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02


切り分けた蒲鉾の紅色に飾り包丁を入れる手つきに見惚れ、今度はきゅっと鬼すを巻いていく様にも私は見惚れていた。ふと彼が目を上げる。その手元には巻き上がった黄色い伊達巻がとても綺麗だ。
先週はつややかな黒曜石のような黒豆を煮た。栗を甘露煮にして薩摩芋で金色のきんとんも作ってみた。料理というよりも芸術品みたいなそれらに、私は夢中になった。
出かけた先は自宅から目と鼻の先。というよりもっと近い場所で、今私がいるのは隣のお宅のキッチンだった。
「やってみてください、斎藤さん」
「…………、」
「斎藤さん?」
「……あ、はい、」
「どうしました。体調でも?」
「すみません、やま……、いえ、先生の手際に見入ってしまっただけで、」
「先生はやめてくださいと言ったでしょう。山崎さんでいいです」
「……はい、では……山崎さん」
つんつんとした短髪で少し吊り気味の生真面目な目をした先生、もとい山崎さんが私を伺うように見つめ薄く微笑んだ。少々寝不足だったせいもあり“斎藤さん”と呼ばれてすぐに反応できず、我に返って少し俯いた。
私は一月ほど前からこの山崎さんに料理を教わっている。なにを教わっているかと言えば、お節料理である。昨年までは当たり前のように母が作ってくれたお正月料理を、生まれて初めて一の為に自分で手作りをしようと思い立ったのも一月前のこと。


山崎さんとの出会いは全くの偶然だった。
ある週末、買い物から戻った私は玄関の鍵を開けようとして、バッグの内ポケットにそれが見当たらない事に慌てた。無意識に「鍵がない」と口走っていたようで「落し物はこれですか」と背後から掛けられた声に振り向けば、そこにいたのは知っている顔の男性だった。バッグの中の本の表紙がすぐに頭を過る。
「あ、それです。すみません」
「すぐそこに落ちてました」
彼が手渡してくれたのは紛れもなく私が落した家の鍵で、受け取りながらホッとしつつ私の気はそぞろになった。鍵を拾ってくれたお礼を言うのもそこそこに、私はその人を穴が開くほど見つめてしまった。
彼を知っていると言えば少し語弊がある。知っているのは顔と名前だけ、しかもこちらが知っているだけで相手は私のことを知っていない。
ついさっき書店で買って来たばかりのレシピ本は季節のメニューが掲載されているが、その表紙に憮然とした顔で写っている人、それと全く同じ顔が私を見ていた。
固まった私に「失礼」と一言を残して隣のドアの前に立った彼は、近頃話題になっている新進気鋭の料理研究家山崎烝さんという人だったのだ。
まさか、この人がうちのお隣さん?
一年近くもこのマンションに住んでいたのに、いつも留守がちな隣人をこれまでに見かけたことがなく、驚いた私は改めて彼を見つめた。
「あの、」
「なんですか」
無表情で振り向いた山崎さんは私が思わずバッグから出した本に眼を留め、そして私の立つドアに掲げられた表札のプレートにちらりと眼を走らせた。
その人が突然目の前にいたことにうっかり動揺してしまった私は、不意に自分のしたことが恥ずかしくなり慌てて本を戻す。
「なんでもないです、すみません」
「俺の本を買ってくれたんですか。ありがとう」
「いえ、不躾にすみませんでした。鍵、拾ってくださってありがとうございました」
ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込みかけると、私が呼び止めてしまった山崎さんはそのまま私の動作を見ていたが、おもむろに意外なことを言った。
「斎藤さんのご主人は仕事のお忙しい人ですか」
「え?」
「俺も生活時間が不規則ですが、深夜に帰宅されるところを何度かお見かけしたことがあります」
「……そう、なんですか」
私が驚いたのは彼の言った“斎藤さん”と言う名が私を指しているようだったからだ。そして“ご主人”というのは恐らく一のことだ。山崎さんは小さな誤解をしている。ドアのプレートにみょうじという私の苗字はなく斎藤とだけ書かれ、それはそう大した理由ではなかったのだけど、知らない人が見ればそう受け取って無理はないかも知れない。
でもそれを悟っても、山崎さんの言葉を訂正しなかったのは私だ。だって、ゆくゆくは結婚を考えてるけど今はまだ同棲の状態ですなんて、わざわざ説明するのもおかしいと思ったのだ。
それに斎藤さんと呼ばれることに、私自身が密かにときめきを感じたと言う理由も実は大きい。ほんのひとときでも一の奥さんの気分を味わいたい、そんな軽い気持ちだった。
私は仄かに熱の上る頬を押さえる。
「ご主人の為に料理を?」
「……ええ、……はい」
「何を作りたいのですか」
「……お節料理を、作ってみたくて」
ぽそりと言えば山崎さんは切れ上がった目尻を僅かに下げ、表情を和らげた。
「普段使わない食材を使うのでで敬遠されがちですが、あれは調理そのものはさほど難しくないです。しかし飾り方や重箱の詰め方に少しコツが要りますね」
「はい」
「時間のある時で良ければですが、俺が教えましょうか」
「え?」
料理を生業とするプロの思ってもみなかった親切な提案に、私は深く考えもせず一も二もなく頷いてしまった。
だからと言って一に料理を習うことを隠す気なんて私にはなかった。秘密にしたかったのは、山崎さんの勘違いの部分。婚姻届を出したわけでもないのに斎藤さんと呼ばれていることを、一に知られることが私にはとても気恥ずかしかったのだ。


