがいいかな。お酒も一の好きな銘柄が手に入って……」
「食事は少し腹を空かせてからにする」
「え、」
「料理を味わうのは熱を冷ましてからの方がいいだろう?」
「ねつ…………?」
顔を寄せてくる一は何とも言えない色気を孕んだ目で私を見ていて、彼の考えていることを悟った私は及び腰になる。
「待って。だって元旦の仕事は何時から? 一の眠る時間が、」
「休暇を取っている」
「え! ……どうしてそれ、教えてくれなかったの?」
「それは……そうだな。サプライズみたいなものだ」
回された腕に強い力がこもり、彼に冗談のつもりなんてさらさらないということはわかったけど「今年の最初にすることがそれ?」と軽く抵抗をして見せれば「駄目か?」と問い返され、急にそんな不安げな顔をされてしまったら、結局私は彼の意のままになるしかなくなるのだ。これは多分惚れた弱みというんだと思う。
揺らめいた濃藍の瞳がゆっくりと近づき瞼が閉じられていくのを目にすれば、一ってなんて綺麗な顔をしてるんだろうなんて場違いなことを考えて、互いの鼻先が触れ、深く合わさった唇の隙間から滑りこんでくる彼の侵入を受け入れたらもう最後。私の身体は震えるような疼きにとらわれてゆく。
甘い吐息を零しながら長い長い口づけの後、彼が私を横抱きに持ち上げた。
「あ、あのね、」
「なんだ」
「思い出したんだけど、緋紗子ちゃんから一が帰る少し前に電話もらってたの。朝からおいでって。休みなら一緒に行けるね」
それを聞くなり一は少しだけうんざりした顔をする。
足を止めず寝室に向かった彼は、私をベッドに下ろすと上着を脱いで私を組み敷き「俺はあまり会いたくないが」と言ってまた唇を寄せてくる。口元から耳朶へと滑る唇が熱い息を吐いて擽るように囁く。
「せっかく二人きりでいるのに」
「そ、そうだけど……」
「朝まで寝ずに愛していいか」
「でも……朝からって、約束だから……」
「放っておけ」
彼の手が私の服にかかり、中に忍び込む。流されそうになりながら、だけど私の頭の中にはまだ緋紗子ちゃんがいて、一の奥さんになったら彼女はお義姉さんになるんだし、せっかく待っていてくれるのに無視なんてとても出来ないと必死で彼を押し返した。
「やっぱり! やっぱり先に電話しておく、お昼に行くって。こういうことは早めに連絡しとかないと」
あからさまに不満気な顔をして一が私の上で身体を起こした。ふいと横を向いたので、また怒らせちゃったかなと気になって見やれば、閉じていた口元がやがて僅かに綻んで「一応報告はしておかねばならんな。俺達の両親にも」と小さく呟く。
そしてその横顔がだんだんと、どこか嬉しそうな笑みに変わっていって、いつの間にかその目元を赤く染めた。
そんな彼に私まで嬉しくなって、幸せでたまらなくなってつい彼に抱きついてしまう。面食らったみたいに私を見下ろして困惑げに「なまえ、」と呟く声も、反射的に私を受け止めるその大きな手も、頬に触れる柔らかな髪も、ゆっくりと細められてゆく藍色の瞳も、一の何もかもすべてが愛しくてたまらない。
一の方こそ覚悟はできているのかな。返品不可だよ。だって私は一生あなたから離れるつもりはないんだから。



Because,You say you want to marry me.
HAJIME B.D.2016 Congratulations!


―Happy end.
2016.01.20~02.04




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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