簡単と言われてもそれはプロの意見であって、素人のにわか主婦にとってお節料理はやはり難しい。近頃では現代風にアレンジしたものも増えているけれど、私は食材や調理法に意味の込められた日本古来のスタンダードなものを希望した。
山崎さんは料理の文化や縁起についてなど、一つ一つ丁寧に話して聞かせてくれながら手順を説明してくれて、そういうところがどこか一みたいだとなんだか少し可笑しくなる。
一に負けず劣らずに生真面目な様子の山崎さんに料理を教わることに、最初はかなり緊張もしたけれどすぐに打ち解けた。表情は薄いけれど時々見せてくれる笑顔なんて、顔立ちは全然違うのにすごく似て見える。彼はとても気さくでもあった。素人の私にも決して上からものを言うようなことはなく、そういうところも好感が持てて、いけないと思いながらもつい無駄話をしてしまう。
「こういうお料理をご自分で作れるなんて、とても羨ましいです」
「本当に美味いのは調理の技術や手が込んでいることよりも、人の手で作ってもらった料理だと俺は常々思ってますが」
「そういうものですか?」
「そういうものです。自分の作ったものを自分で食べても味気ないでしょう? 俺から見れば、あなたのご主人の方がずっと羨ましいですよ」
わかりやすく赤面する私を横目に、彼はすっかり片付いたテーブルの上の箱の蓋を取る。
「例えばこういうアップルパイは、俺には絶対に作れません」
「あ、それ……、そんなふうに言っていただくとかえって恥ずかしいんですけど」
それは昨夜一の為に焼いたものと同じアップルパイで、私が作れて唯一得意と言ってもよいお菓子なのだが、やはりプロの目の前に出すには恥ずかしい代物に思えてくる。
山崎さんは以前定期的に教室を開いていたが今は止めてしまっていて、それは本の出版やマスメディアへの露出が増えてしまった所為なのだと言う。かなり粘ってみたのだけれど「個人に教えるのに受講料なんかはびた一文取れません、隣人の誼というものです」と根は頑固そうな瞳を真っ直ぐ向けられてきっぱりと言われてしまった。それならばと彼にせめてものお礼として焼いたものだけれど、今更ながら山崎さんに手作りのお菓子をあげるなんて、私ときたらなんて大胆なことをしてしまったのだろうと悔やんでみてももう遅い。
きちんと使いやすく整理され動線を考えて配置された清潔な山崎さんのキッチンで、調理器具を片づける私の為にコーヒーを淹れてくれながら「いただいていいですか」とアップルパイを口に入れている姿。作った料理の試食もしたのに、彼には多分にサービス精神が入ってるよねと思いつつもそういう優しさの部分というのだろうか、それがなんとなく恥ずかしくもあり、だけどやっぱり嬉しくも感じる。
今朝の一もお料理を食べたあとだと言うのに、この同じものを大丈夫かなと思うほど沢山食べてくれて、つい頬が緩んでしまったことをふと思い出した。





毎年の年末、クリスマスとなると何かしらのトラブルが起きるのはもはや偶然とは思えず、恒例のようなものだとさえ感じてため息が漏れる。今回のインシデントはチームの機能不全によるもので、エンドユーザを激怒させたことに始まっていた。メンバーの皆が複数の案件を抱えているにもかかわらず新規案件が上がればそちらに引っ張られる。引き継ぎを忘れるなどという実にお粗末なミスが起こるほど、常に人手不足の逼迫した境遇にあるのだ。
無駄に時間が流れている気がした。
何度腕時計を見ても虚しく時間が過ぎるばかりである。このようなものはトラブルソリューションとは言えない。会社に着くなりいつ呼び出されてもいいように待機しろと、誰が聞いても全く無為な指令を与えられた。
手元に在る資料も目が上滑りをするだけだ。こういうことは初めてではないが人手が足りず起こるトラブルに対処する為に、拘束されながらもこうして遊ばされる身は幾度経験しても全く納得がいかぬ。俺は掛けていた椅子に深く座り直し目を閉じる。
年が明けたらなまえとの生活も二年目を数える。俺の帰る場所はなまえの待つ部屋だ。彼女と心が通じてからの日々、そうして同じ部屋に帰るようになってからの日々、この上ない幸せを感じていた筈だった。
伴侶として共に生きてゆくことを無論考えていたし、それは互いに暗黙の合意と俺の方は思っていたが、総司の曰く「女の子はね、ちゃんとした言葉や約束やモノが大事なんだよ」に、流石に何かきちんとした形を取らねばならぬと思い直しもした。しかし仕事に忙殺される毎日の中、時間がままならずという状態が続き、気づけば今年も残りわずかとなっている。
最先端の技術を扱うIT室でそこにいるのがスペシャリストの集団であったとて、時間にも人間の持つ能力というものにも限界があるというのと結局は同じかも知れぬ。メンバーの調整の為無駄に連日の招集となったが、これを空回りというのではないか?
今年のクリスマスも側にいてやれなかったなまえだが、彼女はそのことを問い質すどころか文句ひとつ言わなかった。

無駄に流れているのは、この時間だけか?

共に暮らし始めてからというもの、なまえは出来過ぎた妻のようだった。俺は彼女を家政婦のように扱う気など毛頭なく、常にゆるぎのない愛情を感じている。
しかし実際はどうだ。己の心がどうあれやはり彼女の立場は、俺に対する滅私奉公のようにすら思えてくる。一方の俺はどれ程不本意であっても彼女の為に何もしてやれていない。
俺はまだ正式なプロポーズというものをしていなかった。家族を含む周りの状況に障害は一切なく、問題は時間のないことだけであるが、結局はそれ故に切り出しそびれていた。
ビジネスバッグにずっと忍ばせている小箱のことが頭を掠める。
あれをクリスマスというイベントに乗じ渡してしまえばよかったのかも知れぬ。
しかし昨夜は欲求が勝った。そして今朝はあの調子だった。俺はいつからこう余裕のない男になったのか。なまえを大切に思えば思うほど。彼女の寝言にさえも一喜一憂する己に自嘲が漏れる。
31日まで休暇は取れないが、元旦はオフにしている。なまえを驚かせたいといういつにない考えもありそれをまだ告げていない。予定を話してもいつ変更になるかわからぬゆえ、俺にはスケジュールを知らせる習慣が元よりなかった。
ファシリテーターの梃入れが入ったことにより、昼を過ぎてから思いがけずに浮いた時間が生まれた。
室長には「来たばかりだろう。帰るのが面倒ならこのままいていいぞ」と言われ、居残りを決め込む者もいたが俺は当然一時帰宅をするつもりだ。夕食を済ませた頃にはまた出社をせねばならぬが、その程度は苦になどならない。面倒どころか、今はいつも以上に少しでもなまえの顔を見たいと思う。こう言った場合に車を手に入れてよかったと心から思う。
ビジネスバッグを取り中に手を入れれば触れる箱。しばし思案する。
いや、しかしこれはやはり、時間に余裕のあるときにするべきだ。その為に多少無理をして一日をオフにしたのだ。女性を喜ばせる手管など知らぬ俺だが、物事には時と場合というものがある事くらいはわかっているつもりである。
オフィスビルを出て迷うことなく歩き出す。ほど近くに月極駐車場を借りている。
歩きながらも先程からずっと途切れることなくなまえのことを考えていた。昨夜からのことを蒸し返すのは相当に決まりが悪いが、やはりもう一度謝っておきたい。
そして作ってくれていた料理への礼と詫びの気持ち、また一日遅れではあるがクリスマスの代わりに、今夜の夕食はなまえと共にどこか外へ出かけよう。
ポケットから出したキーを既に手にした俺は、足早に車へと向かいながら幾分高揚していたと思う。


This story is to be continued.




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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